官渡の夜



<これまでのお話>

 曹魏総合貿易公司に途中入社したサラリーマン・于禁は、仲間から禁太郎というあだ名で呼ばれている。
街亭支店から戻って来た『美しきサラリーマン』張コウに偶然出会って、なぜだか一方的にライバル視されることに。
その張コウは、禁太郎に好意を抱いているらしく、やたらなつかれて、困っていたり。
水上楼閣さまの企業・曹魏COから超高級ホテル『官渡賓館』のペア招待券を貰った張コウは、ある金曜日の夕方、突然、禁太郎を誘って、強引に一泊二日の旅へ拉致したのだった…。


          ☆                 ☆                 ☆


 夜行バスと言っても、ピンからキリまであるが。許昌発官渡行きの車両はまだ新しく、座席もゆったりしていた。
「お待たせ致しました。官渡行き夜行バス、発車いたします。途中、サービスエリアで…。」
 テープによる音声案内が流れる中、バスはターミナルを出発した。夜のこととて、道行く車両も少なく。まだ市街地を走行しているというのに、スピードを上げて、早くもカミカゼ運転だ。
(…ったく、なんて運転の仕方だ。こんなんじゃ寝れやしねぇ。)
 ふたり掛けのリクライニングシートにもたれて、禁太郎はぶすっーとしていた。
隣りでは張コウが、ライトを点けて本を読んでいる。『中世ヨーロッパの錬金術と魔女狩り』とかいうタイトルで。
ウィークエンド旅行に持っていくには、あまり似つかわしくないと思われる。
てゆーか、ひとりで読書に没頭するなら、ムリヤリ他人を誘うな、と言ってやりたいが。
さりとてまた、ワケの分からない話を夜通し聞かされても困るので、禁太郎は一刻も早く眠りに就くべく、目を閉じた。
が、なにしろ揺れるので、うとうとしてもすぐにまた、意識を引き戻されてしまう。


 なんだって俺はこんなところで、バスに揺られているんだろう?!
これは悪夢に違いない、と思い込もうとしても、やっぱりバスは走っていて、隣りには張コウがいる。
 6時過ぎてからいきなり、もう予約してしまったからとかなんとか言われ。官渡賓館なるホテルに、半ば強引に付き合わされるハメに。
オマケに、ペットのヘビと行って来いと言ったら、本当に連れてくるし。さすがに体長2メートルとあっては、膝の上に載せるワケにも行かず、籠に入れて荷物置き場に入れてあるが。
着替えなどの荷物より、ヘビのヒュアキントスを入れたカゴの方が大きいのだから、イヤになってしまう。
 引き摺られるようにして、張コウの住むマンションに連れていかれたら。
あらかじめ用意してあったらしく、既に旅行カバンが置いてあった。
「私が全部、準備しておきましたから、于くんは何にも、持たなくていいですよ。」
 とか言われて、自分のアパートには戻らず、そのままバスターミナルにやって来たのだが。
禁太郎は、隣りで本を読んでいる張コウに、チラッと目をやった。
 いつものヘンな色のスーツも、かなり悪趣味だと思うが。旅行用のカジュアルな服装も、どこで売っているのか分からないような、変わったデザインで。
さすがに家で着ているような、『半分裸』みたいなヤツではなかったが。それにしても、悪目立ちする格好だ。
あの旅行カバンのなかには、同じように悪趣味な着替えが入っているのだろうか。まさか、自分の分まで…。
(やめよう。ヘンなこと考えてると、気が滅入る。)
 禁太郎は、身体の向きを変えようと、頭を動かしたが。ふと、本から顔を上げた張コウと、目が合ってしまった。
「于くん、眠れないのですか。」
「こんだけ揺れたら、寝れるワケねーだろ。」
「それはいけませんね。そういう時は、頭の中で、ゆっくり考えるといいですよ。コウモリイカが一匹、コウモリイカが2匹…って。」
「コウモリイカって、なんだよ。」
「深海にすむ生物です。独特なフォルムが美しいのですよ。」
「なんで、羊じゃないんだ。」
「美しくありませんから。頭の中を羊が次から次へとよぎるなんて、イメージできないんですけど。」
「……。」
 こいつの頭の中は、眠りに落ちるまで、そのコウモリイカとやらが延々、踊っているのだろうか。
(…ホテルについたら、とにかく寝よう。)
 バスで寝るのは、半ば諦めて。それでも禁太郎は目を閉じ、なんとか眠くならないものかと、ひたすら睡魔が訪れるのを待っていた。
隣りでは張コウが、静かに本のパージをめくっている。
バスは一路、官渡を目指していた…。



 翌朝、夜行バスは官渡に到着した。まだチェックインには早過ぎる時間だが、とりあえず荷物を預けに、ホテルへ向かう。
「うわっ、すっげぇ!」
 目の前にそびえる建物は、おそらく最先端の技術を駆使したと思われる、超近代的な建物で。朝日を反射して、全面ガラス張りの壁が、眩しいばかりに輝いている。
「官渡なんて田舎かと思ったら、結構、開発が進んでるんだなー。」
「この辺りは有名な古戦場なんです。最近、戦闘の模様を再現した、テーマパークみたいなのが出来たらしくて。」
「ふーん。古戦場ねぇ。」
 禁太郎は、歴史などには興味がないので、あまりピンとこないが。テーマパークというのは、行ってみたいような。
(ちょっと面白そうだが…コイツと行ってもなぁ。)
 チラッと隣りに眼をやると、長身・美貌・ヘンなデザインの服と、イヤでも目立つ張コウの容姿が目に入る。
こんなのと歩いていたら、人目を惹くこと疑いナシだ。現に、ホテルに向かう観光客らしい連中が、しきりにこっちを振り向いている。
 エントランスをくぐると、中はヨーロッパ風と中華風を折衷したようなデザインで。
「ちょっと、待ってて下さい。荷物を預けてきますから。」
張コウはクロークに行って、すぐに戻ってきたが。あのヘビ入りのデカいカゴは、下げたままである。
「なんだよ。それ、置いてかないのか。」
 旅行カバンを預けても、コレがあったら、ほとんど意味ないような。そのぐらい、かさばる品なのだ。
「ええ。だって、せっかく連れて来たのに、留守番ではかわいそうでしょう。」
 真面目な顔で言われると、返す言葉に困ってしまう。
「とりあえず、コーヒーでも飲みましょうか。」
 確かに、どこかに出掛けるにしても早過ぎる時間だ。週末をホテルでくつろいで過ごす、という趣旨なら、なにも延々、夜行バスに揺られて、こんな早くにやって来なくても。最初から、計画自体が、激しく間違っている気がするが…。


 ホテルのラウンジは、ガラス張りの壁から光が取り入れられて、白を基調とした明るく清潔な内装だ。まだ、席はポツポツとしか埋まってないが。普段、許昌ではあまり見かけない、異民族衣裳の一団などもいて、観光地らしい雰囲気を醸し出している。
 注文したコーヒーが出て来るのを待ちながら、禁太郎は観光案内のパンフレットを広げて見ている。ラウンジの入り口に置いてあったので、何気に貰ってきたのだが。
「ふーん。結局、このホテルって、そのテーマパークのために建てられたんだな。曹魏COがプロデュースする、21世紀の革新的なアミューズメント、だと。」
 招待券の発行元である、曹魏COは。古戦場というだけで大した観光資源もなかったこの土地に、巨大なテーマパークを建設し、ホテルやショッピングセンターなど、付帯施設を出現させた。あのディズニーランドにも負けないスケールが売りという、一大プロジェクトなのである。
「なるほど。既存の観光資源を利用するのではなく、資本を投下して、観光名所を創造するのですね。」
「クルマ売るのとは、スケールが違うよな。」
「そうですね。でも、そういえば、夜行バスも曹魏COの系列製品でした。」
「目論見どおり客が集まれば、儲かって仕方ないだろうな。」
 言いながら、禁太郎はパンフレットをめくったが。
「しっかし…『官渡三国時代村』ねぇ。新し過ぎるせいかもしれないが…ちょっとついていけない世界だな。」
「そうなんですか。」
 張コウも首を伸ばして、反対側からパンフレットを覗き込む。
「…なんと言いましょうか。ディズニーランドとは、対極にあるセンスかと。」
「確かに。」
 パンフレットに映っている建物は、『銅雀台宮殿』とか、『洛陽市場』とか、名前だけはもっともらしいのだが。派手な色使いが安っぽくて、いかにもちゃちな感じがする。香港にもディズニーランドができるご時世に、このベタベタなセンスはいただけない。
 そこへコーヒーが運ばれてきたので、禁太郎はパンフレットを閉じ、隣りの椅子に置いた。しばし、とりとめのない話をしながらコーヒーを啜るが…昨夜の寝不足がこたえているのか、今ひとつ、頭がスッキリしない。
「で、これからどーすんだよ。チェックインは午後まで出来ないんだろ。」
「どうしましょう。ヒュアキントスを連れて散歩にでも行きましょうか。」
「こんなとこまで来て、そんな家でも出来るようなことすんのかよ。」
「じゃぁ、その三国時代村とやらへ行ってみますか。」
「うーん。」
 禁太郎は、椅子に置かれたパンフレットを、再び手に取った。時代村は、『魏ゾーン』『呉ゾーン』『蜀ゾーン』のみっつに分かれており、それぞれアトラクションや飲食店、土産物屋などが配置されている。おなじみの観覧車やジェットコースターなども、古代中国の様式を模したデザインなのだが、これがまた、趣味が悪い。『曹操軍VS袁紹軍・大合戦ショー』とか、『三国時代の衣裳で写真は如何ですか』とか。その扮装のままで場内を歩くことも出来るらしいが…どれもあんまり、嬉しくなかったり。
「やっぱパスだな。こーゆーのはアレだ。家族連れとか、アベックで来るもんだろ。野郎ふたりで行ったって、面白くねーや。」
「そうでしょうか。」
「そうに決ってんだろ。」


 そんなこと言ってた、禁太郎だったが。30分後、二人の姿はテーマパーク内にあった。ホテルの周りをウロウロしても、面白いものなどひとつもなく、散歩する気にもなれない。官渡賓館へ泊まったら、イヤでもここへ来るしかないように出来ているのだ。
 場内の係員も、みな時代がかった衣裳を着ているが。いつの時代とも分からない、怪しいデザインである。
(わざわざこんなとこまで来なくても、許昌ゆうえんちで充分だな。)
 禁太郎は欠伸を噛み殺しながら、ベンチに腰掛け、手にしたハンバーガーをかじり始めた。腹は減っているはずだが、それでも美味いとは感じられない。
「これ1個で20元って、暴利だよな。まだ社員食堂の肉のがいいんじゃねーか。」
「観光地値段というのでしょうか。弁当は持ち込み禁止と書いてありましたね。」
 並んで腰掛けた張コウは、例によって何も食べないつもりらしい。膝に乗せたカゴを抱きかかえて、じっと座っているのだが。そのカゴが突然、ガサッ!と揺れるので、禁太郎はドッキリ。どうやら、ヒュアキントスが起き出して、中で動いているみたいなのだ。
「于くん、それ食べ終わったら、あれに乗りませんか。」
 張コウが指差したのは、まるで東屋のような形のゴンドラがぶら下げられた観覧車である。
「なんで観覧車? そのヘビが乗りたがってるとか言わないだろうな。」
「よく分かりましたね。このコ、高いところが好きなんです。」
 まるで同意を表すように、ひとりでにカゴが揺れる。
「……。」


「わっ、開けるなよ、そんなもん!」
 観覧車が動き出すなり、張コウがカゴを開けようとするので、禁太郎は思わず後ずさった。と言ったって、狭いゴンドラの中では、動きようがないが。
「いいでしょう。ここなら、他に誰もいませんし。」
 張コウは笑いながら、カゴの中からヒュアキントスを取り出し、自分の身体に巻きつけている。
(うわ〜、なに考えてんだ、コイツ。)
 ビビる禁太郎は、せっかくの眺め…といったって、官渡賓館と時代村以外は、畑しかないが…も目に入らず、ひたすら、早く下に戻れー、と願うばかり。
「そうだ、3人で記念写真を撮りましょう。」
 張コウは、ポケットからカメラ付き携帯を取り出すと。いきなり、禁太郎の隣りに移って来た。
腕を伸ばし、カメラを自分たちに向けてボタンを押す。
「はい、撮れました。どうですか。」
 早速、液晶画面でモニターして、禁太郎の目の前でかざして見せるが。
「いいから、あっち戻れよ! 俺はヘビはダメなんだって。」
 それどころじゃない、禁太郎である。
張コウはつまらなそうに、しぶしぶ、向いの席に戻った。ゴンドラはまだまだ上昇中で、なかなか最高点に到達しない。
「おい、これ一周回るのに、何分掛かるんだ?!」
「15分って書いてありましたよ。」
「……。」
 一見、止まっているように見えるヒュアキントスが、実はそれと分からぬぐらい動いているのに気がついて、またも引きつる禁太郎。
『ひとりで寂しいなら、あのヘアなんとかっつー、ヘビと行きゃいいだろ。』
 不用意に放ったひとことが、今になって悔やまれる…。


 高くてまずい、昼食をレストランで摂って。官渡賓館へ戻ってきたのは、一時過ぎだった。
時間つぶしに見た『合戦ショー』は、合戦というよりは、馬に乗った人物が、ウロウロ行き交うだけの、迫力も何もあったものじゃないシロモノで。一番ウケたのが、袁紹という大将の兜のてっぺんに付けられた、傘が閉じたり開いたりする、というちゃちいギミックだったという。
「なんか、疲れに行っただけみたいだったな。チェックインしたら、俺は寝るから。」
 休みの日は寝る。それが、サラリーマンのあるべき姿なのだ。行きがかり上とはいえ、こんな旅行に付いて来たのが間違いだった、と禁太郎は思う。
「ええー、せっかく来たのに、寝てしまうのですか。」
「アンタはヘビと遊んでろよ。」
 邪険な答えに、張コウはさすがにムッとしたようで、眉を寄せたが。
「じゃ、チェックインしてきますから。」
 言い置いて、ヒュアキントスの入ったカゴを、禁太郎の前にドカン!とおいた。
「ちょっと、見ててくださいね。」
 フロントへ歩み寄る張コウの背中を見送って、カゴに眼をやると。
(わっ、また動いてる?!)


 張コウは、程なく戻ってきたが。
「いま、荷物を出して貰ってますから、もう少し、待ってて下さいね。」
 そう言うので、その場で待っていると、バタバタと近づいてくる人影が。
「おい、儁乂じゃないか!」
 いきなり肩を叩かれて、驚いたように振り向いた張コウは。
「あっ、荀さん。お久しぶりです。」
 威儀を正して、丁寧に頭を下げている。知り合いらしいが、エラい人なのだろうか。
「お前、このホテルに泊まりに来たのか。」
「ええ、週末を利用して、ちょっと。」
「そーか、そーか。儁乂、ちょっと来てくれよ。こっち、こっち。」
 返事も聞かず、『荀さん』と呼ばれた男は、張コウの腕を取り、引き摺るようにして連れて行く。禁太郎に眼で合図して、張コウはそのまま、謎の男に付いて行った。
(誰なんだ、ありゃあ。ムリヤリ引き摺ってくとこが、アイツにソックリだな。)


 見るともなしに見ていると、二人が入って行ったのはREST ROOM、つまりトイレだった。最初は、すぐに戻って来ると思っていたのだが。5分経ち、10分経っても、張コウは戻って来ない。
(イヤに長いトイレだな。)
 待ってる方にしてみれば、いい加減、イライラするが。15分経ち、20分が過ぎると、さすがに心配になってくる。
トイレに連れ込まれて、20分も戻って来ない。まさかとは思うが、なんか、ヤバいことになっているのでは。
 旅行カバンを持ってきたポーターも、困ったような顔で立ち尽くしているが。禁太郎は荷物を頼んで、様子を見に行ってみることにした。


 官渡賓館のトイレは、さすがに豪華で、高級感が漂っている。入ってすぐの洗面所を見ただけでは、奥にトイレがあるとは信じられないほどだ。なんというか、16世紀の貴族の居間、みたいな内装なのである。
 少々、気が引けるが、奥へと進んでみる。一番奥にある個室から、なにやらボソボソ、声がしているが。手前からでは、様子が分からない。そして、個室以外の場所には人影が見当たらないのだ。
 手前の個室には、青い『空き』のサインが出ていて、人の気配は感じられない。そして、奥の個室も『空き』のサインが出ているのだが…なぜかそこから、話し声が漏れているのだ。
 トイレで密談とは、かなりアヤしい気がするが。いや、もしかしてもっと××な…。
(いくらなんでもそりゃ、考えすぎだ。)
 禁太郎は勇気を奮い起こして、ドアをノックしてみた。
「はい。」
 張コウの声がして、ドアが開く。
「あ、于くん、すいません。待たせてしまって。」
「なんだ、連れがいたのか。なら、そう言やぁいいのに。」
 言ったのは、奥に立っている『荀さん』だ。隣りにいた禁太郎が、全然、目に入ってなかったらしい。
「アンタ、そんなとこでなにしてんだよ。」
 男ふたりで個室に佇んでいるというのは、かなり異様な光景である。
「ええ、ちょっとトイレの仕様の話を伺っていたんです。」
「トイレの使用? トイレ使うのに、なんでいちいち…。」
「いえ、スペックのことです。荀さんは、袁家製陶の設計技師なんですよ。」
 どうやら荀さんは、張コウの袁家カンパニー時代の知人らしい。
「袁家製陶? ああ、トイレや風呂を作ってる会社か。」
 禁太郎が手近な陶器に目をやると、『ENKE』ではなく、『SOTO』マークが入っている。『SOTO』は、曹魏グループの会社、曹魏陶器のロゴだ。
「ここのは、ウチの系列が入ってるんだな。」
「そうそう、嘆かわしいねぇ。俺が今、開発してるシャワートイレに比べたら、これなんか全然、遅れてるよ。それなのに…官渡賓館だけじゃなく、ホテルのシェアは、SOTOに食われっぱなしなんだから。」
 荀さんは、ピタピタとタンクを叩き。
「ほら、ここんとこ…。」
 いきなり禁太郎に向かって、トイレの解説を始めた。タンクの構造がどうの、シャワーのノズルがどうの、ヒーターがどうの…。
「あの、すいません、荷物預けた、ポーターが待ってるんだけど。」
 それだけ口を挟むのに、たっぷり5分は掛かっただろうか。
「え、あ、そーなのか。いやぁ、スマン、スマン。」
 荀さんは頭を掻き描き、ようやく奥から出てきた。張コウも一緒に、外へ出る。
「よかったら、お茶にしませんか。」
「そーか、そーか。じゃ、久しぶりに積もる話でも…。」
 なんか、ふたりで勝手に話が出来ているのだが。
「あ、なんだったら、俺は先に行ってるけど…。」
 積もる話があるなら、張コウはこの荀さんに任せて、自分は寝ようかと思う、禁太郎である。
「んな、遠慮するなよ。えーと…。」
「于くんです。会社の同僚ですよ。」
「そうか、于くんなのか。あ、私、こーゆー者で。」
 荀さんは、おもむろに名刺を取り出した。
「あ、これはどうも。」
 トイレで名刺を貰うなんて、かつてない経験だ。『袁家製陶開発部技師長・荀シン(字・友若)』。小さなカードには、そう書かれてあった。
「じゃ、行こうぜ、儁乂。」
 張コウを促した、荀シンは。不意に、意地の悪い笑みを浮かべた。
「なぁ、儁乂。于くんって、お前の何なんだ。もしかして、カレシ?」
 張コウは、曖昧に笑って見せただけで。
禁太郎は、よっぽど、『違うー!』と怒鳴ってやろうかと思ったが。その時、観光客の一団がゾロゾロ入ってきて、大声を出せる雰囲気ではなくなってしまった。
(チクショウ。袁家グループの奴らって、ロクなこと言わねーな。)


 結局、荷物だけ部屋に入れて貰って、禁太郎たちは、荀シンを伴って、また先程のコーヒーラウンジに。さすがに遠慮したのか、張コウは、ヒュアキントスのカゴは持っていなかった。
「あれ、話してませんでしたっけ? 韓馥商事というのは、総合商社ではなくて、韓馥製陶の流通部門なんです。」
 袁家カンパニー以前に、張コウが勤めていたという韓馥商事は、禁太郎は名前しか知らないのだが。張コウは、話したつもりでいたらしい。
「荀さんは、私が入社した時、韓馥製陶の主任技師だったんです。商品の知識がなくては、営業も出来ませんからね。しょっちゅう開発部に伺って、色々、教えて頂きました。」
「あの頃は丁度、シャワートイレがぼちぼち普及し掛けた頃で。俺も夢中になって研究してたな。なんだっけ、K−1型だっけ。アレはよく売れたよな。」
「はい。私、契約数がトップになったこと、ありますよ。」
 張コウは楽しそうに、昔日の思い出を語るのだが。
(コイツがこの顔で、シャワートイレのセールスを?!)
 ちょっと、想像がつかない禁太郎である。
「韓馥製陶は、大した規模じゃなかったからな。風通しがよくて、俺も何でも、社長に直訴したもんだ。その点、袁家グループの傘下に入ってからは、話が上に通るのが遅くてよー。やっと新製品にゴーサインが出た頃にゃ、SOTOが似たような商品を流通に乗せた後、ってのが、毎度のパターンだ。だから、シェアを食われるんだよ。」
 荀シンは、コーヒーをぐいっと飲んで、カップをソーサーに戻し。
「俺も開発だけやってる訳にも行かなくてさ、上と掛け合ったり、面倒なことが多くて参るよ。」
「そうですか。私は社名が袁家製陶に変わってすぐ、袁家カンパニーに移ったので、詳しい事は存じませんが。」
 張コウはそう言いながらも、思い当る節があるようで。
「確かに。袁家カンパニーも、風通しがいいとは言えませんでした。」
「だろうな。その点、曹魏グループはどうだい。」
「私に聞かなくても、よくご存知でしょうに。」
 張コウは笑っているが、禁太郎にはさっぱり、ワケが分からない。
「よくご存知って、なんで?」
「ああ、そうか。于くんは聞いてませんか。荀さんは、秘書室長の実のお兄さんなんですよ。」
「秘書室長? ああ、そういえば、たしか苗字が同じだったよな。」
 曹CEO付きの秘書室長・荀イクは。禁太郎は、CEOの後ろにくっついて歩いているのを見たことがある程度だが。背が高く、整った顔立ちで。ハッキリ言って、曹操よりよほど目立つ存在だ。社内に女性ファンも多いと聞く。
言われてみれば、この荀シンも。背はそんなに高くはないが、どこか面影が似通っているような。
「そういえば、荀さんはどうして官渡に? 骨休めですか。」
「いや、トイレ見学の旅さ。まとまった休みには、あちこちの施設の水周りを見て回るのが、若い頃からの習慣でな。」
「そうでしたね。なにか、面白いものは見つかりましたか。」
「ああ、このホテルのは、オーソドックスなヤツだが。お前、三国時代村って行って来たか。」
「はい、つい先程。」
「あん中の手洗い場は、結構、面白かった。蛇口が、こう、龍の形になってて…。」
 水周りの話になると、俄然、目が輝きだす荀シンは。いつ果てるともなく、語り続ける。張コウも、しきりに頷きながら、嬉しそうに聞いている。
 ひとり禁太郎だけが、カヤの外で。
(なんだって、こんなとこまで来て、トイレや手洗い場の話を…。)
 ぼやきたいのをガマンして、ひたすら聞き役に回っているのだった…。


 結局、1時間近く、ラウンジで粘っていただろうか。荀シンと分かれて、禁太郎たちは、ようやく部屋へ落ち着くことに。
張コウは、一度ポーターと一緒に上がって行ったが。禁太郎は下で待っていたので、実際に部屋を見るのは初めてである。
エレベーターに乗り込むと、張コウは最上階のボタンを押した。
「へぇ、一番、上の階なのか。」
「ええ、眺めは抜群ですよ。」
「とか言ったって、見えるのは畑だろ。」
 観覧車からの景色を思い出すと、眺望には期待出来そうもないが。
「こっちです。」
 エレベーターを降りると、部屋はすぐそこで。カードキーを差し込んで、張コウがドアを開いた。
「どうぞ。」
 先に立って、中に入った禁太郎は。
「すげぇ!」
 辺りを見回すなり、感歎の声を漏らした。
「なんか…メチャメチャ広いな。」
 入ったらすぐ、バスがあって奥にはベッド、みたいな部屋を想像していたのだが。なんというか、部屋というより、家に近い感覚で。エントランスの奥に、扉があって。中はリビングになっており、さらにその奥にベッドルームがあるという。
「スイートルームですね。招待券には書いてあったのですが、私もチェックインするまで、半信半疑でした。」
「そりゃそうだ。一周年がナントカで、こんな豪勢なプランがタダなんて。曹魏COって、ウチよりよっぽど、儲かってるんだろうな。」
 禁太郎は、豪華なソファとテーブルの周りをグルリと回り、奥の扉を開けて、ベッドルームを覗き込む。セミダブルのベッドがふたつ並んでいて、広さも充分だ。
「こっちの部屋だけで、ウチの実家より広いんじゃねーか。」
 今住んでいる狭いアパートなど、比較の対象にもならない面積に、実家を持ち出して比べてしまう禁太郎である。
「そういえば…于くんの実家って、どこなんですか。」
 ソファに腰掛けた、張コウが尋ねた。物珍しげな禁太郎と違って、彼はザッと辺りを見ただけだ。
「ウチは泰山の近くだ。」
「山東省ですか。いいところですね。」
「泰山はいいけどな。ウチのあたりは、なんにもねーよ。アンタ、河北だっけ。」
「そうです。冀州です。」
 などと話していると、電話が鳴った。
 禁太郎はキョロキョロしてしまったが、張コウがサッと立って、隅のボードから受話器を取り上げた。
「はい。…はい、どうぞ。」
「なんだって。」
「ルームサービスからです。ウェルカム・サービスが付いてるらしくて。今、持って来てくれるそうです。」
「ふーん。何から何まで、至れり尽せりだな。」
 旅行といえば、たまに実家に帰るか、出張ぐらいしかない禁太郎。頼みもしないものが勝手に出て来るというのは、初めての経験かもしれない。
 程なく、ルームサービス係が、ワゴンを押してやって来たのだが。


「本日は官渡賓館へ、ようこそいらっしゃいました。心ばかりの歓迎の品でございます。おふたりの思い出に彩りを添える、ささやかなプレゼントをどうぞ。」
 多分、決っているのだろう口上を述べて。係が取り上げたのは、洒落たバスケットに活けられたアレンジメントだった。紅白のバラにカスミソウをあしらった、華やかな一品である。
 それをテーブルの中央に飾ると、今度は皿に盛ったケーキと、ティーセットが出て来て。
「おふたりの甘いひとときに、香り高い紅茶と、当ホテルのパティシエ自慢のケーキはいかがでしょう。」
 バラの演出といい、係の口上といい。明らかにこのプランは、新婚さん、もしくはカップルを想定しているのではなかろうか。あまりにも恥ずかしい展開だが、係はあくまでも愛想よく微笑みながら、サービスを続行する。
「紅茶はいかが致しましょう。お好きな茶葉をお選び下さい。」
「于くん、どんなのがいいですか。香りの高いのにしましょうか。渋みは少ない方が好みですか。」
「なんでもいいよ。紅茶なんて、どれでもたいして違わないだろ。」
「…じゃ、キームンを。」
「キームンですね。承知致しました。」
 紅茶をティーカップに注ぐと、ルームサービスは、またまた満面に笑みを浮かべて。『おふたりの幸せをお祈りします』と言って、帰って行った。


「いい茶葉を使っていますね。紅茶って、産地によって味も香りも様々なんですけど。于くん、本当にどれでも一緒だと思ってるんですか。」
 ティーカップを口元に運びながら、張コウが言う。
「なんだ、そりゃ。イヤミかよ。」
「いえ、そうじゃありませんけど。」
「しかし、まいったな。」
 砂糖を放り込んで、紅茶をグルグル掻き回しながら、禁太郎は、浮かない顔で。
「なんなんだ、今のは。ありゃぁ、どう考えても新婚さんかなんかに向けた口上だろ。なんとかならねーのかよ。」
「マニュアルどおり、なんでしょうね。」
 張コウは笑っているが、なんだか楽しそうに見えないでもない。
「アンタ、招待券貰った時、そーゆープランだって気付かなかったワケ?」
「ええ、まぁ。そうなのかな、とは思いましたけど。でも、于くんを誘ってはいけないことには、ならないでしょう。」
「……カンベンしてくれ。」
 ぼそっと言ったが、張コウは聞こえているのか、いないのか。
「于くん、ケーキ食べないんですか。」
 カラフルなガトーが並べられた皿を、禁太郎に差し出した。
「いらねーよ。アンタが食えばいいだろ。」
「甘い物は嫌いですか。」
 皿を元に戻しながら、張コウが尋ねる。
「ケーキとかは苦手だな。女の食いもんだぜ。」
 その割りに、紅茶にはしっかり砂糖を入れているのは、『紅茶は砂糖を入れるもの』という、固定観念のなせる技なのだろうか。
 それ以上、無理に勧めようとはせず、張コウは、また紅茶を啜り始めた。


 結局、どちらも手を付けなかったケーキは、そのまま下げられて。ルームサービス係は、ディナーのメニューを置いて帰っていった。館内電話でオーダーすれば、部屋に運んでくれるのだという。
 禁太郎は、ソファにごろんと横になって。テレビをつけて、しょーもない番組を見るともなしに眺めていた。
「于くんって、普段は休みの日は、どうしてるんですか。」
 反対側のソファに座っている、張コウが尋ねる。またしても、ヒュアキントスをカゴから出して、肩に掛けているが。
大きなテーブルの分だけ距離があるので、禁太郎も大袈裟な反応は示さない。
「寝る。とにかく寝る。昼から起きて、メシ食って、溜まった洗濯をして。あとはテレビ見て、メシ食って、また寝る。」
 営業の仕事は忙しい。平日は、家に帰れば11時を過ぎるのはザラだ。休みの日は、ひたすら寝る以外、何があるだろう。
「それでは、さぞ退屈でしょう。」
「そんなこと、考えたこともねーや。ふあぁ…。」
 欠伸をしていた禁太郎は、いつしか船を漕ぎ出していた。いつでもどこでも寝られる。これも、サラリーマンには欠かせない特技だ。
「おやおや。やっぱり、夕べのバスであまり寝れなかったようですね。」
 張コウは立ち上がり、クローゼットから自分のコートを取り出してきた。ド派手な色使いのそれを、禁太郎に着せ掛けて。
「ねぇ、ヒュアキントス。于くんの休日って、あまりにも無味乾燥で、お気の毒だとは思いませんか。来週は、またウチへ招待して差し上げましょうね。」
 旅行カバンから本を取り出し、張コウはソファに戻って、ページを繰り始めた。『至高の愛―アンドレ・ブルトン美文集』。禁太郎だったら、10ページ読まないうちに、寝てしまうに違いない…。


 どのぐらい、眠っていたのだろうか。禁太郎が目覚めた時には、部屋一杯に、西日が差し込んでいた。カーテンで遮られてはいるが、部屋全体がぼんやり赤く染まっている。
「はぁ、よく寝た。」
 ようやく寝足りた、という気がして、拳を握って両手を伸ばすと。ド派手なコートが床にバサッと落ちた。
(げげっ?!)
 その音に、本を読んでいた張コウが顔を上げた。
「悪い。起きた拍子に落としちまった。」
 急いで拾い上げる、禁太郎。
「いいですよ。そこに置いといて下さい。」
 張コウは本を閉じ、初めて気が付いたように。
「おや、もう陽が沈むんですね。」
 ソファから立ち上がり、窓辺に寄って、カーテンを開けた。
 折りしも夕日が最後の輝きを放って消えようとしていて、西の空に浮かんだ雲が、鮮やかな紅に染まっている。刻々、移り変わる雲の表情、光の軌跡。たとえ周囲が畑でも、自然が織り成すパノラマは美しく、見飽きることがない。
 引き寄せられるように、禁太郎も窓辺に寄って、どこまでも広がる空を見ている。
「綺麗ですね。」
「うん。」
 この時ばかりは、来てよかったと思う、禁太郎なのだった。
「あ…悪かったな、手間掛けさせて。」
 振り返り、趣味の悪いコートをチラッと見やる。一応、礼を言ってるつもりらしい。
「どういたしまして。」
 張コウは軽く微笑んで、また窓外に目を戻した…。


 それから。ディナーを頼むというので、メニューを広げてみたが。目の玉が飛び出るほど高価な品の数々は、すべてフランス料理で。フランス語の音を漢字でそのまま表記した、チンプンカンプンな長ったらしい名前がびっしり書かれている。
「ワケ分かんねぇ。アンタ、適当に注文しといてくれよ。」
 張コウにメニューを押し付けると、電話でルームサービスと話していたが。よどみなく、それっぽい発音でメニューを読み上げている。
 よほど凝った料理でも頼んだのか、ディナーが始まったのはそれから1時間後だった。既にあたりは、とっぷりと暮れていて。香港や上海なら、さぞかし夜景が美しかろうが。ここから見えるのは、『三国時代村』のライトアップされた大観覧車はじめ、悪趣味な電飾だけである。
 昼間とは違うウェイターが、まずワインを持ってきて。それから、次々と料理を運んでくるのだが。
 彼もまた職務に忠実な男で、料理を説明しながらいちいち、『おふたりの甘い思い出を云々』と付け加える。聞くたびに、せっかくの料理の味が損なわれる気がする。
 張コウは、肉も鳥も魚も入っていない妙なアラカルトを、ごく少量、口に運んではワインを飲んでいる。禁太郎の方は、ごく普通のフルコースだったが、食べ慣れないせいか、いまいちピンと来ない味だった。


 食事が済んで、一服して。まだワインが回っているが、シャワーでも浴びようかと思う。
「先に風呂、入ってもいいかな。」
 尋ねると、張コウは『どうぞ』といって、いそいそとクローゼットから、旅行カバンを取り出してきた。
「今、着替え出すから、待ってて下さいね。」
 旅の支度はすべて張コウが揃えたことを思い出して、禁太郎は漠然とした不安を抱いた。
「はい、パジャマ。どっちがいいですか。」
 張コウは両手にそれぞれ、パジャマを抱えて、ソファに戻って来た。
「どっちも新品ですから、好きな方を選んで下さい。」
 禁太郎は、しばらく返事が出来なかった。
 ふたつのパジャマは、片方が紫色で、ラフレシアとウツボカズラ(どちらもインドネシア産で、寄生植物と食虫植物だ)がプリントされており。もう一方は、緑色でガラパゴス海イグアナとゾウガメがあしらわれているという。
(いったい、どこに行きゃ売ってるんだ、こんなもん?!)
 心地よい眠りに誘うという、本来の機能とは掛け離れた、激しく動揺を誘う色と模様のパジャマを見比べて。どっちがマシかと思案する、禁太郎。
「…こっちにしとく。」
 しぶしぶ手に取ったのは、イグアナとゾウガメだった。そのまま立ち上がって、バスルームへ向かい掛けると。
「あ、待って下さい。下着、下着。」
 張コウが下着の替えを持って、追い駆けてきたが。その下着のデザインがまた…いや、これ以上、描写するのは止めておこう。


 夕方まで寝ていたからか、すぐには眠くならずに。ルームサービスで酒とつまみを頼んで、またしょーもないテレビを見て。ベッドに入ったのは、結局、1時近かっただろうか。
(なんか、ヤな夢見そうだよな。)
 己の着ているパジャマをしげしげ眺めると、そんな気がしてならないのだが。気のせいだと打ち消して、禁太郎はベッドに潜り込み、深々とシーツを被った。
 張コウは、枕元のライトをつけて、まだ本を読んでいたが。
「じゃ、俺は寝るから。おやすみ。」
「おやすみなさい。」


 なんだか、くすぐったいような。妙な感覚。これは夢なのか。それとも現実?!
 眠りに落ちてから、どれぐらい経っているのか、定かではないが。
 自分でも、寝てるんだか起きてるんだかよく分からない状態で、禁太郎はシーツの中を手で探ってみた。
 どうしてだか、誰か隣りにいるような気がするのだが。
 なおも探ると、なにかザラッとした、硬いものが手に触れた。
(えっ?!)
 今まで触れたことのない感覚に驚いて、急いで起き上がり、シーツをめくると。
「……!!!」
 声にならない悲鳴、とは、こーゆーことを言うのだろう。禁太郎の目に入ったもの、それは…。
 とぐろを巻いているヒュアキントス、だった。


「うわーっ!」
 今度こそ、声に出して悲鳴を上げた禁太郎は。転がるようにベッドを抜け出して、隣りの張コウのベッドに這い上がった。
「た…助けてくれ!」
「え…どうかしたんですか。」
 寝ぼけ眼で上体を起こした張コウにしがみつき、『ヘビ、ヘビ』と連呼する。張コウはノロノロと辺りを見回して、ようやく、隣りのベッドにいるヒュアキントスに気が付いた。
「あれ? おかしいですね。確かにカゴに入れて、鍵を掛けたんだけど…。」
「いいから、早くナントカしてくれ!!」
「なんとか、って言ったって。」
 張コウは窮屈そうに手を挙げて、禁太郎の腕に触った。
「この手をどけてくれないと、動けないんですけど。」
「えっ?!」
 そこで初めて、『張コウにしがみついている自分』に気がついて。禁太郎は、慌てて身体を離した。
張コウは床に降り立ち、隣りのベッドからヒュアキントスを抱え上げて。
「やれやれ。このコ、よっぽど禁太郎が好きなんですね。」
 カゴに戻しながら、呑気なことを言っている。
「冗談じゃねぇ。なんでちゃんと鍵を掛けとかないんだよ。」
「すいません。自分では、掛けたつもりでいたんですけど。今度は間違いなく、ロックしましたから。」
 張コウが戻って来ても、まだ禁太郎は、彼のベッドに乗ったままで。
「どうするんですか、そこで寝るんですか。」
「いい、戻るわ。」
「まだ恐いんじゃないですか。一緒に寝てあげましょうか。」
「バカ言うんじゃねーよ。」


 翌日。許昌に戻るバスは、日に数本しかないが。禁太郎は一番早い、午前のバスにしようと強硬に主張した。張コウは『せっかく来たのに』と残念がったが…。『隣りにニシキヘビがいた恐怖』を持ち出されると、さすがにそれ以上、抗えず。しぶしぶ同意したのだった。
「おい、これ。」
 禁太郎が張コウに差し出したのは、ホテルの売店で買った官渡銘菓、『烏巣の兵糧最中』だ。ホテルの招待券のことは皆知ってるのだから、土産を持ち帰らなければ、甘い物好きな楽進の不興を買うことは目に見えている。
「明日、会社に持ってってくれ。」
「あ、私としたことが、気が付かなくて。でも、せっかく買ったのに、なんで自分で持って行かないんです。」
「俺と行ったって言うな。彼女と行ったとか、そー言ってごまかしとけ。」
「え? どうしてですか。それに、そんなもの、いませんし。」
「いいから。とにかく誰か他のヤツと行ったことにしとけって。」
 思い出しても恥ずかしいウェルカムサービスといい、気がヘンになりそうなパジャマといい、ベッドの中のヒュアキントスといい。『どうだった』なんて聞かれたらたまったもんじゃない、と思ってしまう。
「分かりました。じゃ、悪いけど、こっち持って貰えます?」
 最中が入った紙袋を受け取りながら、張コウが代わりに禁太郎に押し付けたのは、例のバラのアレンジメントだった。
「こんなの、わざわざ持って帰るのかよ。」
「ええ。まだ日持ちしますし、気に入りましたから。」
「ふーん。」


 帰りのバスは、往きより多少、道が混んでいて。信号で止まったりもするが、揺れることに変わりはない。
(こんなんじゃ寝れやしねぇ。)
 そう思っていた、禁太郎だったが。たいして走らないうちに、早くもうつらうつらし出して。1時間も走った頃には、すっかり熟睡していた。
 隣りで本を読んでいた、張コウは。ふと、思い出したように携帯を取り出した。液晶画面を覗くと、口元に微笑が広がる。
 待ち受け画面には。昨日、時代村の観覧車で撮った、禁太郎とヒュアキントスとの、スリーショットが飾られていた…。



 作者あとがき : 介子嘉さまから拙サイト一周年記念に頂いた、『曹魏CO』からのダイレクトメール。
          冗談で『張コウは于禁と一緒に行きたいから、官渡賓館ペア宿泊券希望』とお伝えしたら、
          郭嘉氏が気前よく贈って下さいました。
          御礼として、その小旅行を物語に仕立てたのですが、介さま、こんなカンジで如何でしょうか。
          お目汚しな作品ではありますが(続き物なので、これだけで独立して読めるのかどうか、
          自信ありませんし)、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。



 こちらこそ、長くて愉快なものをありがとうございましたv
 曹魏COから贈り物をした顛末は、三国幻想さまに展示されています。
 お時間あれば、ぜひおたずねください。

 このページの背景はアンジェリケさまよりお借りしましたv

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