官位補足表


職官表補足〜後漢末から呉領内での官位〜
大都督 「都督」という位は三国時代にはじめて置かれたもので軍の元帥にあたり、『魏の文帝(曹丕)が置き、呉、蜀もまたこれを置く』とあります。
「門下督」というものがそもそも漢代に存在しているので、そこから派生した官位なのでしょう。
 この「門下督」は辞書によれば各地の郡主のなかにこれにあたるものがおり、また君主の直轄の指揮官がこれにあたります。
「門下督」のなかでも「右督(軍右翼の最高指揮官)」や「左督(軍左翼の最高指揮官)」、また「前部督(先鋒攻撃隊の最高指揮官)」というものがありました。
 呉書では「大都督」になる前、周瑜は「前部督」を勤めています。
 正確には、呉書では周瑜を「右都督」に、程普を「左都督」に任じていますが、この「右都督」「左都督」というものは辞書には出ていませんでした。
 この場合、赤壁では周瑜が総指揮官を務めているので「右」は「上官」という意味で使われ、また「左」は「補佐」という意味で使われていたとも考えられます。
裨将軍  赤壁時(赤壁後?)の呂範の位です。
 将軍の補佐の役目にあたり、秦、漢代に置かれていた位です。定員制限なし。正五品。
 この位は官位の品まできちんと出てきました。
 その後彼は平南将軍という位になっています。
 ただの派手男にも見えますが、これで彼もきちんとした軍人だったんですねえ(←とても呂範に失礼)
偏将軍  呂蒙君のその後の官位。
 賀斎君も賊粛清の功労で同じく建安十三年に呂蒙君と仲良くふたりで中郎将から偏将軍へと出世しています。
 正五品、人数制限なし、裨将軍と同じです。
 やはり秦、漢代に置かれた位で、後、隋唐の代には正九品の軍人というように位を下げていきました。
校尉  赤壁の戦のときの魯粛の位です。(賛軍校尉)
 校尉の地位は漢代非常に高く、その権力は将軍に次ぐとあります。
 禄二千石以上というので、かなりの権力者なのでしょう。漢代にあった官位で、校尉の種類も様々なバラエティに富んでいます。たとえば魯粛は賛軍校尉ですが、その名前もバラエティに富んでおり、中には「戊巳校尉」など十干十二支の名前を冠した校尉の位などもあったそうです。
 この「校尉」の地位と権力が最大であったのが後漢末から三国時代にかけてで、この時期に校尉に任じられた彼の権限は軍人としての羨望に値する出だしであったと思います。
 将軍の下ですが、稗将軍と偏将軍が五品ぐらいとすると、このとき呉国内で「校尉」はか五品の下ぐらいであったと考えることができます。
 ちなみに赤壁の戦に臨んでいきなり軍人になってしまった魯粛さん、この後の彼の官位はすべて軍人としての階級を含んでいます。
 時代が下るにつれて「校尉」の権限は弱くなり、唐の時代には正六品以下になってしまうのですけれども彼には関係のない余談です。
中郎将  赤壁前の呂蒙君の位です(横野中郎将)。
 正史には赤壁時に呂蒙がなんの位に任命されたのかは書かれていません。帰還後に赤壁と烏林での功績を以って「偏将軍」の位をもらっています。
 中郎将は将軍に次ぐ位のひとつで、禄千石から二千石、上に書いた校尉よりも少し禄が少なめなので、将軍の下に校尉と並んでか、その少し下に置いてあった位ではないかと思われます。昇進後の「偏将軍」の位が正五品ですので、おそらく正五品の下から六品上ぐらい。
 もともと禁軍の統括を補佐するなどの役目を持った位でしたが、後漢末にはこの「中郎将」も自分で軍を率いて帥師征伐をするようになりました。
 それでも後漢代に「中郎将」の名前がどれだけの権力を示したかというのは、董卓が「東中郎将」であったり、曹植が「南中郎将」であったりするという例を挙げれば軍部内でもそれなりの地位を持っていた人間だということがおわかりいただけるでしょう。
 このころはまだ呉下の蒙ちゃんですが、呉は人材利用に柔軟だったようですね。
 ちなみに建安13年の中郎将仲間には韓当(義公:詳細なし)賀斎(公苗:威武中郎将)などがいます。
司馬、別部司馬  別部司馬には以前呂子明君がおりました。が、この司馬というのは軍の部署内での実質的な軍事管理者を指します。
 漢代には大司馬大将軍というものがあったということですが、この「大司馬」というのは太尉、曹操が官職を整理した後の副丞相を指し、この大司馬大将軍が軍事最高司令官でした。
 さて、「別部司馬」というものが司馬とは違うのかというと、普通「司馬」というのが主力一部から五部の部内軍事管理者であるのに対し、「別部司馬」というのは名前の通り別部の司馬を指します。
 別部というのは非主力部署のことで、将軍の下に常時主力として置かれる五部の横に別途設けられる少数部隊です。
 この別部の組織では、主力五部が校尉をトップとするのとは異なって司馬がトップとして采配を振るいます。
 つまりは通常主力部隊における校尉の役割も司馬が担っているのです。まあ部隊の人数が少ないということも理由の一つらしいですが。
都尉  赤壁のときの凌統の位です。
 賛軍校尉の魯粛や中郎将の呂蒙に比べるとまったく見栄えのしない文字であります。
 赤壁の戦の後、赤壁での功績によって「校尉」へと昇進しているので、このとき「都尉」は「校尉」や「中郎将」のひとつ下の階級に置かれていたと思われます。
 この位の経緯ですが、戦国時代に軍人の中でも低位の将軍の名称としてまず「郡尉」というものができたようです。
 その後、前漢武帝の代に「郡尉」を改めて「都尉」と名称変更し、中央政府の中にこの「都尉」が置かれるようになり、一気に都尉の位は高くなり、各地の軍を統括する役目となったとか。
 後漢の光武帝がこの「都尉」の官位を撤廃していますが、軍事行動で必要なときにはその後も臨時に都尉が任命されることがままあったとあります。
 だんだんとその地位を低くしていった「校尉」とは逆に、「都尉」は中国最後の王朝といわれる清では正三品から四品の軍人に与えられる高位になったようです。
長吏  甘寧(当口令)、周泰(宣春長)の官位。
 漢書百官公卿表では禄400ほどから200石に至るまで、となっております。…蒙ちゃんの千石を見てしまうとちょっと悲しい数字です。
 また、漢書の景帝紀では禄600石以上は皆長吏となすとなっているようです。この「長吏」と呼ばれる階級の中に「令」や「長」なども含まれるとあります。
 ちなみに長吏というのは地方官で、都尉の下にあたるくらいです。
 しかしこの記録中の禄高の差は一体何なのでしょう、なぜ同じ漢書なのに記事に差があるのでしょう。きっと時代の差ですね。
 しかしよかったね、統ちゃん(トンちゃんて書くとなんだか夏候惇の親戚みたいだ。そんなことありません?)。甘寧の方が一つ下だよ。位は(そういう問題でもない)
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送