光差す緑の歴史


 孫策という名を最近よく耳にする。
 なんでも猛者を相手に大立ちまわりをしただとか、そんな話が多い。
 その少年の歳を聞いて、話を聞いていた少年は耳をそばだてた。
 舒州盧江県。
 小さく、なだらかな山の多いところで少年は育ってきた。
 山の合間を馬が走り抜ける。
 心地よい風が馬の周りをとりまいた。
 周二郎(ジョウアルラン)!
 漢字で書くと、日本語ではとても笑えるのだが、周家の次男殿、ぐらいの意味である。
 声をかけられて少年、周瑜は声のほうへと首をむける。
 とたんに蔦が覆い被さってきて、棒立ちになった馬から転げ落ちた。
 シャオシン(気をつけて)!
 声が上から降ってきて、周瑜は上を向いて声の主を見上げた。
 山菜摘みの農夫たちが、落馬して真っ赤になっている周瑜に向かって声をかけていた。
「周郎!ニィ没事マ(メイシィマ:大丈夫ですか)?」
 心配と苦笑の入り混じったような声をかけてくる農夫たちに、周瑜は自分も苦笑しながら声を返す。
「我没事(ウォメイシィ:大丈夫)!」
 よかったと言って笑う農夫たちと、周瑜は一緒になって笑う。
 上の空で、考え事をしながら馬を走らせていた自分が間抜けだっただけだ。
 心地よい風と農夫たちの陽気な笑い声を、馬に乗りなおしてから周瑜は反芻した。
 部屋に戻って巻物を広げながら、周瑜は落馬して帰ったわりに機嫌がよく、老陳と彼が呼んでいる管家(執事のことである)が、楽しそうですねとにこりと微笑する。
 うんと軽くうなずいて、周瑜はおやつはなかったっけと老陳に尋ねる。
 小さい頃から曲と食べ物には目がないらしいと、老陳は苦笑した。
 翌日のことだ。
 壽春に行こうと思う
 周瑜の言葉に驚いたのは、周瑜の同門の友人である蒋幹である。
「壽春なんかに行ってどうするんだ」
 蒋幹の間抜けな声に、周瑜はうむと頷いてからにこりと笑ってみせた。
「壽春に面白そうな男がいるんだと。猛者相手に立ちまわりをするらしい。しかも俺とは同じ歳なんだ。どんなごつい男か見てみたい」
 おまえのそれは物見遊山かと聞き返す蒋幹に、どうだろうかと周瑜は首をひねった。
 どんな大猩猩(ゴリラ)が出てくるのか、それに興味があると言う周瑜に、それはやはり物見遊山だねと蒋幹がため息をついた。

 ニンジアダシャオイエナ(ニン家的小爺?:あなたのところのお坊ちゃんは)?
 周瑜の声に振り向いたのは、よく日に焼けた少年である。
 少年がはあと素っ頓狂な声を張り上げてきた。
「ウォジアメイヨウシャオイエ(我家没有小爺:うちにはお坊ちゃんなんていねえよ)!」
 少年の返答に、周瑜は困ったように首をかしげた。
 まだ線の細い色白の少年の造作に、向こうの少年も首をかしげた。
 少し考えてから、周瑜は少年に向かってもう一度声をかける。
「ジャァリシィブゥシィスェンジア(這裡是不是孫家:ここは孫家ではないの)?」
 周瑜の言葉に、少年が一瞬ぽかんとしてから鼻の頭をかく。
「ニィライファンスェンジアマ(ニィ来訪孫家マ:孫家に来たのか)?」
 少年の言葉に、周瑜が思いきり大声を張り上げて聞き返した。
「シィアー(是ア:そう)!ニィジィダオザイナァリ(ニイ知道在ナァ裡:どこだか知ってるかい)?!」
 周瑜の声に、少年が面白そうににやにやと笑って周瑜を眺める。
「ニィライガンシェンマ(ニィ来干什マ:何しに来たんだ)?」
 そばに来た少年に聞かれ、周瑜は少しむっとして少年を馬上から見下ろした。
「ウォライガンシェンマ、ニィウゥグァン(我来干什マ、ニィ無関:なにしに来たって君に関係あるか)」
 周瑜の言葉に、少年が「ウォヨウグァン(我有関:あるね)」と答える。
 一瞬面食らって、周瑜はなんでさと聞き返す。
 少年が楽しそうに周瑜に声を返す。
「もし君が探してるのが孫将軍家なら、それはうちだから」
 少年の答えに、周瑜は今度こそむっとした顔で少年に言葉を返した。
「だったら孫策ってのは君んちのお坊ちゃんじゃないのか」
 少年はしばらくぽかんとして周瑜を見上げてから口を開いた。
「そりゃ俺だぁ」
 周瑜がぽかんとする番だった。

 日焼けした普通の少年。
 少なくとも大猩猩を想像していた周瑜にとっては意外だった。
 変なのと孫策に言われ、周瑜は何がと聞き返した。
「俺は君が孫家に来たって言うから、てっきり親父のところに来たんだと思ったんだよ」
 そりゃあ当てが外れたなと周瑜は孫策に向かって、心底楽しそうに笑う。
「俺のほうはさ、猛者相手に喧嘩をふっかけるような奴だというから、てっきり大猩猩が出てくるものだと思っていたね」
 周瑜の告白に、孫策は心外だと言わんばかりの落胆ぶりを大げさにして見せた。
 けらけらと二人で笑いながら庭を歩く。
「こっち来てみろよ」
 孫策に言われ、周瑜は孫策の後ろをくっついて行く。
 大きな木があった。
「ここに上ると、うちの庭が一番綺麗に見える」
 孫策の自慢の場所だということが、見当がついた。
 そういう場所は周瑜にもある。
 父と兄が使っていた書斎がそうだ。
 そこには父と兄の思い出が残っているからだった。
 大きな木だなと嘆息する周瑜に、孫策が自慢げにそうだろうと胸を張った。
 木の上から見ることのできる散策路を、男女の二人連れが仲良く歩いているのが見えて周瑜は孫策をつついた。
「あれがうちの親父とお袋でな、いい年こいて、こっちが気恥ずかしい」
 照れたように言う孫策に、そうかと微笑して返してから周瑜はぽつりとつぶやくように言葉をこぼした。
「仲がよさそうでうらやましい」
 周瑜がつぶやいた言葉に、孫策が今度はぼそりと返す。
「おまえのところは仲悪いのか?」
 孫策に聞かれて、周瑜はしばらく沈黙してから一言だけ「不(いや)」と答えるしかなかった。
 孫策はそれ以上答えもしなければ何も聞かない周瑜に、独り言のように続ける。
「親父どもがいちゃいちゃしてるって事は、また親父が戦に行くんだ。こういうときだけはお袋が親父を甘やかす」
 苦笑する周瑜に、下りようと孫策が声をかけた。
 木からすべるように下りて散策路を少し歩くと、木の上から見た女性だけが先に歩いてくる。後から来た男性が困ったように女性を追いかけてきた。
 二人で気を利かせたつもりか、孫策も周瑜も少し足を緩めてわかれた道のほうへと少しそれて足を止めた。
 仲がいいんじゃないのか
 小声で問う周瑜に、孫策はいつもあんなだと小声で返す。
 男の大き目の深い声が聞こえてくる。
 絶対無事だと言ってるだろう!
 少し訛っていて、舌ったらずな発音だ。
 それから声が小さくなり、少年二人は思わず近くに寄ってしまった。
 本当に心配なら、お守りをくれ
 そう言って口付けをする父を眺めて、孫策は思った。
 珍しく親父が柄にもねえこと言ってやがる
 そんな二人を見ながら周瑜は考えた。
 女を口説くならこのぐらいしなきゃならんのか
 二人の持った感想が、正しかったのか否かは不明である。
 しばらく抱き合ったままでいたものの、散策路に立ち尽くした二人に気がついた孫夫婦は気まずそうに息子とその新しい友人を眺めた。
 息子にとって、少なくとも父親は英雄だった。
 誇らしげに父の横に寄る新しい友人を眺めて周瑜は唇を少しかみ締めた。


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