玄天蒼蒼、人人走来
空を見上げていた。
弟と離れて何年ほどになるだろうか。
それをぼんやりと考えていた。
幼い頃から、自分が本を読んでいると真似をしたがる弟だった。
比較的、年の差があるからだろう。
近所の子供を見ているようだが、自分の弟だと思うとうれしかった。
弟が生まれたばかりの時には、父も母も弟ばかりにかまけ、自分は居心地の悪い思いをした事があるのも覚えている。
もっとも、それもすぐに子供の無邪気さで消えた。
弟と見た空は、これほど青かっただろうか。
蒼天とは、このことを言うのだと、初めて南の空を見たときに感動した。
これほどまでに青い空があるのだと。
この空ばかりは、いつの頃からも変わることがない。
春秋の男たちも、この空を見上げたのだと思うと、何ともつかない感慨に襲われた。
何年間、この空を見上げていただろうかと考え、それから彼は首を振った。
そうではないと思ったのだ。
何年間、この空を忘れていたのだろうというのが本当だ。
そして何年間、故郷の空を忘れていただろうと。
兄上と自分を呼ぶ弟は、いつの間にか自分よりも背が高くなっているようだった。
おまえは私の自慢の弟だと、幾度手紙に話しかけたことだろうか。
国さえ分かれていなければ誰もに、彼が私の自慢の弟だと言いふらしていただろう。
空を見上げて思う男に、声をかける男がいた。
「子瑜兄」
穏やかな表情を地上に戻すと、彼の前には見慣れた友人が立っていた。
諸葛子瑜というこの男が、諸葛孔明という男の兄であることを、この国で知らない官僚はいない。
青黒い灰色がかった、しかし透き通った真っ青な空は、黄色みを帯びている。
故郷のように白い空ではない。
空と雲との色合いははっきりとしていて、真っ白な雲は目にまぶしい。
「弟に会わなくてよいのか」
聞いてくる男に、諸葛瑾ははっはっと穏やかな表情を更に柔らかくして笑った。
「会う必要もない、弟の性格はよく知っているつもりでしてね。信に書かれた字は柔らかく几帳面だ。弟も色々と考えてここまできた。私が何を言う必要もなければでしゃばって弟の邪魔をする気もない」
田を渡る風が頬に心地よい。
稲穂が色づき始めている。
「これほどの稲穂を故郷では見たことがない。ただひとつ、この一面の稲穂を見せてやりたい。もっとも、この景色は私のものでもないのだけれども」
この景色は私のものだと断言できるほど、諸葛瑾は図々しくなれない。
今頃弟は友人と舟に乗っている頃だろう。
そして数日もすれば同じ堂下に顔を合わせることになる。
十五で故郷を離れて、父の進める学問塾に行くようになってから、はじめて弟と顔を合わせる機会が、勢力争いをしている敵同士だとは何の因果だろうか。
懐を探るようにして手を止めた諸葛瑾を見て、友人は首をかしげた。
「子瑜兄、どうした」
懐には弟から初めてもらった手紙がある。
拙い字で、父に習って一生懸命に書いたのだろう。
おべんきょう、どう?
一度足元に落とした目線を上げると、真っ白な雲が流れていた。
「なんでもない」
答えながら、諸葛瑾は空をもう一度見上げた。
玄天。
とどまるところを知らない壮大な空、宇宙、青は蒼だけではなく、黒を含んでいる。
私の自慢の弟だ、子敬よ、どこまで渡り合えるか、見せてくれ
弟を迎えに出た友人に、諸葛瑾は内心で意味もなく語りかけた。
魯肅に頼んだ弟への信には、ほんの数行だけが書かれていた。
全力を尽くしなさい。
自分が故郷を離れてからも、久しく父の元にとどまることのできた弟が羨ましかった。
父の死に目がどのようなものであれ、弟は父の最期の言葉を聞くことができたのだと思うたびに、諸葛瑾は悔しかった。
父の死を手紙で知らされたときのことを思い出すたびに、その場に自分がいれば、子敬のように剣を使うことができるわけではなくても、それでもどうにかできたかもしれない。父を死なせずにすんだかもしれないという、どうにもならない自責の念がこみ上げる。
魯肅に言わせれば、それはできるはずのないことだと一蹴にされるかもしれない。
「弟が相手ではやりにくかろう」
ふいに聞かれて、諸葛瑾は戸惑った。
前を歩いていた友人に注意を払っていなかったわけではないが、空を流れる雲にばかり気をとられていたからだ。
「何が」
これは上の空だったかと笑われ、諸葛瑾は申し訳ないと、ばつが悪そうに苦笑した。
「弟が相手では、何を吹っかけられても交渉を断りにくかろうと言ったんだ」
繰り返された友人の言葉に、諸葛瑾は首をかしげた。
弟は弟だが、しかし役目は役目だろうと思ったのだ。
「おっしゃる意味がよくわからん」
心底戸惑ったような諸葛瑾の声を、この友人は始めて耳にした。
「何を言われても、私はこの軍にいて弟は別の軍にいる。将軍が、私が弟に情けをかけることを心配しているのであれば、それは心外だな」
諸葛瑾の目が、空を見上げる色とは違うものに変わったようにさえ思えた。
柔らかい眼光には、きつい光が差す。空の青を、真っ黒な眼に反射させて、玄天を映し出しているようにさえ見える。
「身内の情などは要らない。身内の情がなければ何もできないほど私の弟は無能ではありませんよ。それほどの無能者であれば、私は弟をここに呼びたいとは思わない」
居丈夫というわけではないが、北の血を身体に流す諸葛瑾である。氷のように澄んだまっすぐに射抜くような眼で、諸葛瑾は稲穂の向こうを見やった。
厳しさのない男だと思われている男が、時折見せる険しさがある。
ところがこの男は、友人へと目を戻したときには、普段のおっとりとした男の風貌しか見せない。
子敬兄が子瑜兄を注視するわけだと友人がつぶやいた言葉を、諸葛瑾は聞いていない。
弟が同じことを考えていると、魯肅に聞かせたのは諸葛瑾だった。
弟さんは、劉備についたのですから、私の助けが必要になるでしょうね
くっくっと人のよさそうな顔で笑いながら、人の悪いことを言った男が、今自分の知らないところで弟の目の前に座っている。
時代が荒れる。
それをどこか期待しながら友人が弟を連れて帰ってくるのを楽しみにしているような自分を、諸葛瑾は見つけていた。
彼の弟、諸葛亮が孫権と面会する数日前である。
冬の空に浮かぶ白い雲は、ただ飄飄と流れていた。