江陵晩暁


 傷口が痛い。
 痛いというよりは熱い。
「くっそ、あの薮医者め!」
 周瑜はわき腹を押さえながら、牀の上で寝返りを打つ。
 陣中は大丈夫ですと、たまに顔を出しに来る呂蒙が言うので、周瑜はそうかと返す。
 陣中が大丈夫なことぐらいはわかっている。大丈夫でなければさっさと陣を退く。自分もここで死にたいとは思わない。
 何が大丈夫だ、子明の奴め
 周瑜が唇を噛締める。
 寝転がっていても、陣の外から曹仁が煽っているのが聞こえてくる。
 呉軍の陣営では今頃、退屈した奴らが打って出たくて腕を鳴らしているに違いない。
 好戦的なのは自分も同じことと、周瑜は歯を食い縛ったままで口角を少し上げる。
「調子に乗っているオヤジに目に物見せてくれるわ」
 牀から起きて医者を呼ぶ。
「林斯を呼べ、傷口をしっかりと固定して欲しい」
 呆れたのは林斯だ。
 傷口が開くとわかっていて出陣すると言う将軍は、自分の患者である。そして少なくとも負傷者はこの将軍だけではないのだ。
 無茶な
 林斯はきりりと唇を噛んだ。今ここで負傷兵を増やすわけにはいかないのだ。
「おやめください」
 林斯の言葉に「心配はいらん、すぐに終わらせる」と返事がある。
 周瑜がにこりと笑った。

 曹仁軍の鼓角が鳴らされる。
 ドン!とひとつ、はじめに鳴らされたのを皮切りに、軍楽隊が雷鳴のような鼓角を轟かせる。
 ヂョウラン、ヂョウラン!シャオミン、ブゥジウ!(周郎周郎!少命不久!:周郎、周郎!少ない命数も長くない!)
 曹仁軍の兵士たちが、嘲るように叫ぶ。
 子供だましもいいところだと曹仁は思うが、しかし、これが相手を燻りだすにはよい手だと言うことも知っている。
 ヂョウラン、ヂョウラン!
 叫ぶ声が呉軍の陣中にも届く。

 呂蒙がじっとしている。
 外からは曹仁軍の軍鼓と調子をつけた声が聞こえてくる。
 いらいらと剣を抜いては収めるということを繰り返しているのは凌統だ。
 椅子に腰掛けて腕組みをして目を閉じる呂蒙の様子は落ち着いたものだ。
 小僧が変わったか
 程普にかかれば、周瑜だろうが呂蒙だろうが、小僧である。
 甘寧が同じように腕組みをして座っているのだが、こちらは呂蒙とは違い、右往左往する凌統を眺めている。
 呉軍数万。
 全軍一斉攻撃に出れば、確実に勝てる数だ。
 ふいに呂蒙が口を開く。
「あちらさんの軍は、すべて出てきましたかね」
 凌統がきょとんとした。
 こいつは本当に化けるかもしれんぞ
 タヌキやキツネの類でもないが、人間も化けるときには化けるものだと程普は知っている。三十路になって、呂蒙も完全に落ち着いたかと程普は嘆息した。
 傷口の包帯を巻きなおした周瑜が凌統を睨みつける。
 かちゃんかちゃんと音を立てて遊んでいた凌統が首をすくめた。
「これまでに、どれだけの負傷者を出した」
 程普の問には、我が兵の負傷者は半数に至らずと将軍たちが答える。
 私の負傷で、あちらは城を出て全面攻撃に出てくるでしょうと言ったのは周瑜だ。
「子明の言ったとおり、あちらさんの軍は全て出てきてくれなければ困る」
 それから、南で自分たちが全面攻撃を迎撃し、北から、とそこまで考えて周瑜の思考は止まった。
 一体、劉皇叔の軍はどうなっているだろうか
 あの二千の兵は後々返してもらえねば困るのだがと考えて、周瑜は黙りこくった。
 張飛に使わせた二千だが、あれを北から城に入れるというのが目的であり、その際二千の呉軍兵が劉備の人質に捕られるようなことがあってはならない。
 周瑜が嘆息している頃、まったくしょうがないとつぶやきながら、陳丹は黒龍を手入れしていた。
「おまえのご主人様は、おまえと同じで目立ちすぎるんだ。あんまり前に出るんじゃないぞ」
 陳丹が藁で丁寧に身体を拭いてやると、黒龍が身震いしてから陳丹の毛づくろいをしようとする。
 慌てて要らないと言って、陳丹はそれから黒龍の鬣を整え始める。
「将軍方の馬の用意だ、全軍打って出るぞ!」
 呉軍の陣中がにわかにあわただしくなる。
「周都督も出るのか」
 陳丹の声に、軍令を持ってきた兵士が「周都督も出陣する」と怒鳴り返す。
 黒龍の首を軽く叩いて、それから尻を叩き、陳丹は黒龍に言う。
「おまえは将軍に一番近い護衛兵だ、しっかりと守れよ」
 呉軍の陣中に、鼓角が轟き渡った。

 陣門が開かれる。
「将軍、いかがいたしますか」
 隣で問いかけてくる兵士の頭を曹仁がひとつ、軽く叩く。
「焦るな。挑発していたのだから、敵方が痺れを切らして出てくるのは期待していたことだろうが」
 曹仁の深い声が陣中に静かに響いた。
「陳矯」
 ふいに声をかけられ、陳矯はどきりとした。この陳矯、曹仁には肝を冷やされることが多い。
「此度は前面攻撃ぞ」
 穏やかに微笑む曹仁に、陳矯は眉根を寄せた。
「前面攻撃ではなく、前面迎撃ではございませんか。あちらの大将もふらふらと出てきて矢に当たっておりましたが、将軍もご自重なされませ。先日は一将軍を御大将自ら助けに出るなどなさる。陳矯の肝はいくらあっても足りませぬ」
 陳矯の持って回ったような言い方に、曹仁はくっくっと笑った。
 あのときとは違う
 そうつぶやく曹仁に、陳矯は首を振った。
 数千の兵士を相手にする牛金が率いた兵数は、わずか三百。今も、相手にしている呉軍兵の総数は数万に対し、こちらは互角の兵力にも満たないと陳矯は見ている。
「引き際の戦だ」
 曹仁の声が陳矯の耳に届いた。
 江陵を捨てるか
 死に物狂いで戦う必要もないのだと曹仁に言われたような気もした。

 馮栄がじっと目の前の男を眺めている。
 私は戦向きではない
 そのことは十分に承知している。だが、といくらか考える。
「公潤、なにを考えている」
 呂蒙に問われて、馮栄は馬上の呂蒙を見上げた。
「何も考えてはおりません、が、お尋ねしたいことがあります」
 呂蒙が首をかしげる。
 毎晩、馮栄に左伝の講義をさせて質問攻めにしているが、馮栄から質問をされるとなると、必ず自分にとって答えにくい問題が出される。
「なんだ」
 逡巡のすえに呂蒙から発された言葉に、馮栄は、いやと小さく首を振った。
「やはり、私が自分で答えを出すべきなのかもしれない」
 つぶやく馮栄に、呂蒙は奇妙な奴だとつぶやいて、自分の馬のわき腹を蹴った。


江陵晩暁16へ続く

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