干戈弓弩


「周郎、周公子、周家之二少爺(周の若君、周の若殿、周家の二のお坊ちゃん)、そんな子供染みた理由で私が北に行こうとするのを止めて孫家に引きずり込もうと言うのかね?」
 魯肅の言葉に周瑜が苦い顔をして俯いた。
 なんとでも言うがいい、私はどちらとも争いたくない、周瑜が内心で呟いた声など魯肅には聞こえない。それから周瑜は居直ったように顔を上げて魯肅を正視する。
「確かに、伯符は陸家を力ずくで従えることしか考えなかった。だが伯符の下には、陸家を兵を使わずに懐柔しようとし、伯符を抑えることのできる弟がいる。孫家の軍とて頭で戦うことのできる者がいる」
 魯肅はため息をついた。
「公瑾弟、今の言葉は孫伯符の無能を証明しただけだ。孫伯符よりも弟の方が有能だと言い切ったようなものだ」
 頭を抱えた魯肅の返事に周瑜は唇を戦慄かせる。思わず握り締めた拳が震えた。その周瑜を魯肅がちらりと見て、それからまた首を振った。
「なぜ、孫伯符を選んだ」
 ふいに問われて周瑜は眉を八の字に顰めた。
 何故と問われたことは今までに何度もあった。だが先ほど、孫策という男が好きだと言い、争いたくないと言ったばかりで、何故と問われるのは心外だった。だが魯肅は真剣な目を周瑜に向けたまま外さない。
 根負けした周瑜が嘆息した。
「兄から中央の政治を聞かされる度に憤りを感じたが、自分には何もできない。結論は、この国を潰して作り直すしかないということになったのさ。自分としてはね。で、考えたところが孫文台という人がいた。憧れの将軍だったんですよ」
 周瑜の主張に魯肅は微笑してから、なるほど、と頷いた。だがその後は周瑜の望む答えではなかった。
「そうして、今の所、君は何を得た」
 魯肅の問いは、孫策では主に不足ではないかと問うている。それは確実だった。周瑜は唾を飲み込む。ここでそうですねと引き下がるわけにはいかないのだ。引き下がれば魯肅は北に行く。孫策は魯肅を必要ないと言った。だが周瑜にとって魯肅は、かつて孫策のために必要な援助を文句のひとつもなく出してくれただけではない。いつも微笑を絶やさない仏のような男だ。今まで、魯家の狂児と呼ばれてきた男は貧しい子供を見れば服を渡して食べ物を持ってくる、そういう存在だった。だが貴族の息子として育ってきた周瑜に対する援助はそういう類ではない。施しではなく、投資だと魯肅は言い切った。これは周瑜と、孫策という男に対する投資であると。
「つまり、孫伯符という男は魯子敬の目には頼りないと映ったわけですか」
 周瑜の言葉に魯肅がいつもと同じ微笑を返した。
「そうではないよ、ただ私は彼と気が合いそうにない。そういうことだ。せっかちで武力を過信する。その傾向は私とは違う。どちらかと言えば、私は陸家との婚姻得て雁字搦めにしようと勧めた弟さんの方が気が合いそうだ」
 ぴくりと周瑜の眉が動いた。
「伯符ではなく弟ならと、そういうことですか」
 さて、と言葉を濁して魯肅は周瑜を見る。
 くるりと踵を返して周瑜は魯肅の元を辞した。
 これで陸家が孫家に帰順してみろ、孫策の手腕がまずかったということが露見するということだ。そうなったときに、魯子敬はどうする
 魯肅に言われたことを繰り返してまとめながら、周瑜は苦い思いを胸中に抱いた。
 あのような将軍になりたい
 子供の頃に抱いた孫堅への憧れではなく、これだけの見識を持ちたい、青年として自分よりもわずかに年配の魯肅に抱いた憧れである。その憧れの対象を北へ送る、それは憧れの対象となる男と干戈を交えるということである。
 いくらか曇った空の下で周瑜は嘆息した。
 同じ空の下で幼馴染の孫策もため息をついていた。
「嫁に出すのに、おまえは簡単に姪をやれなどと言えるかもしれんが、自分の娘を陸家に嫁にやれと言われて納得できるわけがなかろうが」
 一度は収まった苦い思いを、孫策は再燃させていた。
 孫権はじっと兄を見ている。
「妹では陸家が悩むこともないでしょうが、陸家には兄上の娘を嫁に取らせることで仇である男へ帰順する印象を強くすることができる。ですが兄上は、陸家の当主にご自分の娘を娶らせることで、陸家の支配権を強く持つことができる。違いますか」
 少なくとも自分はそう考えたのだと孫権は兄に向かって主張した。
 これで陸家が帰順すると言ってきたら、自分は娘を出して陸家を従えることを選ぶか、それとも弟の出した条件を飲むか、飲めば軍を失わずに陸家を帰順させることができる
 孫策はひとつ深呼吸をして腹を括った。
「いいだろう、説得しておこう」
 だが後々に向かうと、この一件は孫策と孫権の兄弟の絆を強めるものではなかった。むしろ兄弟を分ける一件となるのである。
 数日して孫策の元に書状が届く。
 陸遜からの書状である。
 陸家一同は、謹んで婚姻の申し出をお受けいたしますと。
 書状を受け取った孫策は天を仰いだ。
「この一族ひとつぐらい、徹底的に潰してやることぐらいはできたが」
 続く言葉は口から出てこなかった。
 周瑜は慄然として魯肅の言葉を思う。
 陸家は帰順するだろうね、その時には私は北に行くのをやめよう。ただし、私は孫伯符ではなく、弟さんを訪ねることにするよ
 魯肅の微笑が少しばかりいつもとは違って見えた。
 数日前に周瑜の背筋を凍りつかせた魯肅は、陸家帰順の一報を聞いて顔をほころばせた。
「孫家は陸家を従えたのだね。ならば東南の一体は孫家が抑えたと見てもよかろう。弟さんの手腕は穏やかで迅速。これから攻めてくる曹孟徳の軍にどのように対抗するかが楽しみだ」
 だが、と魯肅は首を振った。
「戦で曹孟徳の軍を追い返そうというような少年であれば、願い下げだな」
 魯肅の苦吟を横で聞いていたわけでもないが、孫権は陸家の帰順を聞いて安堵した。胡綜が苦笑して孫権の肩を叩く。
「さすが。血が飛ばなくてよかった」
 本当に安堵した様子の胡綜を見て、今度は孫権が苦笑した。
 立ち上がって胸を張る孫権の様子に胡綜は淡く苦い思いを抱く。
「本当は」
 言いかけて胡綜は言葉を止めた。怪訝な顔で続きを待つ孫権に胡綜は「本当によかったことだ」と微笑で続けて見せたが、胡綜はそれどころではなかった。
 孫権が幼馴染であることが誇らしいと同時に、孫権が主導で孫家を率いることができないのが悔しい。武力を重視する兄よりも孫権の方がよほど君主に向いているのではないかと胡綜は思っている。世の中とは上手く行かないものだと胡綜は俯いた。父や兄と同じように武勇に憧れた孫権が、自分は武勇を誇る将軍にはなれないと諦めたのはいつだっただろうか。だが知識は豊富にある。
 本当は、私は君が孫家の主であればこともすんなりと収まっただろうにと思ったのだ
 そう言ってやりたいと思ったが、孫策が生きている以上は孫権が孫家の当主になることはない。
 胡綜の思いに関係なく、孫家を取り巻く状況は変わってゆく。
「孫家につこう」
 魯肅からの書状を得た周瑜は続きを読んで手紙を床に叩き落とし、それから牀榻に座り込んだ。妻が気落ちした夫の横に座る。
「妻よりも熱心に言い寄っていたのですもの、色よいお返事をもらえてなにが不満なの」
 夫を抱きしめるでもなく言って、妻は書状を拾い上げた。
 気楽に言う妻に、周瑜は困り果てたような目を上げた。
「伯符ではなく弟に会おうと言ってきた」
 妻はきょとんとした目で夫を見る。義兄ではなく義弟に会おうという魯肅の一言が何を示しているか、一即座には得心が行かなかったのだ。
「つまり伯符では信用ができないが、阿権ならば自分の主にして満足できると言っているんだ」
 牀榻の上で胡坐をかいて頬杖を付いたままで言う夫に、妻は書状を膝に置いたまま、人それぞれねと呟いた。


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