孫策周瑜の出会い編特集


 さて、東呉日報本日の特集(他に特集があるのかよ、しかも東呉日報ってなんだ/汗)は孫伯符さんと周公瑾さんの出会い特集です。
 二人の出会いは一体どのようなものだったのでしょう。

 さて、まずは文献から。
 外せないのは正史三国志です。


巻四十六、破虜討逆傅一
【本文】  堅初興義兵,策將母徒居舒,與周瑜相友,収合士大夫,江、淮間人咸向之。
【江表傅】  堅為朱儁所表,為佐軍,留家著壽春。策十餘歳,已交結知名,聲譽發聞。有周瑜者,與策同年,亦英達夙成,聞策聲聞,自舒来造焉。便推結分好,義同断金,勧策徒居舒,策従之。

 以上が中華書局の三国志五巻呉書に記載されている説明ですが、ここでは時代が確定できません。江表傅というのが、どこまで信頼性のあるものかはその時代の人間にしかわからないことです。
 それでは孫策の方の記述を挙げたところで本文から素人の解説。
『孫堅が初めに義兵を起こした際、孫策は母と舒に引っ越し、周瑜と友達になり、士大夫とも仲良くなった、江東、淮河の人は感心した』
 というようなふうではないですかね。あくまでもシロウトが意味のわかるようにやくしているだけですので、実際には誤訳もあるでしょうが、それはご指摘くださいませ。とりあえず私は読みながらこう意味を捉えているということです。
 簡単ですね、この説明。
 次に注釈である江表傅です。
『孫堅は朱儁に申し入れして補佐の軍になり、家族は壽春に留めた。』
 首を傾げる方もいるのではないでしょうか。この江表傅では呉夫人や孫策は壽春に残ったといっているのです。
 続きを見ましょう。
『孫策は十数歳で、すでに有名人と知り合いになっていて自分も有名だった。孫策と同じ歳の周瑜という者がいて、これも英雄気質で、孫策の名前を聞き付けて舒から来た。ついでに友達になって、義兄弟になって、孫策に舒に引っ越して来いと勧め、孫策は舒に引っ越した。』
 詳しいです。江表傅。陳壽よりも詳しく書いてあります。どうしてこんな情報が出てきたのかは謎ですが、とにかく江表傅によれば、同い年であっちこっちで名前を聞く孫策が気になって、周瑜が孫策のところに遊びに行ったということですね。
 ここでもいつのことかは書かれていません。
 とりあえず十数歳で、ということは十歳かもしれないし一九歳かもしれないということですが、周瑜は自分で壽春なんてところまで友達探しに行ってしまうようなお子様だったということがうかがえます。

 次に同じく正史から抜粋の周瑜伝です。

巻五十四、周瑜魯肅呂蒙傅九
【本文】  瑜長壮有姿貌。初孫堅興義兵討董卓,徒家於舒。堅子策與瑜同年,獨相友善,瑜推道南大宅以舎孫策,升堂拜母、有無通共。

 周瑜伝のこの文章には江表傅の注はついていません。
 この文章にやっと年代が出てきました。
『周瑜はいい男だった。初め孫堅が董卓討伐の義兵を興したときに、(孫家の)家族は舒に引っ越した。孫堅の息子の孫策は周瑜と同い年で、友達になって、周瑜は道向の南側の邸を孫策に貸して、(孫策の)母に挨拶し、仲良くなった。』
 やっと時代らしきものが出てきます。
 孫策伝と周瑜伝とを合わせて見ると、『孫堅が董卓討伐の義兵を興したとき』がきっかけで孫家は引っ越していると見られます。ということはこのときにはとりあえず周瑜は孫策に「うちに来い」と誘っているわけです。
 孫堅が董卓討伐の義勇軍に参加した詳細年代はわかりませんが、董卓討伐の義勇軍がこぞって出たのはまず献帝の時代、初平元年正月という記載があります。
 初平元年は西暦では190年で、この直後、董卓は献帝の父である霊帝を殺害しています。
 孫堅が献帝紀に出てくるのもこの年です。この董卓討伐の挙兵関して孫堅伝より抜粋です。

破虜討逆傅
【本文】  霊帝崩,卓擅朝政,横恣京城。諸郡並興義兵,欲以討董。堅亦舉兵。荊州刺史王叡素遇堅無禮,堅過殺之。

『霊帝が崩御して、董卓が朝政を独占して都を好き勝手にした。諸郡の武将たちはこぞって義兵を興し、董卓を討とうとした。孫堅も挙兵した。荊州刺史の王叡は孫堅を粗雑に扱ったので、孫堅は王叡を殺した。』
 呉書孫堅伝などではあまり年代の詳細はないのですが、これと後漢書献帝紀を並べて見ると年代を初平元年と確定してよいと思われます。

後漢書
巻九孝献帝紀第九
【本文】  初平元年春正月,山東州郡起兵以討董卓。(中略)孫堅殺荊州刺史王叡,又殺南陽太守張咨。

 まず初めに挙兵したのは山東の州、郡であったようです。
 それから、「この年の主な出来事」という部分に括られた最後に孫堅の記述が出てきます。
『孫堅が荊州刺史王叡を殺し、それから南陽太守張咨を殺した。』
 ということは孫堅は初平元年にはすでに董卓討伐隊に参加しているわけです。

 

中平元年三月(184年) 孫堅初挙兵、朱儁のもとで補佐する
不明 周瑜孫策を尋ね、友人となる。
初平元年(190年) 孫堅董卓討伐隊に参加
孫家引越し、盧江郡舒県の周家南屋敷へ

 

 このような流れになると思われます。
 そしてこの周瑜と孫策の生まれが西暦175年(後漢霊帝、熹平四年)であることを考えると184年の十歳から190年の一六歳までの間に周瑜は孫策を発見したわけです。
 ついでに孫策の居場所であった壽春が現在の浙江省のあたり、周瑜の居場所であった舒県が現在の安徽省であると考えると、多分周瑜も12歳とか13歳以上だったと推測してもよいでしょう。
 なぜなら結構大移動です、安徽省から浙江省まで。
 しかも周瑜、うちに引っ越して来いよというアプローチ。
 調べれば調べるほど奇妙なコンビになるのでした。


 本当の所はどんなだったんでしょう?
孫策:公瑾が押しかけて来たっていって、こう、みょーに波長があっただけ
周瑜:そんなかよ。あ、俺は押しかけてったってのは失礼だぞ。同い年で面白そうなヤツがいるってから探しに行ったんだ。わざわざ。はるばる。壽春まで。俺が。伯符は何にもしてねーもんなー(笑)
孫策:うっわ、恩着せがまし、うっわ、うっわ!そのあとコイツ、つまんねーとか言ってはうちに来んの、わざわざ、舒県から。はるばる。つまんねーってそれだけ(苦笑)
周瑜:いいじゃんか、つまんないっつかヒマなときだろ、そんなに頻繁でもなかったじゃん
孫策:そんでさ、コイツ、自分がうちに来るのに疲れたら俺に「引っ越して来い!」って。エラそーなヤツだーと思ったね、そのときはさすがに
周瑜:結局そんでうちに来た(笑)
孫策:そうそうそ、その後はコイツの思うツボ、ヒマとか言っては呼び出すわ仮病は使うはそのたんっびに俺毎回コイツんとこ行くの
周瑜:なんだよ、それで見舞いとか言いながら来て俺の菓子全部食ってくのおまえじゃん
孫策:だってさ、腹減ってんだぜ、そんで目の前に甘そうなみかんとかあったらほれ、おまえも食うべ?
周瑜:そこまで食い意地はってねーよ(笑)宮廷みかんなんかさ、こいつ一口で食うんだぜ、お裾分けつってもらったのがあって間になくなる
孫策:るせ。コイツだってさ、うちに来て遊びながらさ、夕方になったらきっちりメシ食ってくの
周瑜:あーも、切りがねえからそりゃまた今度ってことで、それじゃ、皆さん再見〜!
孫策:ほいじゃ俺も再見!!
 取り止めのないお話でしたが、初対面のことなんかふっとんでるらしいです。
 ところでどうでもいいけど三国志呉書!陳壽よ!魏にいるから魏の人物には詳しいっちゅーのはそれでもいい!が、列伝を何人もまとめて簡単に書くのはどうかと思うぞ。呉書最高一二人一括り。


参考
三国志正史 五巻 呉書(裴松之注):中華書局
後漢書 二巻 紀〔二〕:中華書局
三国志選注 下(繆鉞主編):中華書局
柏楊版通鑑記事本末 8 三国周郎赤壁:遠流出版
中国歴史年代簡表:文物出版
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