虎吼南天

 血気にはやる少年がという話しを耳にした。
 チビとからかわれて頭に血が上った子供が、相手を斬り倒した。
 そういう話しだった。
 少年は名前を呂蒙というと聞いた。
 自分の知っている呂姓の男、呂範と同じ一族の出だろうか。
 からかった者を愚か者と言う者もあれば、頭に血を上らせた子供を愚か者と呼ぶものもいる。
 賀斎は自分の剣の手入れをして鞘に収めた。
 きれいに手入れをされた剣は、黒漆の鞘に収められてはじめて落ち着く。
 人生で最初の敵を斬り倒した剣だった。
 儒学者であった父や伯父からは、人を切るなどとんでもない話だと諭されたが、いかんせん自分は儒学の徒には向いていなかった。
 例えそれが血の雨が降り注いでくるような場所であっても、ここが自分の居場所なのだ。
 手入れを終えたばかりの剣を、もう一度黒漆の鞘から抜き放つ。
 白刃がきらめく。
 ゆっくりと燭の灯に照らすと、白刃は柔らかく光を反す。
 賀斎はもう一度、布で剣を拭って鞘に収めなおした。
 牀に転がると、賀斎は目を閉じた。
 目の奥に、どこかで見た光景が広がる。
 かつて賀斎は、郡吏として職に就いていた。
 役人というのは案外つまらないもので、何もかもが上司の言うがままに従うだけだった。
 面白くないと父に駄々をこねたところでどうしようもないことぐらいはわかっている。
 その当時の賀斎は、それでも駄々をこねるほどの子供ではなかった。

 なんてことをするんだ!
 これからどうなるかわかってるのか!
 向こう見ずが!

 からかわれた少年が言われた言葉ではない。
 賀斎が言われた言葉だ。
 返り血を浴びたまま、剣に付いた血もそのままで賀斎は振り返った。

 ならばどうする、このままでよかったと言うのか

 県吏を殺したことを後悔をしているとは思わなかった。
 賀斎がしなくても、いつか誰かが同じことをしただろう。
 きりりと唇を結んだ青年を同じ職場の大人たちは冷ややかな目で眺めた。
 賀家の一族が、そもそも慶氏と名乗っていたことを知らないものはこの辺りにはいない。賀家は元々慶家と呼ばれていたが、清河王劉慶の諱を避けて賀と名前を改めた。それほど遠い話ではない。一族の姓を改めたのはほんの少し前、賀斎の伯父の代なのだ。
 役人であれば、慶家がどのようなものかぐらい知っている。
 儒教国家である漢において、春秋を読んだことのない役人などいない。
 何にしても、あの賀家の青年だということを思ったのか、誰もが眉をひそめていた。

  丁丑、崔杼立って之に相たり、慶封を左相と爲。(崔杼は齊の宰相となり、慶封が左宰相となったということ)

 慶氏の祖である慶封に、儒学者たちはよい印象を持たない。賀斎がなにか悪事をしでかせば「あの慶氏の」と言われかねない。
 腰に佩いた剣をもう一度抜き放ち、賀斎は鼻を鳴らした。
「血気にはやる少年が、とんでもないことをしでかした、とね」
 賀斎が斬り倒したのは、県吏の斯という男であった。
 この斯従という男は節度のない男として知られていたが、これを諌めようとすれば主簿が首を振る。
 斯氏は県の有力者であるというのだ。
「それと諌めるなと言うのと、どう関係する」
 賀斎の言葉に、主簿がしれっとして答える。
「斯の一族は、山越と縁があります」
 そうして返答してから賀斎のほうを見て、主簿はぞっとした。
 賀斎の表情が険しい。
「なぜそれを先に言わない、山越と縁があるのであれば、まず山越を手引きするだのということを疑わなければならないはず。それを諌めるなというのは斯従の軽率な行動と非道を助長するだけだろうが」
 すいと立ち上がり、賀斎は脇に置いていた剣を抜き放った。
 銀光がきらめく。
「県吏の斯従を引っ張り出せ!来なければ引きずり出せ!」
 しばらく時間が経って引きずり出された斯従は、賀斎の表情を見てぞっとした。誰も彼に対して、そのときの賀斎のような表情を見せたことはなかった。
「なんです」
 かろうじて普段通りの態度を保つことは、彼にとって自分の矜持を保つことだった。
「行動を改めろ」
 賀斎の声が重い。斯従の背筋が汗ばむ。
 それでも彼は、笑った。
 何がおかしい
 賀斎が眉根を寄せる。
 県の有力一族の出身である自分を裁くことはできない
 それを斯従は知っているからだ。少なくとも今までには自分を諌めるような男もいなかった。それがこの賀という青年は、自分を諌める。恐らくは若い長だから、自分を諌めるということがどういうことかわかっていないのだ、と、斯従は自分に幾度か声もなく言い聞かせた。
「斯一族は有力一族だと聞いた」
 それ見ろと言わんばかりに斯従の表情から緊張が解けた。
 だが賀斎の言葉は安堵を打ち消した。
「山越と親しいそうだが、我らにとって山越はいわば賊。山越と結ぶのであれば、斯一族も放っておけるものではない。これまでのおまえの蛮行とあわせて、これ以上放っておくわけにもいかないということぐらい誰もがわかっている」
 賀斎の口が結ばれた。
 重厚な黒い鞘に収められた刃がひらりときらめいたように見えた。
 賀斎の手に、重い手ごたえがある。重心を剣にまかせるように押し切って、剣を持った腕を振り切った賀斎は剣を地面に突いた。
 返り血が頬にかかって、生ぬるい嫌な感触が顔を滴り落ちる。
 周りにいた官吏たちが口々に悲鳴を上げた。
 足元に斯従の首が転がる。
「なんてことをする!」
「斯一族が怒るぞ!」
「向こう見ずなことをする!」
 中には、よくやった!と快哉を叫ぶ者もいた。
 周りを見回して賀斎は数を数え始める。
 きょとんとして賀斎を眺める官吏たちを見て、賀斎は口を開いた。
「斯氏がどれぐらいで攻撃してくるかわからないが、役所にあるだけの武器を集めて門前に積み上げとけ」
 聞いていた男たちはぞっとした。
「それから農機具もだ。鋤や鍬なんぞがいい。草刈鎌もだ。刃物になるものを持ち寄って斯氏の攻撃を打破する」
 賀斎は淡々と言葉を並べる。
「待ってくれ、対抗しようってのか?!」
「冗談じゃない、相手は斯一族だぞ、山越と好があると聞くじゃないか!」
「私はやる!戦うというのなら私も男だ、武器を集めればいいんだな」
 数日の後、斯氏が集めた手勢は数千人と言われた。
 賀斎は官吏と領民を指揮して城門からなだれ打って出た。



 違うことをして、同じことを言われる。
 面白いと賀斎は苦笑した。
 少年はどのような道を歩いてきたのだろうか、これからどんな大人になるのだろうか
 いつのまにか燭台に灯していた明かりは消えた。
 賀斎は目を閉じたまま、夢うつつに思い出を並べていた。
 同じ空の下で、まったく違う道を歩く少年に、賀斎は彼に届くはずもない言葉をかける。

 いつか自分で手柄を立てて、おまえを馬鹿にした者たちを見返してやるがいいさ、と。

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