周瑜が琴を弾く。
 蒋幹が苦笑した。
「よっぽど、おまえこの曲が気に入ったんだな」
 同窓の蒋幹に苦笑された周瑜は、それでも素直にうんと頷いた。
 琴線の上をすべるように周瑜の指が流れるのを、蒋幹はじっと眺めた。
 ぴんと張られた琴の弦は、傍目には、本当に弾かれているのかどうかすら判らない。
 ……五五五・六・上一、上二、上一…下五五五・六・七・六・五…五五五・六・上一、上二、上一…下五五五・六・一・二・一、五五五・六・上一、上二、上一……
 琴の音に合わせてつぶやかれる周瑜の口から小さく漏れる声は、楽譜に合わせて転調を繰り返す。
 上、下、とつぶやきながら、琴の上をすべる指は段々と早くなり、周瑜は無言になる。
 蒋幹は、それを前に座り、頬杖をついてそれを眺めていた。
 老師の琴を、自分の琴と同じように操る周瑜に、蒋幹は感心した。
 …一、五、六上一、六上一、六、六上一、六、六上一・六上一六上一、上二、五、上二上一…
 琴を弾く手を止めなかった周瑜だが、蒋幹は首をかしげた。
「阿瑜、今、戻った?」
 小半時も琴を弾き続けていた周瑜が、やっと手を止めて蒋幹の方へと目を上げた。
 周瑜の目が、蒋幹をじっと見る。
「曲の一番始めに、戻っただろう、今」
 蒋幹の言葉に、周瑜が頭をかいた。
「ばれたか、あと一回弾いたら片付けろと老師が言うから、休みを入れずに弾いたら、もう一度弾きなおせるかと思ったんだけど」
 蒋幹がため息をつく。
 周瑜は蒋幹のため息を聞いて、やっと琴を片付け始めた。
 弦の下から柱を抜いて、そうして弦を緩める。
 そうしなければ弦がすぐに痛んで切れてしまうのだ。
 老師の家の琴は、古くて飾りのない琴だが、よく響いて、新しい琴では出せないような音を出す。
 周瑜にとって、不思議な琴だった。
 自分の持ち出した筑を片付け終わってしまっている蒋幹を待たせて、周瑜は琴を老師の部屋に戻しに行った。
「阿幹、今度あれ筑でやってみろよ」
 周瑜のとんでもない一言に、周瑜の後で蒋幹はむうっと腕組みをする。
「広陵散か?無理だ。ほら、私は不器用だから早いところなんか絶対に弾けない」
 蒋幹が言うと、周瑜がはははと笑った。
 周瑜の指が空中を、琴の弦を弾くように踊っていた。
 こいつ音楽バカだから、しばらく広陵散から離れないぞ
 蒋幹が隣で苦笑しているのも、周瑜には目に入っていなかったようである。

 琴の弦が振るえる。
 低い音が底力のある音を出し、魯粛は満足そうに弦を止めた。
 祖母がにこりと微笑んでいる。
 父親亡き後、自分を育ててくれた祖母が笑っているのを見るのが、魯粛は好きである。
 家業を継いで、その他にしていることといえば、山賊狩りごっこに慈善事業だ。
 山賊狩りといっても、大した物ではない。地元の青年たちを訓練をして、いざ山賊に襲われたときなど、自分たちで対抗できるようにしようというのが狙いである。
 いわば地域青年消防団のような組織を作り、そのパトロンじみたことをしているのだ。
 魯粛が家業にまったく興味を持たないのを見て、彼の父は魯家も終わりだと嘆いたことがあったようだが、祖母からしてみれば、非常に頼りになる孫であっただろう。
 …五・六七五……五・六七二……下七…二・三…五…下六…下五下七二、三…二・下七二・三…二、下七、二三、下七…下六……
 確認しながら、ゆっくりと琴の弦を弾く。
 秋湖月夜
 ゆったりとした、南方の曲である。
 本来ならば曲笛で吹くのが本当だが、笛は自信がない。
 琴で奏でるというのも、それなりに聞くことはできるものだった。
 低めの音が室内を満たす。
 途中で音が止まり、魯粛は祖母の前に居住まいを正した。
 ひとつ深呼吸をした後で、魯粛は口を開いた。
「今は乱世です、このまま家業を続けていても何も目処はたちません。袁家に、仕えに出ようかと考えています。お許しくださいますか」
 祖母の顔に落胆がないことを見て、魯粛はほっと息をついた。
 何も言わずに、そうしてまた琴の前に腰を下ろし、琴を弾く。
 速く、流れるような琴の音が響く。
 六…五六五半音四三二三…五、六上二上一七六…
 室内は琴の音だけになった。
 最後の音を弾いて長く伸ばし、それから魯粛は琴の弦をもう一度調整する。
「最近よく聞く曲を、途中までしか弾けませんけれど、お聞かせいたしますね。おばあさま、近頃は外に出ませんでしょう」
 孫の、気を使ったような言葉に、祖母はにこりと笑った。
 広陵休止と言うのですよ
 魯粛が言いながら弦を弾いた。

 周瑜という青年と、魯粛という青年が始めて出会ったのは袁術の元である。
 部屋の前を通り掛かり、周瑜がつぶやく。
 琴の音が聞こえたのだ。
 おや、広陵散か
 周瑜の小さな言葉に、魯粛がおやと返す。
「君のところでは広陵散と呼ぶのか、私の地元では広陵休止と呼んでいるよ」
 そうでしたかと周瑜が微笑した。
 この周郎は、いつも楽しそうに笑っているなと魯粛は思っていた。
「子供の頃この曲が好きで、必死になって楽譜を写した記憶がありますよ」
 くっくっくと笑いながら言う周瑜に、魯粛もはははと笑ってしまった。
「私は未だに一番始めのところしか弾けない」
 ばたばたと前から青年が走ってくるのを、魯粛は、慌ただしい男だと思いながら見ていたが、隣にいる周瑜はどこかうれしそうに彼を見ていた。
「知り合いか」
 魯粛に問われて、周瑜は苦笑しながら頷く。
「幼馴染でして。孫家の男ですよ」
 周瑜の答えに、魯粛はそうかと破顔した。
 孫家の男というと、孫策という青年だろうと見当をつけたのだ。
 孫策の話は、周瑜がよくする。
 面白い男なのだと、そればかり繰り返す。
「公瑾、今日という今日は俺は頭にきたぞ。あのタヌ、キツネの野郎、どっかにいたりしねえだろうな、あの野郎オヤジの軍を未だに返さないんだぜ」
 終わりのほうは声を落とすものの、魯粛には筒抜けである。
 直情径行、と魯粛は判断した。
 周瑜がふうむと頷く。
 魯粛は面白そうに二人を眺めて、普段の微笑をそのままに、それぞれを見比べる。
「かっぱらえ」
 周瑜の一言に、孫策が憮然とし、魯粛がはははと大笑いする。
「貴族の子弟のわりに、せこいことを思いつくんだな」
 魯粛に大笑いされて周瑜はにこにこと微笑んでみせた。
「貴族といっても、落ちぶれかけの没落貴族の傍流ですから、せこいことも思いつきますよ」
 父が洛陽県令であったとは思えないような発言であった。
 孫策を魯粛に紹介し、周瑜はまた、魯粛を孫策に紹介する。
 周瑜からいくらも話を聞いているのだろう、孫策も、魯粛を初対面とは思わないようであった。
 周瑜は普段から、孫策というのは面白い男だと言うが、周瑜のほうが面白いと魯粛は内心で笑う。
「決めたぞ」
 魯粛の一言に、周瑜と孫策が、何をと聞き返す。
「袁家にいるよりも周家のほうが面白そうだ」
 周瑜がぎょっとしたように、魯粛を眺める。
「袁家ではなく、私は周家の世話になろう」
 孫策を制止することは、まだ可能だったが、はっはっはと笑う魯粛を止める術を周瑜は知らなかった。
 ここで孫家の人間に出会ったことで今後の人生を変えようとは魯粛本人さえも思わなかっただろう。
 数年後、孫策の死去に伴い、魯粛は周瑜の元を去ることを考えた。
 北へ行く
 そう言った魯粛を惹き止めたことが、周瑜自身の計略を壊すことになるとは、周瑜は想像していなかったに違いない。
 周瑜が琴を弾く。
 広陵散
 韓王に復讐をするニエジョン(人名)の様子を描いたとも言われるこの曲が、艶やかに響いた。

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