人事の都合


 変な時期に、胡綜に移動命令が出された。
 秘書課への移動命令だ。
 なぜこんなときに移動命令がでるのかわからない。
「おかしくない?」
 幼馴染の文句に孫権は首をかしげた。
「なにが?」
「中途半端な時期に移動命令が出されるのが。なんで仲謀も不思議がらずにハンコ押すわけ?」
 首をひねる胡綜に、孫権は唸った。
「子衡が自分で持ってきたんだ、偉則の辞令。子衡と一緒に子瑜も来るし。よっぽど子瑜に好かれたんだよ、偉則おまえ」
 秘書課のロバに好かれてもうれしくないと胡綜は思うのだが、ロバ秘書は孫権のお気に入りなのでそれは言わない。
「でもさふたりの配慮に感謝。これからは書類作りを全部偉則が手伝ってくれるんだもんね」
 孫権がにこにこと笑顔で言う。
「全部?全部僕が書類手伝うってなに?」
「違うの?吉報訃報の電報とか、全部偉則に任せていいって言われたんだけど。それで俺がOKしないわけないじゃん」
 孫権秘書=孫権の代筆係。
 普段と同じ関係がそのまま続くだけである。
 こつこつと音がして諸葛瑾が顔を出す。
 このロバがおとなしい顔してやってくれると胡綜がじーっと諸葛瑾を見上げている。
「胡君がいましたか、ちょうどいい。初仕事をしてもらいたいのだけれどいいですか?」
 嫌だと言いたい
 胡綜は思ったものの、諸葛瑾に逆らってどうなるかはわからない。
 なにしろ諸葛瑾、自分よりも確実に頭がいい。
「荊州の会長が亡くなられて、弔問に魯子敬が行ったでしょう。そのときに荊州傘下の会社と好を持ったということで旧正月の挨拶が来ているので社長に返礼を出してもらわなければならなかったのですけれど、なにしろ胡君の書くほうが字がきれいで自分の字は恥ずかしいと社長が言って、まだ旧正月の挨拶を返していないのですよ。初仕事として代筆をお願いしますね」
 旧正月の年賀状、と胡綜は口をあんぐりと開けた。
 去年の年末に孫権の私的な年賀状の代筆を手伝って、二月になったら旧正月の年賀状の代筆。
 孫権から出された年賀状はどれもこれも胡綜が代筆していることになる。
「仲謀!年賀状ぐらい自分で書いてくれよ!」
 胡綜が悲鳴を上げたが、孫権はうーんと唸って頬杖をつく。
「だってほら、俺の字って親父も兄貴も読めないって言うんだもん」
 うっと胡綜は言葉に詰まった。
 確かに孫権から自筆でもらった年賀状(それも郵便ではなく手渡しだった)は呂範コレクションの「いらっしゃいませ」(意味不明、後にそれが日本語であることが判明した)と同じぐらい芸術的に書かれた「新年快楽」だけだった。
「筆はだめでも普通に万年筆使えば書けるのに」
 あ、だめ。と孫権が答える。
「万年筆ってさ、俺壊すんだもん」
 万年筆を壊す。
 胡綜がきょとんとする。
「万年筆だと筆圧が高くなって潰しちゃうの」
 もう嫌だと椅子の上で丸くなってしまった胡綜に孫権が困ったように頭を掻いた。
 さっさとスケジュールを広げて資料を整理した諸葛瑾が胡綜の背中をぽんと叩く。
「公私混同。社長室ではあるまじきこと」
「いいよ子瑜、偉則には色々普段から手伝ってもらってるし」
 諸葛瑾が孫権を振り返って腕組みをする。
「いけません。社長からして公私混同では社内の規律がなくなりますからね。会社の敷地からでてからとか休憩室でならいいですよ」
 きちんと息抜きのできる場所を指定して、諸葛瑾はにこりと笑った。
 孫権が上目遣いに諸葛瑾を見たが、諸葛瑾は動じない。
 そして諸葛瑾の理屈は反論のしようがない理屈であることをふたりとも心得ている。
「休憩室に行ってきます」
 孫権が言うと、にこりと笑ったままで諸葛瑾が「だめです」と答える。
 孫権の顔が怪訝な表情になる。
「休憩室ならいいと今子瑜が言った」
「休憩室ならいいと言いましたよ。ですけれど仕事を片付ける前に休憩に行ってもいいとは言ってません」
 静寂が漂い、孫権は仕方なしに椅子に座りなおしてハンコを押しはじめた。
 胡綜は自分に与えられた代筆作業をするべく、諸葛瑾が用意してきたグリーティングカードから好みのものを選びはじめた。
 諸葛瑾が資料を孫権の横にそろえて解説をつける。
「5時から会議ですからね。ふたりともきちんと出てください」
 がばっと顔を上げて孫権が時計を見る。
「子瑜、今4時30分なんだけど、30分でハンコ全部押すの?休憩できないけど」
 孫権に聞かれて諸葛瑾が困りましたねえと答えるが、声はぜんぜん困っていない。
 このロバ
 孫権と胡綜の胸中を同時に同じ言葉がよぎった。
「会議までに必要な書類がこれだけですから、これにハンコを押し終れば会議には問題なく出られます」
 出られますじゃねーよと孫権が内心で文句を言う。
「こっちは今日中にハンコを押してもらえればいいので、会議が終わってからきちんと目を通してハンコを押してくださいね。胡君は年賀状が終わったら広報に載せる社長意見の代筆をお願いします。広報用の文が終わったら西涼有限公司の社長交代への挨拶、社長の所信表明用の文句の下書きがありますから」
 仲謀の代筆がそんなにたくさんあるのかと胡綜がぶつぶつと文句を言う。
 それからと諸葛瑾が言葉を続ける。
「胡君、君の残業手当はしばらくお預けですからね」
 沈黙。
「なんでですか?」
 きょとんとした胡綜に、孫権がぎょっとしている。
「…子瑜、減俸処分ってどれぐらい続くわけ?」
 孫権に聞かれて諸葛瑾が考え込む。
「それほど多くはないと思いますけれど、少なくとも半年は続くでしょうね。なにしろ忘年会が散々でしたから」
 忘年会と胡綜は考え込む。
 忘年会で一体自分は何をやったのか、さっぱり覚えていない。
「…子瑜、偉則は多分覚えてないと思うんだけど」
「覚えてない?」
 うんと孫権が頷く。
「忘年会で何をしたか、覚えてます?」
 諸葛瑾に聞かれて胡綜は首をひねる。
「えーと、翌朝起きたときにすごくスッキリしていたのは覚えているんですけど、当日のことって覚えてないです」
 この男、よほど平時ストレスを溜めているのだろうか
 諸葛瑾の脳裏を不安がよぎった。
「隣にいた営業の凌課長に絡んだことも覚えていない?それを引き剥がそうとした営業の甘課長を蹴り倒したことも?甘課長を助けようとした戦略部の呂課長に肘鉄かましたことも?それでもおさまらなかった胡君を十字固めにしようとした会長にエルボークラッシュかましたことも、会長を助け起こそうとした戦略部の周部長を回し蹴りにしたことも、君を叱り飛ばそうとした人事部の呂部長を張り飛ばしたことも、挙句の果てに社長と一緒になって相談役のナポレオンVSOPを一気飲みしたことも覚えていない?」
「それは、仲謀じゃなくてですか?」
「頼むから偉則、俺だけのせいにするな。俺だって酔っ払ったからって兄貴にエルボークラッシュかますような勇気はない。俺がしたのはバランタイン一気飲み」
 胡綜は蒼白になった。
 孫権は首をすくめた。
 どうやって家に帰ったんだろう…
 そんな変な疑問が胡綜に沸いた。
「どいつもこいつも蹴りをくらって肘鉄くらってエルボークラッシュかまされて打撲ですんだというのも異常ですけれど、氷水をかけられるまで正気に戻らない君が一番問題ですからね」
 胡綜は悟った。
 これは忘年会幹事をやらされた諸葛瑾と、孫堅、孫策、呂範、周瑜、呂蒙、甘寧からのお仕置き処分だった。
 凌統が含まれないのはなぜかといえば、凌統は胡綜に絡まれただけで打撲傷を負っていないからという理由であった。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送