恨情玲瓏

 鈴がちりちりと音を鳴らす。玲瓏、と表現されることもある。
 呉の甘寧の鈴だ。
 蘇飛の首が目の前にある。
 その青ざめた顔を甘寧は凝視した。
 この漢に助けられて自分はこの場に立っていると甘寧は思っている。
 黄祖とは、蘇飛が仕えるに値しない男であったと甘寧は考えている。
 仕えるに値しない男の下から出奔するときに、甘寧を庇ったのが蘇飛であった。
 よき友人であり、よき理解者であり、自分を買ってくれた上司であった。
 蘇飛の首を見る甘寧を凝視する少年を、彼らを統べる青年孫権は眺めた。
 少年は名を凌統という。
「おまえもこうして殺されていればよかったのだ」
 侮蔑をこめた言葉が凌統から発せられる。
 周囲が顔をしかめたが、凌統は少年の図々しさで、物怖じもせずに孫権を見据えて口を開く。
「甘寧を、俺に殺させてください」
 孫権が首を振ると同時に、甘寧が凌統を一瞥した。
「父の仇も討たせてはもらえないのですか」
 凌統の口調が怒気を孕む。
 横で見ていた呂蒙が頭を抱える。
 凌統の父を殺した男が甘寧だということは、誰もが知ることである。凌統にすれば父を慰める為に甘寧の首を欲しがることは不思議なことではない。古今東西、世間一般の人間であれば、人の手で親を失った子供は、親の仇を討とうとするものであり、人の手で子を失った親も、子の仇を討とうと思うものなのだ。
 もちろん古くから尊属殺人というものはある。自らが諸侯の地位を占めようとするために、自らが親に殺される危険のために親を殺し、或は子に殺される危険のために子を殺し、気に入りの子を後継にするために子を殺す。だがそれは、親子に一般的ではない事情が存在するということがあって起こる事件である。
 凌統は世間一般の、父を尊敬する息子であった。
 息子にとって、父とは追いつこうとしても追いつくことのできない存在であり、凌統にとっても父は尊敬と理想の対象であったのだろう。
 凌統が唇を噛締める姿から、豪族陸家をまとめる陸遜は目を反らした。
 駄々をこねる凌統の姿が数年前の自分と重なったからだ。
 かつて孫権の兄孫策がこの江東の覇を唱えようとする頃、陸遜は遠目に孫策を睨み据えていた。陸家にとって孫家は、例えそれが戦乱の理ではあれども、陸家の本家と干戈を交えた仇敵であったからだ。
 親族の仇を討とうという孫家への怨嗟を捨てた時分から、陸遜は陸家の保身に転じたのである。それは孫権が孫家を束ねるようになってのことだ。
 陸家の保身のため、陸遜は仇敵である孫策の娘を娶った。
 孫家の地位を安定させるためには、身内であれ惜しげもなく他家へ出す孫権を、陸遜は何か空恐ろしいものでも見るように眺める。それが孫策であれば、これほどの不気味さを感じたりはしなかったかもしれない。相手が孫権だからなのだ。兄弟の中で、一番強かな次男だからなのだ。
 凌統の恨みがどれほどのものであるかは慮ることもできないが、いかに凌統が少年であっても、情に駆られて甘寧を殺せば、孫権は容赦なく凌家を切捨てるだろう。甘寧は既に孫家の幕下に入っているのだ。
 孫権は、普段の穏やかさとは全く異なる剣呑な目で凌統を睨みつける。
 凌統の背筋にぞくりと冷や汗が流れた。
 陸遜が目を伏せる。
「一度、孫家に下ったものをむやみに殺すわけにはいかない」
 氷の上を滑りでもしたかのような冷ややかな声だった。
 呂蒙が首をすくめる。
 凌統から孫権へ目を移した陸遜が、今度は甘寧を眺める。
 それを呂蒙が見咎め、陸遜の肩を叩く。
「身に覚えがあるとでも言いたいか」
 問いかける呂蒙に、陸遜が顔をしかめて、ちらりと目をくれた。
 呂蒙は孫策が陸家に向けて軍を出したときには、すでに孫家の傘下に入っていた。陸家にとっては呂蒙も仇敵となる存在だ。
 陸遜は口角を上げる。
「今頃、あなたをつかまえて仇を討とうとは思いませぬ」
 陸遜の声は、ゆったりとした空気に包まれている。貴族豪族とは、誰もがこういう喋り方をするのだろうかと呂蒙は眉を上げた。

 散会した後、甘寧は背後についてくる凌統を振り返った。
 怒気を孕んで甘寧を睨みつける凌統の目は、いつも変わることがない。
 甘寧は鼻をこすってから凌統に声をかける。
「親父さんの仇を討とうという心がけは孝行者だな」
 周りにいた誰もが、はっと目を見張った。
 血の気の多い武官の中には、にやにやと成り行きを見ようと立ち止まるものもいる。かと思えば一方で、飛び掛ろうとする凌統を止めようと身構える文官もいる。
 剣の柄に手をかける凌統を睨み据え、甘寧はゆっくりと言葉を空気にのせた。
「おまえの父親を射抜いたことを後悔してなどいない」
 凌統の目がつり上がるのを、甘寧は悠然と眺めて言葉をつなぐ。
「戦に出る以上、人を殺したことを後悔した者が負けだ」
 甘寧の言葉を聞いた陸遜が息を詰めるのを横目に見て、呂蒙はふんと鼻を鳴らした。戦嫌いの文官たちが眉をひそめて甘寧を見る。少しでも戦に出た経験のある文武官たちは息をつきながら凌統に目を向ける。
 食いちぎらんばかりの力で唇を噛締める凌統を気遣う者はいない。
 気遣うものは皆、彼から目を逸らして俯いた。
「後悔などしないだと?人の父親を殺しておきながら」
 戦慄く声を、どうにか絞り出す凌統を甘寧が見据える。
 言葉をこぼして、またきりりと噛締められた凌統の唇が、真っ赤になっているのを見ながら呂蒙が首を振る。
「勝ち負けと生き死には戦の必然だろうが」
 言い放って背を向ける甘寧に、凌統が思い切り罵声を浴びせかける。
 武官も文官も、剣を抜こうとする凌統を押さえ込みにかかった。
 陸遜がぽつりとつぶやく。
「哀れな」
 陸遜の言葉を聞きとがめた呂蒙が眉根を寄せた。
「誰が哀れだ」
 呂蒙の言葉に、陸遜はまた口元をほころばせて曖昧に微笑した。
「さて、彼かもしれないし、私かもしれない。或はあなたかもしれない」
 そう答えて呂蒙に背を向ける陸遜に、呂蒙は小さく声をかけた。
「俺が哀れなら、世界中の人間は皆哀れかもしれないぞ」
 くるりと呂蒙を振り返り、今度はにこりともせずに陸遜が答える。
「もしかしたら、そうなのかもしれない」
 よくわからない奴だと、呂蒙はため息をついた。
 踵を返し、呂蒙は凌統の肩を叩いて庭の方へ歩き始めた。ふてくされた凌統が、呂蒙に促されて庭へ足を向ける。
「父親を殺された恨みがどれだけ深いのかなんてことは、俺の知ったことじゃない。だけども殺したいほど相手が憎らしいと思うことがあるのは知ってる。憎たらしい相手を殺すのは一瞬で終わりだ。もしも殺したい衝動を抑えることができるなら、おまえは、おまえと同じ歳だった頃の俺よりも立派だ」
 呂蒙に言われて、凌統が足を止める。
 自分を眺める凌統を振り返り、呂蒙は鼻の頭をひとつ引っ掻いた。
「仇討ちで相手を一突きに殺しても、馬鹿にされたことを恨んで相手を一突きに殺しても、殺された奴にとっては同じ殺され方だ。割りに合わないと思わないか?」
 そう言われて肩から力の抜けた凌統が恨みがましく呂蒙に目を向ける。
「誰に何を言われても、あの鈴の音が聞こえる限り、父の仇は忘れられないから」
 凌統の返事に頷いて呂蒙は、やめてくれと困った表情でため息をついた。
 二人の耳に、玲瓏と鈴の音が響く。
 陸遜がすれ違いざま、甘寧に声をかけた。
「親族の仇というのは、長らく忘れることのできないものでしてね。私にも覚えがありますが、いつまでも、かわすおつもりですか?」
 陸遜の質問に、甘寧はにやりと笑うだけで去った。
 鈴が鳴る。
 親兄弟が敵味方に分かれている者も、昨今はよくいる、と諸葛瑾が肩を鳴らしながら魯肅に言う。魯肅はちらと諸葛瑾の方へと目を向けて首をすくめた。
「敵味方に分かれてしまえば、例え親兄弟であろうと、敵は敵。情けは禁物。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵とな」
 諸葛瑾の言葉に魯肅は足を止めた。
「あんたが言うと、説得力があるな」
 魯肅の一言に、諸葛瑾がにぃと笑う。
「それは当然でしょう。何しろ私は、弟も親戚も、別々の国におりますからね」
 諸葛瑾の言葉が、傍で聞くものに痛い。
 それでも、どこか不思議なものを見るような目で自分を眺めた魯肅に向かって、諸葛瑾はくっくっくと、人好きのする顔で笑ったのだった。
「諸葛家は絶えることがない。どこが残っても、諸葛家は官僚として国家の経営に携わるのですよ」
 その瞬間、魯肅は喉を振るわせた。
「強かな家だ」
 言われて諸葛瑾は頷く。
「そう、強かでなければ」
 ふたりの笑声の横、東呉に、また鈴の音が響く。

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