『百家姓』−孫氏補足

『百家姓』はほとんど、大体が何だかの子孫であり、移り住んだ先の地名を姓にしただの、一族の有名人の名前を姓にしてしまっただのというのがほとんどですが、今のところひとつ、異様にややこしいのがあるので、補足としてスペースを設けます。
 それは孫家です。

 まず孫家ですが、もともと3種類います。
1、姫姓の孫氏。
 春秋時代の衛出身の孫氏で、9代目の惠孫という人の名前からとって孫姓を名乗る一族。これが河南孫氏です。

2、羋姓の孫氏。
 春秋時代の楚の令尹であった字を孫叔という人にちなんで子孫が孫と名乗っている一族です。

3、「女爲」姓の孫氏。
 周王朝建国以降、陳国に封じられた一族の後裔。
 まず陳に封じられた一族は、後裔が陳を名乗っています。
 その他に、春秋時代の間に陳詞の公子である完が齊に亡命して以降、公子完が陳完を名乗るようになります。
 この陳氏は別姓を田といい、後に齊の公位を簒奪します。
 陳完の5代後の陳無宇の次男である陳書という人物(簡単に言えば陳完の6代後)が齊景公の代に莒国を攻めます。このときに、おそらく成功を収めたと思われますが、褒賞として「孫」の姓を下賜されているのだと言われます。
 楽安という場所に封じられた陳書から始まる孫氏を、楽安孫氏、或いは山東孫氏と言います。

 楽安孫氏は、齊の内乱を避けるために分裂し、呉に移動します。このときの孫氏大移動(?)が孫武のころで、その後も呉に落ち着いた一族は孫武の次男の孫明から始まる一族であるとされます。
 孫明から始まる孫氏は、その場所が郡県制によって富春郡と改められたのを以て、富春孫家となったということ。これが三国志で有名な孫堅一族を排出した孫氏の流れです。富春龍門孫氏と呼ぶこともあるようです。
 さらに呉の内乱などによって富春孫氏の一部が移動、太原、清河、汝州に移動したとか。富春孫氏は分裂の果て、ついに一部は福建省まで行ったらしい…。

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