初霜降りて
ほおっと周瑜は息をついた。
布団から出たくなくなるような寒さだ。
息が白く濁り、周瑜はそれが楽しくて何度も息をつく。
大きく息を吸って空気の冷たさにむせかえり、げほげほとせきをしてからまたはあっと息をつく。
これは面白い現象だ。
今日はなぜか息が白くなる。この新発見は兄に教えなくては。
周瑜は布団から抜け出て部屋の扉を開けた。
一番端にある自分の部屋から、中庭を挟んだ向こうにある兄の部屋までぺたぺたと音を立てながら走り、周瑜はばしばしと兄の部屋の戸を叩く。
周瑾は弟が扉を叩く音で起こされた。
この「べしべし」というか「ばしばし」というか、まさに手の平を全体使って叩くような音で扉をたたくのは弟か妹のふたりしかいない。
ちびが来た
周瑾はこのくそ寒いのにと思いながら扉を開ける。
ごんっという妙な音とともに、にゃっという声、それからべちゃっという音が聞こえて、周瑾は真っ青になった。
「おい、大丈夫か」
見ると廊下に幼い弟が転げている。
泣くかと思って耳をふさごうとした周瑾だったが、今の周瑜には泣くというのは思いつかないらしく、大変大変と繰り返している。
「哥哥、あのね、見て見て、息が白くなるの!」
そう言って周瑜がはあっと息を大きくつく。
目の前が真っ白く曇って、周瑾は後ろにひいた。
そうか、寒くなったから息が白くなるんだなと周瑾もはあっと息をついてどおりで寒いわけだとうなずいた。
おもしろいでしょと言う弟の目は、新しいおもちゃを見つけたようである。
ご満悦の様子でなんどもはあはあと深呼吸をしている弟をしばらく周瑾は面白がってみていたが、周瑜がへくちっとくしゃみをしたのを見て一気に体感気温が下がり、身震いをして弟を引きずって部屋にひっこむ。
鼻を真っ赤にしながら、それでもはあっと息をついて周瑜は満足している。
白くなった息はあっという間に透明に戻る。
周瑾はその弟に上着をかけて、それから自分もへくしっと小さくくしゃみをして鼻をすすった。
さっきの自分とおんなじだ
周瑜は思ってうれしくなった。
「哥哥もおそろい」
周瑜は満足げに言うが、周瑾にとっては風邪っぴきがおそろいでも何もうれしくなどないのである。
ふいに周瑾は思いついて弟に内緒だよと声をかける。
「いいか、母上に見つかったらいけないんだぞ。一緒におやつ食べよう。待ってろよ」
この兄の申し出は周瑜にとってうれしいことこの上ない。
お兄ちゃまとおやつ
何がくるのかなとわくわくして周瑜は兄の布団にもぐりこむ。
しかしなぜ娘(ニャン:母さま)に見つかってはいけないのかがわからない。
周瑾は周瑜に布団をかぶせて台所のほうへと這って行く。
その後姿を見送って、周瑜はまたはあっと息をついた。
しばらく待っていたが、周瑾が戻ってこない。
はあっと息をつくのにも厭きて、周瑜は兄の部屋を物色し始めた。
おにいちゃまのご本
兄の、まだ簡単な教科書をばらばらと本棚から落として周瑜はそれを適当に開く。
なにやら黒いミミズがたくさんいることだけはわかった。
そのミミズはどうやら同じ形のものがいくつかある。
向き合っているミミズを見つけて、これはきっとご挨拶をしているに違いないと周瑜は推測した。
こっちのミミズさんがこんにちは、こっちのミミズさんもこんにちは
ふむとひとりで納得して周瑜は同じミミズを探した。
ニィハォニィハォと歌いながら、小さな足を今度は机の方に向ける。
縦横無尽に歩き回る三歳児ほど恐ろしいものはない。
椅子の上に立ち上がり、机の上から兄の筆を取る。
すっかり墨が乾いた筆は硬くなりきっている。
つんつんと指でつついて周瑜は怪訝な顔になった。
なにも面白いものではないらしい。
しかし兄がこれを持っているときにはどうもふさふさした物だったような気がする。
寝ているのだろうか
ニィハォと声をかけてみるが、それは何も返事をしない。
もっと突っついたら起きてふさふさになるだろうか
周瑜はもう一度筆の先をつつく。
どうも機嫌が悪いらしい
「ふさふさ」にならない筆に口を曲げて周瑜はその筆を放り出した。
周瑾はまだ戻ってこない。
自分が散らかしまくった兄の広い部屋にひとりでぽつねんと座り込んで、周瑜は、これはやばいと思った。
以前兄の木簡をばらばらにばら撒いて起こられたことがあったのだ。
これを見たら今度も兄はとても怖くなるに違いない。
周瑜はショウシーショウシー(お片付けお片付け)と言いながら今度は散らばした木簡をひとつところに集めることにした。
しかしこの木簡は曲者であった。
片付けようとするところころと転がるのだ。
それではこれを元に戻そうと周瑜は考えたのだが、端を持ち上げて丸めようとするともう片方の端がころころと転がって床に伸びてゆく。
結果として余計に広がってしまった木簡の群れに、周瑜は呆然としてそれを眺めた。
おにいちゃまのご本壊しちゃった
周瑜は蒼白になった。
これは隠さなくてはいけない。
ショウシーショウシー
言いながら周瑜はその広がってしまった木簡をかき集めて本棚に突っ込む。
これで元通りだ
周瑜は元に戻した。つもりになった。
だが、もともと本棚に綺麗に丸めて積まれていたそれは、見る影もなくばらばらに広げられた状態で突っ込まれ、ある木簡などは本棚からはみ出してカラリと床のほうに伸びている。
そのころ周瑾は台所からみかんを持ち出したのを老陳に見咎められて首をすくめていた。
「一小爺、じいやは哀しいです。こんな風な躾をした覚えはございませんぞ」
ほしいのであれば一言侍女に言いつけてくれればいいと老陳は言ったが、しかし侍女に言えば母の知るところとなる。
周瑾が怖いのは母である。
老陳におとなしく怒られて部屋に戻った周瑾が目にしたのは、弟にばらばらに散らかされた部屋であった。
おにいちゃまが戻ってきた、どうしよう、どうしよう
周瑜は考えた挙句、布団に隠れた。
頭隠して尻隠さず
「ここだぁっ!」
布団をめくられて周瑜が布団にへばりつく。
それからばれたと知るや否や、周瑜は机の下にもぐりこむ。
周瑾がそれを追いかけて机の下にはいずりこんで周瑜の着物の裾を捕まえる。
「あいてっ!」
机の柱に頭をぶつけて周瑾は思わず頭を抑えた。
その間に周瑜は本棚の後ろに隠れている。
しばらく追いかけていたが、つかれた周瑾は周瑜を捕まえるのをあきらめた。
なんとか老陳からもらってきたみかんをいくつか布団に並べて牀に座り込み、おいでおいでをして弟を呼ぶと足をぶらぶらさせながらみかんをむき始める。
周瑜は安心した。
とてとてと牀のほうに寄っていくと、おいしょと牀にあがって兄のひざに座り込む。
周瑾も周瑜を膝に乗せて満足したように、むいたみかんを周瑜の小さな手の平に載せた。
「おにいちゃま、ごめんなさい」
七歳の周瑾の膝で、三歳の周瑜は丸くなった。
傍目に見て、仲のよい兄弟の様子に侍女は周瑾の部屋に足を入れるのをやめてきびすを返した。
ふたりの母から様子を見てくるようにと言われてきたのだが、まったく心配は要らなかったようだと安心したのだ。
みかんを食べ終わって、周瑜は兄にすがりついた。
お話聞かせてほしいけど、おにいちゃま寝ちゃったからまた今度
その日、周家の兄弟二人は同じ牀で丸まっているのを母に見られたことも知らずに夕方まで寝ていたのであった。
追記:それを知った妹が、阿瑜ばかりずるいと大泣きしたのは後日の話しである。