血塗れた手がすべって剣を取り落としたところで目がさめた。
 そうか、ここは陣中で、自分にあてがわれた幕舎の中で寝ていたんだ。
 横にはすこし年上ぐらいの年齢の兵士がやはり寝ている。
 彼らも初陣だと言っていた。
 頼み込んで来たのだと言うと、さまざまな答えが返ってきた。
 自分は少なくとも憧れて来たわけではないという兵士もいた。
 檄を受けて来たのではないのかと尋ねると、しょうがないのだと笑った。
 この時代に、ただ上の人間に怯えているのが嫌だっただけだと、他の将軍であってもよかったのだと。
 寝返りを打ち、その会話を振りきるようにして目を閉じた。
 目を閉じてしばらくは何も見えず、ただいつものように目の前に渦が回るような感覚だけがあった。だが、しばらくするとやはり血まみれの手を伸ばしてくる男が目の前に出てきた。
 なぜ助けてはくれなかった!なぜだ、なぜ助けてはくれない!
 叫んだ男の声が耳について追いかけてくる。
 仕方がなかった。
 自分が生き延びることをまずは考えろと言われてきた。
 戦場で人を助けることができるようになるのはまだ無理だと言われた。
 どうせ一つ所にいることに飽きて新しい遊びにでも行くつもりで従軍したいなどと言い出したのだろうが
 叔父の恫喝がこだまする。
 違う、違う、違う、私はただ、どうにかして旧態依然としたこの荒れきった時代をどうにかしたいと思ったんだ!
 自分の中で叫んだ言葉は、声にはならずにただ息を呑むことしかできなかった。
 自分の剣を手繰り寄せると、剣の柄にはまだ血の色が残っている。
 外へ出ると夜の空気が冷たく、頬を冷やす風が心地よかった。
 寝られないか
 声が聞こえて振りかえると、程徳謀将軍が立っていた。
 明らかに運が悪かったと言いたげな顔には、侮蔑という色はない。
 いつもそうだ。
 私に会うとこの将軍はさっさと足をよそへ向けてしまう。
 それがなぜなのか、聞きたいと思いながらいつも機会を逸している。
 腕を組んだままで私を見ている程将軍に、私は顔を上げた。
「幕舎へ戻ります」
 少しうつむいて、やっとのことでそれだけ小さく言うと、珍しく程将軍のほうからこっちへおいでと声をかけられた。
 その一言が、どれほどうれしいと思ったか。
 はじめてこの将軍に会ったときから、どこか父と面影を重ねていたことは否定のしようがない。
 邸の奥の静かな部屋にひとり寝かされていた私の、父との思い出は少ない。
 だからだろう、その一言は、誰からかけられる一言よりも、私にとってよほど重いものだった。
 人を斬って、気持ちよかったか
 不意にかけられた一言に何も言えなかった。
「怖かった、怖かったです、人が、重かった」
 つぶやくように言った私に、程将軍はうんとうなずいた。
「人というのは、重いものだ。例えそれが敵だろうと、人というのは重いものだ」
 程将軍の言葉が耳に響く。
 人の重さはひとり分じゃないと、続けられた程将軍の言葉に私は程将軍を見た。
「人の重さというのは、その人間の家族の重さでもある」
 家族の重さ
 口内で繰り返すと、程将軍がまたうなずいた。
「おまえはよく、一少爺と遊戯をしているときに奇策を弄する。それを将軍も気に入っている」
 それは自分が楽しいのでと答えると、程将軍はうむとまたうなずいて私から目をそらした。
「遊戯をするのは楽しいだろう。私がおまえの従軍を最後まで反対したのは個人的な感情をよそにしてのことだと弁解をしておこうか」
 程将軍の言葉にうつむいて、私は自分の指をいじった。
「私は怖かったのだよ」
 程将軍の言葉に、私は勢いよく顔を上げた。
 この将軍が、なぜ私が従軍することを怖がるのか。
「遊戯で奇策を弄する少年は、往々にして自分の策を実際に試したがる。その例があることはわかるだろう」
 程将軍の言葉に私はうなずいた。
「こういった場合その男にとって、うまくいっても、失敗しても、その目的はただ自分の策を試したいだけだということはわかるか」
 きょとんとして見つめる私に、程将軍は首を振った。
「目的が策の実践だというのなら、ここからひとりででも帰ってもらいたいと思ったのだよ」
 程将軍の言葉がよく飲み込めず、私は目をさまよわせてちらちらと燃える燭の火を見つめた。
 帰れと言ったのか。
 なぜだ、私は自分の務めを果たしているはずなのに。
 呆然とする私に、程将軍はもう一度口を開いた。
「目的が策を弄することであってはならんのだ」
 その言葉に、やっと私は気がついた。
 目的はあくまでも漢の復興であると言うのだ。
 私は首を振った。
「目的が策を弄することであれば、僕はここからもう逃げ出しています」
 私の言葉に程将軍がほうと腕を組む。
「怖かったんです、人を斬ったとき、怖かった、だから、眠れなくて外に出たんです。もし、策を試してみたいということだけが目的なら、僕はここからもう逃げてます」
 私の言葉に納得したようにうなずき、それ以上私を見ようとはせずに程将軍は自分の本を取り出して読み始めた。
 告辞と告げて程将軍の幕舎を出て、私は自分の幕舎に戻った。
 実際、私にとって策を弄することなどどうでもよかった。
 いろいろと考えれば楽しくてきりがないが、それでもそれが目的ではなかった。
 だが、私には、これ以上漢を支えようという気もない、それも事実ではあった。
 もし漢を支えようと思ったならば、孫軍ではなく、叔父の所へ行くこともできた。
 そこから逃げてくる必要もなかった。
 漢という国が、めちゃくちゃになってしまえばいい、私はずっとそう思っていた。
 古来、どんな国にも制度の欠陥はある。
 その欠陥がひどくなってきただけなのだ。
 だったら、ここで国が変わってしまえばいいと私は思った。そうして、張良に憧れたわけでもないが、一番よく知っているという理由で孫軍を選んだのだ。
 私の脳裏に、漢を立て直そうという考えなどまったくなかった。
 まったくだ。
 天下がほしいと思った。
 この蒼天に、旗が翻るのを想像した。
 青く晴れ渡った空に、風に翻る旗。
 いつか消える国だとしても、それを見たいと思った。
 幼馴染の孫伯符と遠駆けをしたときに二人で言った言葉が耳に聞こえた気がする。
 行けるところまで行ってみようじゃないかと。
 行けるところまで行ってみようじゃないか、それから、どこまでも馬を走らせるんだ、地平線がどこまで続いているのかを見てみようじゃないかと言った。
 この国をめちゃくちゃにして、それからどうする
 伯符の言葉に、私は答えた。
 この国をめちゃくちゃにしたら、おまえが皇帝だと。

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