黄河の奔流

 北の大地は、土が違う。
 南の黒い土よりも、さらさらとした黄土が広がる。
 風が吹けば黄砂が舞う。
 乾いた風は、大空へと砂を巻き上げる。
 まるでこの風のように力強く、運命を押し上げる。
 この黄土を巻き上げる風のように、人を巻き込む。
 国の命運を左右する、その渦中へと濁流と共に、清流が流れ込む。
 北の大地でも、春になれば花が咲き、夏になれば太陽が照りつける。
 秋になれば、美しい黄葉が舞い、冬には真っ白な雪が世界を覆う。
 美しいものだ。
 これまで馬鹿なことなどいくらでもしてきた。
 きれいな女と、一夜かぎりの恋もした。
 友人たちと酒を酌み交わし、論を戦わせた。
 誰もが必死になって生きていた。
 心に余裕がなくなることもあった。
 時間が流れる。
 時間が流れることを思い出した。
 風の音、人の足音、鳥の声、馬の闊歩する音…
 今までも、私の周りにはこれほど様々な音があっただろうか。
 目を閉じて、暗闇の中をひとり漂う。
 衣擦れの音。
 香の匂い。
 女郎屋の女のつけるような、甘い香りではない。
 もっと上品な匂い。
 つんとして、さわやかな匂いだというのに、これほど焚き染めては逆にむせ返る。
 木の匂いに似ている。
 よく知っている匂いだが、これは何の匂いだっただろうか。
 そうか、あの男だ。
 着物から強い木の匂いがしたのだ。
 この香りを好んで、いつも焚き染めていたのはおっとりとした男だ。
「文若兄、お小言でも言いにいらしたか」
 目を開くのも億劫だった。
 何も無いようでいて、全てが見えるようにも錯覚する世界を、もう少し見ていたい。
 椅子の音。
「起きる気力もないか」
 文若兄の声が、部屋の静寂に響く。
 それほど大きな声だったわけでもないが、鳥の声に比べればよほど大きく聞こえる。
「丞相も心配なさっていらっしゃる」
 物腰の柔らかな言い方だ。
 目を開く。
 今まで広かった世界が、狭くなったようにも思える。
 夕方の空が、窓の外を赤く染めている。
「私は果報者だ」
 それだけつぶやいてみた。
 だがこれは本当のことだ。
 濁流にも似た、力強い清流が流れる場所に、私は立っていた。
 もう一度目を閉じる。
 いつか見た、美しい緑の大地が目の前に広がった。
 どこかで見た懐かしい風景だったが、本当は見たことがなかったのかもしれない。
 夢の中の風景であったのかもしれない。
 どこまでも果てることのない緑の大地。
「若い男が病床にいて何が果報者だ」
 文若兄がなじる声に、いくばくかの情が浮かんでいるように思える。
 喉元から、締め付けられるような感覚にさいなまれる。
 これほどの苦しみを一生背負うのであれば、いっそのこと次の呼吸で死んでしまうのもよいだろう。
 それで楽になるのであれば、それでもよいのだろう。
 ただ清流のたどり着く先、大海原を見ることができないのは、残念だ。
 それを思うたびに、いくばくかのとすら言い切れないほどの巨大な喪失感に襲われる。
「管仲という男が不幸にならなかったのは、主よりも先に死んだためだ」
 口からこぼれる言葉は、ひどく耳から遠いところで聞こえて、まるで自分の言葉ではないように聞こえる。
 鳥の声が、窓越しに聞こえる。
 通りを馬車が往来する音も聞こえてくる。
「韓信が不幸になったのは戦が終わっても生きていたためだ」
 だから私は果報者だ。
 私は自分が丞相から突き放されるところを見ないですむのだから。
 だからあなたは、私よりも不幸になるかもしれない。
 あるいは私よりも幸運であるかもしれない。
 文若兄は何も言わずに、ただ椅子に座っているようだった。
 身じろぎもせず、ただ椅子に腰掛けてじっとしている。
「戦にいながら、私は自分が死ぬということを考えたことがなかった」
 文若兄が、少し身じろぎをしたのが、椅子のきしむ音でわかる。
「最前線にいて、陣中に丞相の相談役としているのだから、いつ殺されてもおかしくはなかったはずだった」
 静寂が部屋を満たす。
 目を開く気にはならない。
「もう何十年もここにいたような気がしたが、まだ十年も経っていないような気もする」
 椅子のきしむ音も、衣擦れの音もしない。
 聞こえたあの音は、扉を開けて侍女が入ってきた音だろう。
 暗かった目の前が、ふいに明るくなる。
 きっと彼女は、燭台に火を灯しにきた侍女だったのだ。
 部屋に香る薫香に、柔らかな別の香りが混ざった。
「丞相は、おまえがまた侍女をからかって追いかけられているのを余興に酒を飲むのだとおっしゃっているがね」
 文若兄の落ち着いた声が、普段であれば文若兄が怪訝な面持ちをするような場面をあっさりと紡いだ。
 ふいに、果てのない大地の話を思い出した。
「真っ青に晴れ上がった大空の下で、丞相と約束をした」
 ふむとつぶやくように唸って、文若兄が椅子から身を乗り出した。
「大空の下でまっすぐに馬を走らせても、大地の果てまでは一日ではたどり着くことなどない。その大空の下を、何日でも走ろうと」
 馬鹿な約束だと、一蹴にされるのではないかと思ったが、なんの言葉もなく白檀の香りが少し遠のいた。
 燭の灯りが揺れて、大きくなった。
 文若兄が火を大きくしたのだろう。
「花は散る。草は枯れる。葉は黄色く染まって舞い落ちる」
 何気なく私はつぶやいた。
 椅子がきしんだ。
 文若兄が横に戻ってきた音だ。
「夢も、散るだろうか」
 誰も何も、言いはしなかった。
 外は暗くなって、鳥も寝てしまったらしい。
 鳥の声も、馬車の往来の音も消えた。
「文若兄」
 呼んだ声に、落ち着いた声が返事を返してきた。
 横になっていただけだというのに、なぜか疲れていた。
「丞相にお伝えを。私は、果報者であったと。ただ、黄河の奔流が大海へと躍り出ることを見ることができないことだけが、心残りであったと」

 四季は毎年移ろうものだということすら、忘れかけていた。
 これから咲く花もある。
 花は、私の夢と共に散る。
 花は散って、大地を彩る。
 私の夢は、散って黄河の奔流と流れる。
 清流を、濁流という人間もいるだろう。
 あの矜持だけは高い男のように、清流が清流であることを認めようとしない人間も、これからもいるだろう。
 それを見届けることができないことが、私には悔しい。
 ただ、誰でもよい。
 誰かが、私と言う人間がいたことを知っている。
 うねるような奔流に、私と言う男もささやかながら彩を添えたことを、この薫香を連れて歩く男は見ていた。
 それが、慰めだろう。
「申し訳ないが少々疲れた。今日は、お引取り願えないだろうか。これ以上こちらにいらしても、私はなにももてなしができない」
 ゆっくりと目を開いて、文若兄を眼中にとらえて、それだけをつぶやくように言う。
 誰もいなくなった部屋は、静寂に包まれた。

 あの部屋の燭は、消えた。
 あの部屋に、燭の灯りがともることは二度とない。
 主がいないのだから。
 そうしてこの部屋も、燭の灯りがともることは、もう二度とないだろう。
 我知らず、ため息がこぼれる。
 そうだな、あなたは果報者であったのだ。
 そして私は愚かであった。

 奔流を見届けたいと願った男の死を、乱世の英雄は嘆いたという。
 そしてまた、自らを愚か者として死に臨んだ男の死を、後漢最後の皇帝が嘆いたとも。
 花とともに散った夢だけが、今も連綿と語り継がれている。
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