紅盞


 孫策、字伯符。
 彼は幼馴染みの突拍子もない言動には慣れていた。
 少なくとも彼はそのつもりだった。
 なぜならば出会いからして突拍子もなかったからである。
 初対面で、孫策というのはいるかと程普が聞いたら卒倒しそうな聞き方で孫策を尋ねてきた男は後にも先にもこの幼馴染み一人である。しかもはるばると盧江から来たという。孫策を尋ねて。孫堅を尋ねてくるというのならばまだ合点がいく頃にだ。
 そうして、突拍子もない幼馴染みは次に引っ越して来いと言った。おそらくは自分が舒から壽春に来るのが面倒になったからであろうと孫策は予想し、幼馴染みの返答はその通りであった。
 それから、うれしいことに親戚の反対を押しきって自分の軍を後押ししてくれると言った。親戚一同の管理する部曲をほったらかしてである。理由を聞いたところ、おまえと一緒のほうが面白そうだったからと幼馴染みは答えた。どうせひとつ所にじっとしていることに厭きたのだろうと程普は言った。幼馴染みは肯定した。
 所詮その幼馴染みときたらそんな男である。根っからやりたい放題のことができるように自分で動く男なのだ。そうしてそれには正当な理由をつける。
 聡明だとよく言われるが、自分に正直で狡猾であると孫策は思うことがある。
 もっとも、戦略家として頼りにしているし、友人として馬が合う。
 その男と一緒にいて楽しいのは確かである。
 当の幼馴染みのとんでもない言動には今更驚きはしないと孫策は思っていた。
 そのときまでは。
 その幼馴染みである周瑜、字公瑾は一言まず言った。
「伯符、俺は嫁さんをもらうぞ」
 孫策は耳を疑った。
 ここは乱に乗じた盗賊が荒らした庭園である。しかも自分たちは盗賊を追っ払ったばかりで、庭園の見まわりをしているところである。そして昨日まで幼馴染みは何も言わなかったというのにだ。
「公瑾」
 孫策に声をかけられ、周瑜はうんと孫策のほうも向かずに聞き返した。
「おまえいつ女に文なんぞ送ったんだ」
 孫策に聞かれ、周瑜ははあと気の抜けた声を返す。
「んなもん俺は送ってねえよ」
 周瑜の返事に孫策は一瞬手を止めた。
「文も送らないでどうやって口説き落とした」
 孫策の言葉に周瑜は口説いてねえよと平然と言う。
「口説かないでどうやって嫁さん見付けたんだ」
 周瑜はそこで初めて孫策のほうを見た。
「あそこ、美人が胡散臭そうにこっち見てるだろう。俺はあれを嫁さんにする」
 周瑜に言われて孫策が見ると、確かに気の強そうな女が二人、ちらちらと自分たちを見ている。
「いい女だな」
 孫策がつぶやき、周瑜がそうだろうとうなずく。
 しかし周瑜の台詞は孫策にはこう聞こえた。
 伯符よ、俺は嫁さん強奪していくぞと。
「見ろよ、胸もでかい」
 周瑜が耳打ちし、孫策は唸った。
「女はケツだろ、俺は隣りの女のほうがいい。オヤジも女はいいケツの女を選べって言ってたぜ」
 孫策の返答は周瑜の納得するものではなかったらしい。
「いや、俺は胸のほうがいいな。おまけに別嬪だ」
 別にそんなあほな会話が聞こえたわけでもなかろうが、二人が近づいたところで威勢のいい女(孫策が気に入った女である)が槍を突き出してきたのには二人とものけぞった。
 思わず両手を挙げる二人に、女がふんと鼻を鳴らして見せた。
「喬家の娘がおめおめと盗賊の手にかかるとは思わないことよ」
 吹き出したのは孫策である。
「どうだ、俺の目に狂いはなかったぞ。いいケツの女は威勢がいい」
 けたけたと笑う孫策に、周瑜は首を振った。
「威勢のいい女より俺は可愛い女がいい」
 周瑜の言葉を無視し、孫策は女に向かって言った。
「手にかかってくれないんならどうだ、盗賊の女にならないか」
 この孫策の言葉には喬家の娘二人と周瑜が三人そろって冗談じゃないと返す。
「喬家の娘がそれほどまでに矜持が低いと思うのあなた」
 娘の言い分はもっともである。
 周瑜の言い分は彼なりの論理を構成していた。曰く、
「女になるってことは妾ってことだろう、それでは嫁さんにするのとは違う。今から布屋で紅い布買って被せて喬国老に挨拶しに行きゃそれで晴れて正式に嫁さんだ」
 冗談でしょと喬家の娘は今度も二人そろって声をあげた。
 それに言い返した周瑜の返答は、やはりどこかずれていた。
「これでも俺結構もてるんだぜ」
 これには孫策が、俺ももてるぞと言い返した。
 その孫策に、周瑜はこそりと耳打ちする。
 これで喬国老におねだりするものは決まったなと。

 かくして日を改めた数日後、喬国老は盗賊退治のふたりを慰労するべく落ち着いた邸にふたりを招いたのである。
 もちろん、娘ふたりをついたての後ろに呼んで。
 招かれたのは盗賊退治の英雄である。娘ふたりはかなり期待していた。
 当然威風堂々とした君子であろうと。
 挨拶に出て、二人が唖然としたのは当然であろう。並んでいるのが自分たちを散々適当にあしらってくれたバカモノふたりである。
 大喬、小喬と、お二方の名前は聞き及んでおりますと、まずはケツが好みだと言った青年がはきはきと言葉を並べる。
 しらじらしいとつぶやく大喬の言葉に彼はにやりと小さく口角を上げて見せた。
 噂にたがわずお二人とも瑾玉のようでと、胸がいいと言った青年がおっとりと言う。
 ふんと息をつく小喬に彼はにこりと笑いかけた。
「お二人ともご活躍はうかがっておりますが、噂にたがうことなき勇猛ぶりでしたな」
 父、喬国老の豪快な笑い声とともに発された言葉に、二人の娘は横で冗談でしょうとふてくされている。青年二人はまったくそんなことは構わないようで、それぞれ自分の気に入りの娘の方に見入っている。
 並べられた琴に目をつけたのは周瑜であった。
 孫策が音に疎いというわけではない。ただ周瑜のほうが度を越した楽器狂いだっただけである。
「よい琴ですね、名工のものとお見受けいたしますが、きれいな細工が施してある」
 周瑜がつぶやいた言葉に、孫策はほら来たとあきれ、喬国老は待ってましたとばかりにそうでしょうと満足げに言う。もちろん自分が娘たちの為に特別にしつらえさせたものであるのだから、ここで貶されてはたまらないのだが。
 そして娘たちは琴の前に座って調律をはじめる。
 二十一弦の琴は黒漆で塗られ、漆黒の身を娘たちの手に預ける。
 とんと音が鳴らされ、曲が始まると周瑜は首をかしげた。孫策がその隣りでくっくと苦笑する。
 こりゃ音が外れっぱなしだ
 孫策の苦笑に、周瑜はうむと楽しそうに唸って孫策に小さくささやいた。
 あの女、わざと音をずらして調律している
 これには孫策はおやと首をかしげた。
 一音弾くごとにちらちらと俺らのほうを見るだろう、気になってるんだよ、外しているから怒鳴られないかとねと周瑜がささやき、孫策は苦笑するしかなかった。
 かたんと席を立ち、周瑜は失礼と大喬に声をかけ、小喬の隣りの琴を借りて調律を始める。大喬はそっけなく席を立って琴から離れ、その間も小喬は琴を弾き続けている。
 その小喬をちらちらと見ながら周瑜はとんっと一音弾いてにっと笑った。
 ぎょっとしたのは小喬である。
 胸が好きな隣りの男は自分が狂わせた分だけ、正確に音を外して自分の琴に合わせているのである。寸分の狂いもなく。
 不協和音の群れは一転して少し音の狂った普通の曲に変わり、孫策は面白そうに周瑜の方を見て笑った。
 琴瑟相和すと言うでしょうと小声でささやいた周瑜に、小喬は少し頬を赤らめてそうねと言う。どこまでも瑟は合わせるから、琴を弾いてくれないかなと周瑜に言われ、小喬は父のほうをちらりと見る。
 にこにこと自分たちを眺める父の表情に、小喬はまず抵抗する方が無理のようだと結婚を承諾する羽目になった自分を見つけた。
 一方で、机の下では脚を蹴られながらも表面は喬国老に笑って見せる孫策に、大喬は無駄な抵抗だろうかと考えたものの、やはり足は孫策の足を踏んづけていた。どうも夫婦になる前からカカア天下が決定したようだと孫策が少し後悔したのは言うまでもない。
 そういえばやはりケツで女を選んだオヤジはカカア天下であったと。
 俺は痛いのは好きじゃないが、いい女に軽くつねられるぐらいはいい
 孫策にささやかれて大喬は呆けてしまった。
 ばっかじゃないのあんた
 大喬につぶやかれて孫策は苦笑した。
 喬国老が席を外してから、彼らがそれなりに親睦を深めたのは言うまでもない。
 数日後、紅い衣を着て紅い駕籠を控えた孫策と周瑜は馬を並べて花嫁を迎えた。
 紅い盞を被った花嫁は艶やかで、やはり自分の選んだ女のほうがいいとバカな男二人はこそこそと言い合った。
 孫策が大喬の紅い盞を上げてささやく。
「やっぱり親父の言った通り、いいケツした女にハズレはないな」
 バカと大喬に言われて蹴られて牀からこけ落ちながら孫策は思った。
 ただ威勢がよすぎるのが難点だと。
 同じ頃、周瑜は小喬の紅い盞を上げてささやいた。
「この胸に抱かれたままなら窒息死するのもいいかもね」
 小喬は浮気したら布団で窒息死させるからとささやき返し、周瑜は小さく笑いながら思った。
 こりゃもらった恋文を全部焼却処分しなきゃなあと。

 孫策の死はそれから十年も経たないうちの出来事であった。
 孫策の亡骸にバカ野郎とだけ吐き捨てるように言って孫権を呼び出した周瑜が部屋に戻ると、いつも泊まる部屋には小喬がいた。
「姉は今晩も義兄さまの横についているそうよ」
 妻の言葉に周瑜はそうかとつぶやいた。
 夫の言葉に妻は辛そうに微笑み、妻の微笑に夫は寂しげに微笑して返す。
「伯符も、自分にないものを持っている女が好みだったんだなあ」
 そうつぶやく夫の言葉に、妻はまた微笑した。
「なあに、義兄さまが持っていなくて姉が持っていたものって」
 妻に聞かれて夫はつぶやいた。
 強さだと。
「あなたもあなたが持っていないものを私に求めた?」
 妻にまた聞かれて夫はつぶやいた。
 もちろんだと。
「私はなにを持っていたの?」
 妻のこの質問に、夫は答えた。
「豊満な胸とやあらかい尻と白い太もも」
 新婚の頃と変わらない夫の答えに妻は苦笑した。
「今は窒息死しないぐらいに、ずっと抱いていてあげる。今夜一晩」
 小喬に言われて周瑜はもう一度寂しげに笑った。
 明日になったらこれが悪夢であったと笑えればいいと願いながら。

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