雪解けの頃



 馬車から下りると、足元の雪がさくりと音を立てる。
 寒さに息をつくと、口元が真っ白に濁る。
 赤くなりそうな鼻を少しこすり、陳羣は小さくくしゃみをした。

 郭嘉の派手なくしゃみに、荀ケは顔をしかめた。
 朝議の最中にくしゃみを堪えきれなかった男の顔を見ると、曹操は苦笑した。
 陳羣が口をへの字に曲げる。
 くしゃみをした本人は何事もなかったかのように取り繕い、周りの男たちも何事もなかったかのように朝議を再開した。
 朝議から退けて、くしゃみをした郭嘉に後ろからつかつかと歩み寄った陳羣が、郭嘉の腕をねじりあげた。
「いてぇ!」
 悲鳴を上げた郭嘉に、陳羣はふんと鼻を鳴らして見せた。
「バカが不摂生をするから、女にたたられたのだ」
 言うだけ言って陳羣は、すたすたと郭嘉を追い抜かした。それからくるりと振り返り、郭嘉のほうを見てから口を開いた。
「エィ、奉孝、ニィ多保重(フォンシァォ、バオジョン:奉孝殿、お大事に)」
 郭嘉は鼻をすすりながら、くるりと背を向けた陳羣を見送り、それから苦笑した。
「長文!謝謝ニィ了!」
 自分に向かって叫ばれた言葉に、陳羣は足を止めて郭嘉を振り返った。それから「あれでもいなければ仕事が滞るのだ」と小さくひとつ嘆息する。



 派手なくしゃみが背後から聞こえてくる。
「あの不摂生オトコが来たか」
 長文、早安(ザオアン:おはよう)という声がして、陳羣は振り返りもせずに返事をする。
「早安」
 返した陳羣に、郭嘉は不思議そうな顔をしてみせた。陳羣が背後に視線を感じて振り返ると、郭嘉がじっと陳羣を見ている。
「なんだ、私の顔に何か付いているか?」
 陳羣に聞かれて郭嘉が首をかしげる。
「いや、別に何も付いていないが、なにかよそよそしくないか?」
 よそよそしい!と内心で繰り返して陳羣は、手に持っていた書簡を取り落とした。今までに郭嘉と馴れ合った記憶などないぞと陳羣は首を振る。
「そういう言葉は朝まで一緒にいた女に言ってくれ、私はおまえの情婦ではないからな」
 そう言いながら陳羣は、取り落とした書簡をしゃがみこんで拾い始めたのだが、前に立ちふさがった郭嘉が、同じように散らばった書簡を拾い始めた。
「心外だ、それではまるで私が節操無しの女ったらしのようではないか」
 書簡を拾いながら文句を言う郭嘉の額に陳羣が、片手に持った書簡を振り下ろした。ゴツンと音がして郭嘉が額を押さえた。
「何をする」
 郭嘉の反論に、陳羣は書簡を膝にまとめながら鼻を鳴らした。
「そういう言葉は、節操無しの女たらしではない男が言うものだ」
 きょとんとした郭嘉を気にも留めずにすまし顔で立ち上がると、陳羣は書簡を机の上にまとめてから、郭嘉のひろった書簡を奪うように取って、とんとんとそろえる。郭嘉はきょとんとしたままで陳羣を見上げている。
 さすがに居心地が悪いのか、陳羣はもう一度、郭嘉の前にしゃがみこんで顔を見合わせた。
「頼むから、具合が悪いのならば自宅で養生してくれ。具合がよいのならば茶々を入れずに仕事をしてくれ」
 困ったような顔の陳羣に、郭嘉が口を開く。
「仕事をしに来たのでなければ、私は何をしにここへ来たと思う?」
 陳羣が頭をおさえる。
「大体だ」
 立ち上がって郭嘉は続ける。
「節操無しの女ったらしだと、君は私をそういう目で見ていたわけだ。これは心外。男子たるもの、男と生まれたからには国家の大事に与るのは何よりの志。そうではないか?」
 郭嘉の正論には陳羣が頷いて立ち上がる。郭嘉が続ける。
「男子の本懐とは、すなわち天下を平らげることである」
 ふむと頷いて陳羣は「それは同じ意見だ」と相槌を入れる。
「そこへ、君は私を指して節操無しの女たらしだと言うが、私がいつ節操なく女性をたぶらかしたのか。天下を平らげようというのに女に現を抜かしていかがする。まったくもって心外。その偏見は、できれば今日を限りにしてくれ」
 郭嘉の言い分に、陳羣は目を丸くした。
「ほお、それでは今日を限りに、君は節操無しの女たらしではなくなるわけだな」
 陳羣に言われ、郭嘉が顔をしかめる。
「今日を限りにとはなんだ。今まで私が節操無しの女たらしだったとでも言うようではないか」
 今までの郭嘉が節操無しの女たらしでなければ、一体どこの誰が節操無しの女たらしと呼べるのかが陳羣にはわからないが、ここは郭嘉が脱節操無しオトコ宣言をしたとて、陳羣は納得することにした。
 さてと自分の机に向かおうとして、郭嘉は立ち止まった。自分の机を眺めて奇妙な顔をしている郭嘉を、陳羣はじっと眺めた。
「おかしいな」
 なにがと聞き返す陳羣に、郭嘉はいやと首をかしげる。
「長文の机の上にある書簡の量と、私の机の上にある書簡の量が違うような気がするのだが」
 それはそうだと陳羣は内心で返す。なにしろ郭嘉に処理してもらわなければ困る書簡だけが郭嘉の机に積んである。そのほか雑務用の書簡は全て陳羣が担当することになる。日頃の行いのせいで、急ぎの書簡はほとんど陳羣のところへまわってくるようになってしまったのだ。
「奉孝に見てもらわなければならない全ての書簡を机の上に載せることができないものでね。机の上においてある書簡の整理がついたら、急ぎではないと言って放ったらかした書簡をどうにかしてもらえるか」
 陳羣の口調に郭嘉が困り果てたように腕組みをする。郭嘉が後回しにすると言って放ったらかした書簡は、確かに全て急ぎのものではないが、陳羣にしてみれば、まわってきた書簡はその日のうちに整理してもらいたい。
「長文、私はそれほど書簡を溜めていたっけ?」
 白々しいと思ったものの、陳羣は溜めていたよとまじめに返事を返した。
「長文の話しを聞いていると、なにやら自分がろくでなしにでもなったような印象だな」
「それは言い得て妙だ。確かに私の印象では奉孝という男は節操無しの女たらしで書簡の整理も満足にしてくれないロクでなしだな」
 間も空けずに返された陳羣の言葉に、郭嘉は腕組みをしてため息をついた。
「なるほど」
 鳥肌が立つほど素直な郭嘉に、陳羣は奇妙な顔をした。なにしろ曹操に言いつけても泰然自若としていた男が神妙な顔で考え込んでいるのだ。
「奉孝?」
 問いかけた陳羣ににこりと笑って見せて、郭嘉は腕まくりをして書簡の整理にとりかかった。これをあちらに、それをそちらにと、珍しく意欲的に書簡を整理する郭嘉に、陳羣は苦笑してから自分の書簡を片付けにとりかかった。
 しばらくして郭嘉から手伝おうかと聞かれて陳羣は戸惑った。
 生まれてこの方、郭嘉から手伝おうと言われたのは初めてではなかろうか。
「そこの半分、頼む」
 うれしそうな陳羣の表情に苦笑して、郭嘉は書簡の半分を自分の所へと運んだ。この日片付けられた書簡は、片付けられる書簡の平均の倍近くだったのではなかろうかと陳羣は思う。久々に、部屋中の書簡がきれいに片付いた。
「普段からこれだけ片付けてくれればよいのに」
 苦笑する陳羣に、郭嘉も苦笑した。
「長文の中では私の印象はロクでなしだったとは」
 普段の郭嘉がろくでなしでなければ、この世にろくでなしはいないだろうと思った陳羣の言葉は、口から出ることはなかった。
 帰り際、郭嘉はまた派手なくしゃみをした。
 それから一週間、郭嘉は風邪と称して仕事場に出てこなかった。



 早安と声をかけられ、陳羣は振り向いて挨拶を返したのだが、次の瞬間、彼は顔をしかめた。
「この匂いは、牡丹楼の鴛鴦」
 陳羣に言われて、郭嘉はにこりと笑った。
「当たり、長文も鼻がよくなったな」
 陳羣はますます顔をしかめた。
「なにが鼻がよくなっただ。毎度この匂いはあの女だ、あの匂いはこの女だと言われていれば嫌でも覚える。ふん、風邪をひいて女遊びができなかったときには、男子の本懐を遂げるのに女に現など抜かしていかがするなどと言ったのはどこの誰だ」
 郭嘉がきょとんとする。
「は、本懐?男と生まれたからには、一生に数え切れぬだけの女と一夜の恋をするのが本懐というものだろうが」
 陳羣がきょとんとする番だった。固まりついた陳羣を気にも留めず、郭嘉が言葉を続ける。
「なにしろ男と女は切っても切れない縁で繋がれているものだからな。袖摺りあうも他生の縁、縁をないがしろにするのは、上帝も仏様も許してはくださらん。違うか?お、書簡が溜まっておるわ溜まっておるわ。これは後回しでよし、これは…一応片付けておくか。これも急ぎではないな」
 郭嘉の言い分は、普段どおりの「ろくでなし」である。
「この間、節操無し男呼ばわりは今日限りにしろと言ったのは奉孝だろうが」
 震えた声で言う陳羣に、郭嘉は首をかしげた。
「よく覚えてないが、熱に浮かされて口走ったかもしれん」
 そう言って郭嘉は机上の書簡の分類を再開した。
 しばらく郭嘉を眺めていた陳羣だったが、おもむろに窓に寄っていくと雪を一掴み、郭嘉に向かって投げた。
「冷てえ!何するんだ長文!」
 郭嘉が目にしたのは、雪を手にしてわなないている陳羣だった。
「奉孝、おまえという奴は、熱があるときには正論を吐いて仕事をするくせに。おまえなんぞ、今後一生熱に浮かされていろ!」
 雪の塊が部屋の中を飛ぶ。
「冷たい!おい!長文!待て!病み上がりの…わ!冷た!」
「万年風邪でもひいてしまえ!」
「落ち着け!長文!」
 この日の夜、陳羣が熱を出したかどうかはわからない。わかっているのは、陳羣が日頃溜めた鬱憤は、郭嘉には計り知れないものであったということだ。

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