花王艶艶

 落葉、池の面が揺れる。
 女が足を止めて池を眺めていた。
「意に染まぬ結婚ではなかったと、お伺いいたしました」
 足元に木の葉が落ちる音だけが降っていたところへ、男の声が降ってきた。
 不思議な言葉を聞いたように、女は後ろを振り返った。
 背後には、若い男が立っていた。
「兄君の元へ戻りたくはなかったとは、本意でおっしゃいましたか?」
 男は自分の放った言葉を意外そうに振り返った女を興味深げに眺めた。
 女は、男にとって主の弟妹という存在だったのだから、無礼を働こうという意図ではなかったことは彼女にも想像がつく。そして彼女にとって意外な言葉を放った男は、近辺では豪族で名の通った家の出自なのだから、礼儀を知らないわけではない。
 彼女の不思議そうな表情は彼にとって以外であったと見えて、彼はきょとんとした彼女に向かってもう一度、同じ言葉を放った。
「兄君の元へ戻りたくはなかったとは、本意でおっしゃいましたか?」
 繰り返された男の質問に、女は一瞬、不快げに眉をひそめた。
 問われた彼女は名を仁。孫仁という。
 問うた彼は名を遜。陸遜という。
 陸遜の問に、孫仁は大きな目をわざと見開いて陸遜を眺めた。
 それから彼女はひとつ微笑して見せた。
「本意でなければ、なぜ私がそのようなことを言う必要があるの?」
 孫仁の問に、今度は陸遜が意外そうな表情をした。
 それが面白いと見えて、彼女は好奇心を満面に浮かべて陸遜を眺め、それから自分が彼よりも先に口を開いた。
「あなたが思うよりも有意義でしたのよ。夫になった人も面白い人だったし、その周りの人たちも面白かったわ。ぶっきらぼうで無口な将軍をからかうのも楽しかったのよ」
 孫仁の言葉に陸遜は唇を引き結ぶ。
 唇を湿らせてから陸遜は口を開いた。
「はじめから、ご自分の結婚を嫌とはお思いになりませんでしたか?」
 陸遜の表情のない言葉に、孫仁は彼の寂しげな意思を見たような気がして、しばらく彼女は何も言わずに陸遜を見つめた。陸遜の表情は淡々としているが、彼女には、どこか縋るような瞳を向けられているようにも思えた。
 鳥の羽音が風と木の葉をかすめる。
 ちりんと孫仁の足元で玉が触れて音を響かせた。
「陸伯言、ご自分の結婚に不服でも?」
 孫仁の言葉に陸遜は目を見開いた。
「あなたが、私があなたと同じように兄に迫られて結婚をせざるを得なかったと思っているのならば、それは間違いよ」
 孫仁の言葉は、静寂を支配する強さを持っていた。
「あなた、私を誰だと思って?」
 陸遜は答えなかった。
 答えはわかりきっている。
 彼女は仁という名を持つ、主の弟妹だ。
「私は孫家の娘よ。あなたが陸家を生かそうとするように、私は孫家を生かさなくてはならないの」
 孫仁の言葉に、陸遜は目を伏せた。
 彼の様子を、孫仁はじっと眺めた。
「私、自分の結婚に不満を感じたことは一度もないのよ。例えそれが政略結婚であったとしても、私には孫家が生き延びる最上の道を選ぶ義務があるの。仲謀兄さまと同じ。あなたにも陸家を生き延びさせる最上の道を選ぶ義務があったのではなくて?」
 それを義務とは言われたくないと小さく陸遜は反論する。
 孫仁の目が険しくなった。
 それから、それは義務よ、と小さく言う。
「政略結婚は不本意ではないのか、出戻りになるのは本意ではないのではないか。自分自身が政略結婚を受け入れたあなたにそれを聞かれるのが一番不本意だわ」
 陸遜の目が孫仁から逸れる。
 女を強いと思ったことは幾度かある。
 それは、例えば戦に出る前、縋りつくような目を自分に向ける時であったり、或は、喧嘩の末に女が目を伏せてしまい、男が謝らなくてはならないと思わせるような時であったりする。孫仁の目には、そのどちらもない。守るべき対象としての女ではなく、孫仁は陸遜と対等の者だった。
 彼女の目には、今まで陸遜が彼女に抱いてきたような、遣り切れない痛々しさではなく、毅然とした自信と矜持が宿っていた。
「あなた、今までに自分が間違ったことをしたと思うことはあって?」
 孫仁の言葉が虚空に溶け、陸遜は目を細めた。
 今までに、間違ったことをしたと思ったことはない。戦に行くときでさえそうだ。自分が孫仁の兄に恨みを抱いたように、自分もまた、自分が殺した兵士の家族には、恨まれているのだろう。それは、互いに敵同士だったからだとはいえ、今では投降して同僚となった男に、父を殺された青年が延々と相手を恨んでいるのが良い例ではないか。しかし、それは戦乱の中にあって、仕方のないことでもある。自分に思慮が無ければ、自分はその青年と同じように、延々と孫仁の兄を恨み続け、陸家を滅ぼしていたに違いない。そして戦乱の時代に生まれた自分にとって、例え恨みを生むということがあっても、安寧に繋がるのであれば戦を厭うことはできない。陸遜は考えてから、「いいえ」と短く答えた。
 孫仁の目が、まっすぐ陸遜を見つめた。
「あなたは、あなたの結婚が間違っていたと思うことはあって?」
 耳を打つ言葉に、陸遜は心の臓を殴られたように思えた。
 孫仁の兄の娘を妻にしたことは、自分が間違っていたのか?
 一瞬、自問してから陸遜は、否、と自分につぶやいた。
 陸家を生かすための、最上の選択であったと、今では思っている。
「自分の結婚を厭うことのない男が、なぜ、私に問うの」
 陸遜が眉根を寄せる。
 その様子を見てから、孫仁は池の方へと目を向けた。背を向けられた陸遜は、背筋を張った孫仁の後姿を眺めた。
 孫仁から、言葉だけが陸遜に向けられた。
「嫌いだわ、そういうの」
 落ち葉が池の面に波紋を広げる。
 濃緑の水面を、空が青く染めている。
 陸遜の口からは、一言もこぼれない。
 次の言葉を、陸遜は何も訊かずに待っていた。
 しかし孫仁が続きを言うことはなかった。
 落ち葉を踏みながら、孫仁は池を離れた。
 離れて行く彼女の後姿を見送ることなく、陸遜は池を眺めた。
 白い雲が池の上を流れていた。
 水鳥が、池に映りこんだ雲を乱す。
 ひんやりとした風が、陸遜の頬を撫でる。
 彼の肩に、木の葉が落ちた。
 木の葉を払い、彼は池を後にした。
 水鳥が乱した雲は、乱されることがなかったかのように池に映りこんでいた。
 雲はゆっくりと水面を流れて、そして池を通り過ぎて、薄い影に変わった。
 池は水面に、一点の翳りもない青空を映していた。

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