黄龍賦 西暦200年、この年官渡では三国志上の一大決戦、官渡の役が繰り広げられた。 そのわきで暗躍したのが東呉勢力である。 東呉に拠点を構える孫家を束ねるのは、後漢将軍孫策。 その参謀には美周郎と異名をとる周家の御曹司がいる。 洛陽に間隙ができる。 それが狙い目だと、孫策と周瑜をはじめとする東呉の誰もが考えていた。 その東呉には、緑柳がたなびく江東の風の中に立ち尽くす少年がいた。 孫家の次男で、孫権という名の少年だ。 おっとりとした風貌は、母親に似ているのだろう。父や兄のような荒々しい雰囲気はまとっていない。やわらかい視線に、ゆっくりと流れる真っ白な雲を映している。 間隙を突くなどということを考えず、ただ官渡の役は横目に見て放っておけばよいと彼は思っている。放っておけば、一大勢力である袁家か、新興勢力の曹家か、どちらかは労せずして滅んでくれる。 そこへ乗り込もうというのは危険に見えた。 友人の胡綜が、孫権の横に座り込んで筆を動かしている。 時折、胡綜が筆の柄でとんとんと拍子をとるようにする。 白雲…楊柳…青天…胡綜がつぶやく。 「阿綜、それができたら聞かせてくれよ」 胡綜が孫権と出会ったのは胡綜が十四の時で、一見して兄のような覇気をどうも感じなかった。 胡綜が見るところ、孫権は兄である孫策とは違い、他人の言うことをきちんと守る。 孫策が型破りな男だとは思わないが、孫家に遊びに行って感じるのは、孫策はどこかへすっ飛んでいってしまいそうな男だということだ。その孫策の友人の周瑜にしても、孫策の悪友といった風情で、どうも自分や孫権とは違った人間性の持ち主だということぐらいしか見当がつかない。 確かに頼りになる兄ではあるがと孫権は言う。 そうしてその後には必ず、兄上も周兄も止まらないから心配なんだと孫権は続ける。 座り込み、腕組みをして唸る孫権を胡綜は苦笑しながら横目に見る。 「そうやって心配するの、案外好きなんじゃないのか?」 筆を動かしながら、胡綜は言う。 庭でこうして遊んでいると、孫権はいつもため息をつく。 「どんなにしても、兄貴には敵わないんだ」 この言葉を孫権から聞くのが、胡綜には一番辛い。 胡綜が孫策の性格を全て知っているわけではない。 だけれども胡綜は孫権の友人で、孫権のよいところをわかっているつもりだ。 穏やかで他人の意見を聞くことのできる孫権は、兄に負けないいい男だと胡綜は思っている。だから辛い。 柳の枝がしなって孫権と胡綜の頬を撫でる。 阿権と胡綜は声をかける。 孫権は頬を撫でた柳の枝を捕まえてから胡綜を振り向いた。 筆を走らせていた胡綜は、顔をあげてにこりと笑う。 「阿権が偉くなったら、おまえのために詩を書こう。だからそのために偉くなれよ」 つかんだ柳の枝をひっぱったまま、孫権は胡綜を眺めた。 真っ青な空が水面に映っている。 龍蝦(ザリガニ)!と胡綜が叫ぶ。 水際を赤いものが横切る。 捕まえる前に水の中へ逃げてしまったザリガニを目の前にして、柳の枝につかまって取ろうとした胡綜が派手な音を立てて池に落ちた。 わっと孫権が目を覆う。 目も当てられないとばかりに濡れそぼった自分の着物を眺めて、胡綜はきょとんとした。 孫権が大笑いする。 「阿綜、はやく着替えたほうがいい、俺の着物貸すからこっちに来いよ」 笑いながら言う孫権に、胡綜は自分も笑いながら着物の裾を絞った。 「うん、俺丈夫だから問題はないと思うよ」 慌てたような足音が聞こえて孫策が顔を出し、胡綜は照れたように首をすくめて見せるしかなかった。 「なんでもないです!お兄さん驚かせてごめんなさい」 胡綜が言うが、孫策は苦笑して自分の上着を胡綜に放った。 上着が頭にひっかかって、胡綜はもう一度孫権に大笑いされた。 「阿権、おまえたち何してたんだ?」 兄に聞かれて、孫権は困ったように胡綜に目を向ける。 放られて地面に落ちた孫策の上着の土ぼこりを払いながら、胡綜が返事を返す。 「ザリガニを取ろうとして池に落ちたんです」 孫策がきりりとした相貌をほころばせて苦笑する。 孫策が柳の枝を折って、孫権と胡綜に渡す。 「これにな、餌をつけるとザリガニが釣れるんだぞ」 胡綜が反対側にいる孫権に目を向けると、その孫権は怪訝な顔で兄を眺めている。 「兄上、周家にいたときに兄上が取ってきたザリガニは池で釣ったザリガニだったの?」 弟に聞かれて、孫策はうむと唸る。 「ザリガニだけじゃないぞ。そこに泳いでいる鯉も、突き詰めれば食べ物だ。捌けば食える!しかし小さい鯉だな」 あれは鯉ではなくボラではないだろうかと思う胡綜だ。 戻り際孫策は、ザリガニが釣れたら焼いて食べたらいいと言って弟に殴られた。 孫権と兄はいつ見ても面白いと胡綜は苦笑した。 着物はすぐに乾くからと言われて、いいからと言って上着を放り出したままで部屋に戻る孫策を目で送って、孫権の目がいつになく毅然として兄の背中を見ていることに気がついた。 「阿綜」 孫策の手折った柳を弄ぶ胡綜に、孫権がひどく穏やかな、それでいて思いつめた声をかけた。 なにも言わずに胡綜は孫権の言葉が続けられるのを待つ。 孫権は優柔不断に見られて、実のところ強情だ。 「洛陽攻めは、本当に得策だと思うか」 逡巡してから胡綜は唇を湿らせた。 踵を返して池に向かって座り込み、孫権は兄に手折ってもらった柳の枝で水を跳ね上げる。飛沫が池に幾多もの波紋を作る。 孫権の隣に座って、胡綜は否と小さく答えた。 孫策と周瑜が洛陽を攻めるのであれば、それは成功する可能性もいくらか高くなるだろう。仮にどちらかの勢いがそがれたら、失敗する。 「洛陽とこことの間に、絶対にふさがれないような退路はあるだろうか」 孫権の問いかけに胡綜は曖昧に相槌を打って応じる。 何を考えているのかと胡綜は尋ねない。 胡綜にとって孫権は孫権がやりたいようにすればいいのだ。 水面を眺めていた孫権が勢いよく立ち上がると、顔を真正面に向けて誰にともなく低い声で何かをつぶやいた。それから孫権はいちど胡綜へ顔を向けて、すぐに真正面に向き直る。 「阿綜、おまえに天下を見せてやる。天下が見えたらまた詩を作ってくれ。おまえが忘れていたら俺が思い出させてやる。おまえが自分で一番だと思う詩だ」 それだけ言って足を部屋に向けると、孫権はすたすたと歩き始めた。 まっすぐに歩く孫権を、胡綜は慌てて追いかけた。 それからどれぐらい経ったか胡綜は覚えていない。 孫策負傷の一報に慄然としたのは覚えている。 狩場で矢に当たったのだと言うものの、できすぎている。 胡綜の足はまっすぐに孫権の部屋へと向かっていた。 孫権は間違っても兄を暗殺しようなどという男ではない。 それでもひとすじの引っ掛かりがぬぐえない。 燭も灯さずに、月明かりに照らされる花を見つめて、孫権は呆けていた。 「阿権、こんなところにいていいのか」 胡綜の言葉に孫権は、ふいと踵を返して胡綜の肩を叩く。 運が悪かった 孫権がすれ違いざまにつぶやいた言葉が胡綜の耳を打つ。 そのとたん月明かりに青白く照らされた建物さえも、胡綜の視界から消えた。 鼓動が大きくなる。 運が悪かったのは、兄なのか、弟なのか。 運が悪かったから兄は矢に当たったと言ったのか、運が悪かったから自分は疑われると言ったのか。 自分にできることは、と胡綜は考える。 ただひとつだけあると思いついて、胡綜は楽になった。 孫権を信じることができると思い当たった。 噂に伝え聞くように、孫策に向けて矢を放ったのが許貢の食客であったとして、狩場に潜んでいたのだから誰かが孫策を殺すことのできる日、場所を指図しなければ矢を放つことなどできなかったはずだが、それを知らせたのは孫権が放った刺客だったのか、それとも誰かが無意識に喋ったのを聞いたのかもわからない。ならば友人である自分は孫権を信じるだけだ。 胡綜の視界に月明かりに照らされた世界が戻った。 踵を返して孫権の背中を追い、後ろから肩を叩く。 「後何年したら天下を見せてくれるのかわからないが、楽しみにしている」 胡綜の気のせいかもしれないが、気が張っているような孫権の肩から一瞬気が抜けた。 乾坤肇立、三才是生… 胡綜の朗々とした声が大空に舞う。 時に東呉大帝黄武八年、西暦229年夏。 黄龍夏口に見ゆ、是において権(孫権)尊号を称し、瑞に因りて元を改む。又黄龍大牙と作し、常に中軍に在し、諸軍の進退、其の向かうところを視、綜(胡綜)に命じて賦を作り曰く: 乾坤肇立、三才是生。狼弧垂象、實惟兵精。聖人観法、是効是営、始作器械、爰求厥成。…… |
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