郭奉孝の悩める一日


 珍しい。
 非常に珍しいと荀攸は唸った。
 郭嘉が静かだというのは珍しい、これは雨が続くわけだと。
 大体秘書室に来ると叔父が郭嘉のほうを見て呆れているか怒声を上げているのが普通なのだが、この日ばかりはなぜかその対象・郭嘉がおとなしく、荀ケも仕事に没頭しているのである。
 頬杖を付いてため息をつく郭嘉に、荀攸が書類をまとめて渡すと、郭嘉は反抗もせずに黙々と書類に目を通し始めた。
 荀攸の背中に、一瞬にして鳥肌が立った。
 なんだこの小僧は
 小僧だの青年だのというのは、荀攸にしてみれば息子にするには少しばかり年長だろうかという程度の年齢差のある郭嘉を呼ぶときの親しみを込めた呼び方である。
「老弟、変なものでも食べたのか?」
 荀攸が問いかけると、郭嘉はきょとんとして荀攸を見上げた。
 しばらく沈黙した郭嘉が、荀攸を手招きすると秘書室の隅に連れてゆく。
 部下と親戚のお兄さんが隅でなにやら話しをしているのを、荀ケは黙って見ている。
 荀攸の性格というのが融通の利かないものだと荀ケはよく知っている。その荀攸が真面目に受け答えをしているのだから、郭嘉が荀攸に相談していることというのは取り立てて浮ついた話ではない。
 困ったように腕組みをして苦笑し、荀攸は郭嘉の背中をとんっとひとつ叩いて郭嘉を席に返した。
 相変わらず郭嘉の表情はぼけっとしたままで空中を見てはため息をついている。
 仕事にならないのではどうしようもない。
「奉孝、朝から静かだが何か気がかりでもあるのか?」
 いえとつぶやいてから苦笑して、郭嘉はまた頬杖をついた。
 壁にかけられた予定ボードの、郭嘉の予定表を見ると日曜日の部分に赤いペンで丸がつけられている。
 週のはじめにはなかった予定だ。
 赤い丸のつけられた予定の横には、小さく黒いペンでバツ印がつけられている。
「ソロモン・グランディ、日曜に生まれて月曜に洗礼」
 小さく口ずさんでいるのはマザー・グースで、女好きの遊び人にマザー・グースという取り合わせの奇妙さに荀ケは思わず万年筆を取り落とした。
 奉孝にマザー・グース
 荀ケの脳内はいくらか取り乱している。なぜならこの組み合わせは彼にとって陳羣がディスコナンバーを口ずさむのと同じぐらい奇妙なのだ。
 はい、それまでよ
 とつぶやいたところで郭嘉は椅子から跳ね起き、携帯電話を取り出した。
 秘書室を出て、私用の電話をするのだろう、すりガラスの向こうの植木鉢の横にうっすらと影が透けて見える。
「うん…悪かった…、うん、わかったわかった、約束する…じゃあ、切るぞ」
 扉越しでも途切れ途切れに会話が聞こえる。
 なんだと荀ケは腕を組んだ。
「結局はデートが断りきれなかっただけか」
 戻ってきてスーツのポケットに携帯電話をしまいこむ郭嘉に荀ケが苦笑しながらからかうように言うと、郭嘉はにこりと笑った。
 荀ケが冗談を言うのも珍しい。
「とても大事なデートだったんですよ、まったく日曜日の予定が台無しだ」
 苦笑しながら郭嘉が返す返事に、荀ケは安心した。
 これほど悩むのだから、それでも十把一絡げの相手ではないのだろうが、それで社長の出張を台無しにされても困る。ほっとして、これで仕事もはかどるだろうと思った荀ケの思惑とは反対に、郭嘉は椅子に戻ったものの背もたれに背中を預けてボールペンの尻をかじり始めた。

 昼になって4階のカフェテラスで郭嘉は、今度はボールペンではなくサンドイッチをかじりながら頬杖をついていた。
 その様子を発見して奇妙な表情をしていたのは曹丕だ。
 社長である曹操の息子で大学を出たばかりの曹丕は、営業員として就職して会社にいるが父の近くにいる荀攸や郭嘉とは仲良くしているものの、今日のように浮かない顔をしている郭嘉を見たのは初めてだ。
 なんとすれば父の悪ふざけを助長するようなお兄さんなのだが、もそもそとサンドイッチをかじってはため息をついている姿は曹丕の目には異様な姿に映った。
「今日はガールハントはお休みなのですか?」
 曹丕に声をかけられて郭嘉は苦笑した。
 まったく、俺が静かにしているとどいつもこいつも気になるらしい
 そんなことを考えながらお休みなんだと返した郭嘉に、曹丕はご一緒してもよろしいかと尋ねて郭嘉の前の椅子を引いた。郭嘉も嫌がりはせずに曹丕に席を勧める。
 日曜日はまた父と出張だそうですねと曹丕に問われ、郭嘉は適当に頷いた。
「たまには父も日曜日を休みにしてくれればいいのに」
 何の気なくつぶやいたのかもしれない曹丕の言葉に、郭嘉がきょとんとした目を向けて曹丕を眺めた。曹丕のほうは気にも留めずに頼んだジンジャーエールにストローを突っ込んで氷を引っ掻き回している。
「うん、社長は日曜日休みの時が少ないからね」
 脚を組みなおして郭嘉が返事をすると、曹丕がごめんなさいと苦笑した。
「奉孝さんも父に付き合って毎週出張だ接待だ視察だと飛び回ると彼女とデートする時間もなくなっちゃうのではありません?」
 気を利かせたのか、それとも申し訳ないと思っているのか、曹丕にとっては両方なのかもしれないし、あるいは将来自分がそうなるという責任感が言わせた言葉なのかもしれないが、郭嘉にとってはある程度図星だった。
「やはり、一日お父さんと一緒にいられる日があったほうがいいのかな」
 うーんと曹丕が唸る。
「この歳になって家族サービスがないだのなんだのと文句を言うわけではないけれど子供の頃は、父兄参観ぐらい来てくれたらいいのにと思ったなあ」
 父兄参観、曹丕にとってあまりいい思い出はない。
 父も母も弟たちのほうを優先して見に行ってしまうからだ。
 すでに支社を任されている兄もそうだろうが、曹丕も父兄参観に教室に父の姿があった記憶がない。
 最後のサンドイッチをぱくりとやって、郭嘉はそれじゃあと曹丕に尋ねる。
「誕生日にぐらい早く帰ってきて欲しいとか思っただろう」
 郭嘉の質問に曹丕は苦笑した。
「まあ、そうですね」
 やっぱりと郭嘉は肩を落としてコーヒーをすすった。
 今度はきょとんとしたのは曹丕だった。
 何か悪いことを言っただろうかと考えても、郭嘉に聞かれたことに返事をしただけだ。
 強いて言えば誕生日、ひっかかるのはこの程度だがそれも休日も忙しい、父兄参観に来てもらえない、という愚痴からつながっておかしくない流れだ。
 今度有給休暇を取るか
 つぶやいた郭嘉に、曹丕は苦笑した。
「父が、奉孝さんは働きすぎかもしれないと言っていました。若い頃からあんなに脳みそ使っていて長生きができるのか、あいつはって」
 父の口調を真似してみせる曹丕に郭嘉が笑い出した。
 弟の曹植に比べて真面目一辺倒の兄だと思っていた曹丕が案外父の口真似をして見せるものだと感心したのもある。
 曹丕にはあまり珍しいことでもないらしい。平然としてジンジャーエールを引っ掻き回している。氷はすでに半分ぐらい溶けて、ジンジャーエールの色が薄くなってしまった。
 失礼、と言って郭嘉はしまいこんだ携帯電話を取り出す。
 彼女にでも電話をするのだろうと曹丕は手元のフレンチトーストを切りながら郭嘉をちらりと眺めた。
「日曜日は無理なんだが、今度の休みには合わせて休みを取るから遊びに行こう」
 仲直りはできたかなと曹丕も荀ケも勘繰ったのだが、荀攸だけは真相を聞いていた。
 荀ケには一蹴にされそうでできなかった郭嘉の相談は、実のところ息子の誕生日の約束を反故にしてしまうことであったとは、一体誰に想像がついただろうか。
 郭嘉の有給休暇は去年の最後にもあったはずだと言って腕組みをする荀ケをたしなめながら、荀攸は苦笑した。
「まあ、今頃は最高のデートを楽しんでいるのだろう」
 続きを荀ケには言わなかったが、郭嘉の有給休暇と同じ日がテスト休みで休日だった曹植は自分の目を疑うような光景を見ていた。
 その日イ和園のスケートリンクで、郭嘉は息子と一緒に転げながらアイススケートを楽しんでいたそうである。

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