銅雀台の剣の話し



 馬が疾駆する。
 栗毛の立派な馬だ。
 乗っているのは青年。
 漆黒の髪を、きつく束ねて纏め上げている。
 表情は硬い。
 目の淵を朱が彩る。
 青年の名を曹丕という。
 曹丕が馬の尻に鞭を当てる。
 風を切る。
 目の前には通りへの裏門がある。
 裏門を通り、父に言いつけられた銅雀台まで弟よりも早くつくことができれば、自分が勝ちをとる。
 裏門の前まで来て、見張りの兵士に行く手を遮られた曹丕は馬の手綱を思い切り引き締める。
 栗毛の馬は嘶いて棒立ちになると、少し足踏みをして踏みとどまった。
 曹丕が後ろを振り返ると、弟が追いかけてくるのが見える。

 後ろから弟がついてくるのを曹丕は舌打ちしながら眺めた。
「阿植の奴よりも早く剣を取れるはずだったのに」
 彼は弟を阿植と呼ぶ。
 曹植というのが弟の名だからだ。
 曹植の馬は青鹿毛だ。
 白に斑の青い模様が入っている。
 曹丕は門衛をたしなめるように声をかけた。
「銅雀台へ参る。門を開け」
 門衛たちが数人、顔を見合わせる。
 曹植の馬の駆ける音があっという間に曹丕に並んで止まった。
 横を振り返る曹丕に、曹植が目を合わせる。
「門衛の数人も退かせることができないで、それで父上の補佐か。兄上は甘いのだ」
 嘲るように向けられた弟の声が、突き刺さるように感じる。
 きりりと歯をかみしめて、曹丕は曹植を睨みつけた。
 ふたりの兄弟仲はよくない。
 門衛を手で払うような仕種をして、曹植は大声を張り上げる。
「我らふたり、父上の下命によって銅雀台へ参る。門を開け!」
 怒鳴られた門衛のうち、はじめに口を開いたのは門衛の中でも一番体格のよい男だ。
「父上とはどなたか」
 門衛の言葉に、曹植の神経が逆撫でされたのがよくわかる。
 曹丕は多少だが溜飲を下げた思いで弟に目を向けた。
 元来書生肌で色の白い弟の頬には憤りで朱が差している。
 こほと咳払いをして、曹丕はおっとりとした声で門衛をたしなめる。
「丞相閣下のご下命により、銅雀台へ剣を取りに参る。門を開け」
 内心のあせりは曹丕の鼓動を大きく、そして早鐘のようにする。
 耳の奥で心の蔵が早鐘を打つ音を、自分で聞きながら曹丕はあせってはならないと自分に言い聞かせる。
 門衛のうち、一番年長に見える男がどんっと槍を地面に打ち付けると、門衛たちが一斉に門の前で槍を交差させ、曹丕も曹植も思わず顔を見合わせた。
 槍を地面に打ちつけた門衛が、おもむろに口を開く。
「任何人都不許出此門(何人もこの門からでてはなりません)」
 誰下命(誰の命令だ)と曹丕が詰問する。
 門衛がきりりと曹丕を見上げて応える。
「是丞相下命(丞相閣下のご下命です)」
 曹植がいらいらしたように馬を足踏みさせる。
 唇を湿らせ、曹丕は考える。
「請開門!(門を開け)我有丞相下命(丞相のご下命がある)」
 曹植が怒鳴るが、門衛は退かない。
 しばらく曹植は門衛と睨みあったが、門衛が退かないと見るや引き返した。
 弟の後ろを見ながら、曹丕は眉根を寄せる。
 この弟はあっさりと引き下がるような男ではない。むしろ気に入らないことは力ずくで通す傲慢な青年だ。こちらも丞相の下命、門衛たちも丞相の下命、どちらの下命が本物かと答えを出さねば進まない。
 どどっと馬の疾駆する音がする。
 戦場のようなただならぬ音に背後を振り返ると、曹植が馬を疾駆させてくる。
 ははっと曹丕は笑った。
「怪不得(なるほど)、門衛を飛び越えるか」
 思い切り助走をつけた馬はほとんど棒立ちに近いような状態で門衛たちの頭の上を跳び越す。馬上で曹植が立ち上がるようにして鐙を踏みしめている。
 門衛たちが後ずさり、馬が門を越えると曹植が曹丕を振り返る。
「お先に失礼いたします、兄上」
 弟の背中を見ながら、曹丕は唇を引き締めた。
 ゆっくりと馬に足踏みをさせながら、曹丕は門衛に問いかける。
「何時受命(いつご下命を受けた)?」
 落ち着きを取り戻した曹丕の声に、門衛は応えなかった。
「丞相のご下命は、今日は如何なるご下命を持った方であれ、ここを通してはならぬということです」
 ふむと曹丕は鼻を鳴らす。
「父上は用意周到な方だ、任何人(いかなる人も)ではなく、父上からは私と阿植を通すなと下命を受けていたのではないか?」
 門衛は口元をにやりとさせるだけで、それでも曹丕には肯いて応えたように見えた。
 それならば、ふたりで銅雀台の剣を争って下命に反してもしょうがない
 馬をゆっくりと厩に戻し、曹丕はぽんぽんと馬の鼻を叩いた。
 廊下を歩く足取りは、それでもいくらか重い。
 阿植に出遅れた
 その思いがある。
 曹丕の兄としての面子は潰れたに等しい。
 銅雀台の剣を持ち帰ること、これには曹丕と曹植のふたりが必死になるだけの理由がある。
「持ち帰った者を後継とする」
 父・曹操の厳然とした言葉が耳に響く。
 そもそも自分は弟ほどには父からも母からも愛されてはいないと曹丕は思っている。
 同じように詩を好みながら、曹丕の詩を父は顧みたことはあまりないように彼には思える。彼にとって父が褒めるのはいつも曹植の詩だ。自分は曹植よりも年上なのに、自分の詩も褒めてほしいと駄々をこねるのは流石に嫌だった。弟を出し抜こうとすれば、いつでも母から叱られる。惨めだと思った。
 長兄のように父の身代わりとして悠然と父を逃がして死ぬわけでもなく、弟が褒められたことには嫉妬をする。
 それがどれほど自分を惨めにするか、彼は知っている。
 自分が愛されたいと思えば思うほど、自分を惨めにする。
 詩がお好きですか
 何気なくふらふらとしていた庭で、父がいつもするように好きな言葉を並べていた自分にそう問いかけたのは、父ではなく父の軍師だった。
 手に六韜三略を持った年長の男はにこりと穏やかに微笑んだ。
 詩は好きだと言うと、彼はそれならばと書庫へ曹丕を連れて行って詩経を取り出した。
 荀攸という軍師は、少年だった曹丕にあれやこれやと本を選んでは読ませた。
 後で聞いたところでは、荀攸と、その叔父の荀ケの家系には経学者がいるのだということだった。
 ここで、父の後継となることを諦めて堂下に戻るのだから、自分が荀攸を落胆させることは確実だ。
 落胆したからといって、手のひらを返すようなことをする荀攸ではないが、曹丕の気はますます重くなった。それからと彼は手のひらの汗を握り締めて考える。
 それから司馬懿という男。
 背の高い、飄々とした男だ。
 歳は自分よりもいくらか上だろうが、つかみ所のない男だ。
 私は父上に好かれていないんだと言うと、司馬懿は一瞬の間の後、にこりと相好を崩して私もどうやらそのようですと言ってのけた。
 普通の男ならば、そのようなことはないと曹丕を無理に慰めて見せたものだし、自分が好かれていないとなれば、躍起になって点数を稼ごうとするものだ。
 そのとき自分のするべきことをやってりゃそれでいいんですと言った司馬懿に、曹丕は笑い出した。
 焦ると損をします。焦る武将には負けしかありませんから、余裕をお持ちなさい
 司馬懿の声が朗々と耳に響く。
 堂下に入る扉の前に立って、曹丕はおおきくひとつ息を吸うと握り締めていた手をひらいて胸の前で合わせた。
「児子在下」
 叩頭礼をして、曹丕は顔を上げる。
 父の目が自分の胸元の手にあるのを感じる。
「銅雀台の剣は持ってまいったか」
 父の峻厳な声が耳を打つ。
 ございませんと曹丕ははっきりと口にした。
 その瞬間、自分はこれで父から好いてもらえることはないという暗澹たる思いがこみ上げた。
 居並ぶ臣下の半数からため息がこぼれる。
 半数のため息に曹丕は唇をかみしめ、それから報告を続ける。
「門衛には何人も外へ出してはならぬと丞相自らお達しがあったということ、まこと父上の下命に相違ないか確かめに参りました」
 父の視線が、心なしか和らいだように思える。
 相違ない
 曹操からの言葉を聞いた瞬間、曹丕は心中快哉を叫んだ。
 心臓が早鐘を打つのは、今日これで何度目か。
「部屋に下がりなさい」
 父の言葉に曹丕はゆっくりと堂下を退出し、廊下を走るようにして部屋に戻った。
 部屋に差し込む太陽の光が優しい。
 牀に転がると、ずいぶんと気が楽になった。
 あとのことなど、自分でどうできるものでもない。
 手を打って悠々としていれば、勝機はおのずと参ります
 司馬懿の言葉が脳裏に浮かぶ。
 敵を知り、己を知れば百戦危うからずですよ、公子
 荀攸の言葉が胸中を去来する。
 なにともつかないようなため息をこぼすと、ため息とためらいが一気に吐き出される。
 父からの呼び出しがあるまでと、曹丕はゆっくり目を閉じた。

 その夜、曹丕は母のところへは顔を出さないことにした。
 荀攸がにこりと微笑を向ける。
 にこりと微笑を返すと、曹丕は庭へ出た。
 歩きなれた庭を歩く。
 どこからか夕餉をひっくり返すような音が聞こえたような気がして、曹丕は思わず首をすくめた。
 曹植が癇癪を起こしているに違いない。
 派手な音を立てているのがいるようですなと司馬懿がとなりで頭を掻く。
 あれは母上が慰めてくれるのだろう、放っておけと曹丕が言うと、司馬懿は困ったように眉を下げた。
 親子そろってひねくれているのだからと言う司馬懿に、曹丕はきょとんとした目を向ける。
「親子そろってひねくれているだと?」
 曹丕に聞かれて、司馬懿はもう一度頭を掻いた。
「ひねくれていますとも、なにしろ父も息子も自分が本当に気になることとなると遠巻きにするのだから」
 司馬懿に言われて曹丕は口を曲げた。
「父上に似ているのは阿植だ。なにしろ父上は阿植のように欲しい物を欲しいと言わなければ気がすまないのだから」
 ふてくされたように言う曹丕に、司馬懿はご自分も本当はそうでしょと小さく言い返したが、曹丕の耳になど入ってはいなかった。
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