流逝

 友人が、死んだ。
 目を覚ますことのない友人の横で、幾人かが泣き崩れている。
 男は目をつぶって嘆息し、それから踵を返した。
 一国の将軍と、そう呼ばれることなく、友人は死んだ。
 これから先、もう数年生きていることができれば、彼は確実に、一国の将軍と呼ばれる男になっていただろうに。
 思うにつけ、男は心裡に嘆息を禁じえない。
 それでも彼が幸せだと思えるのは、彼には息子がいたからだった。彼には自分のために泣いてくれる息子がいた。
「何をお考えですか」
 いつも急がしそうに駆けずり回るのが好きだった少年が、いつの間にかしっかりとした大人になった。
「阿蒙」
 こう呼べるのは、あとどれぐらいだろうかと男は考え、それから苦笑した。
 本当は、かつての少年はもうすでに、阿蒙などと呼べるような歳ではないのだと気がついたからだった。
 不服そうな青年の顔を眺め、それから男は軽く目を眇めた。
 死んだ友人も、この青年も、男にとっては弟のような存在だった。
 男は、また足を前に踏み出した。
「いつだったか、周将軍が言ってましたよ」
 青年に言われ、男は振り返る。
「なんだ、あの男、死ぬ前に俺の悪口を言って九泉に行ったのか」
 笑う男に、青年が眉をひそめる。
「違います。俺はきっと、あなたが敵ではないことに感謝することになると言われました」
 男が笑いを止める。青年がまっすぐに男の目を見つめた。
 買い被られたものだな、と男がつぶやく。
「魯子敬大人、あなたが大都督になることに反感を持っている武官もいます」
 青年は真剣に男を見据える。
 魯子敬、責任をとってもらう
 死んだ友人の言葉が耳元で聞こえる。
 青年がにこりと笑った。
「将軍と、周将軍と、俺をがっかりさせないでください」
 難しい話だと男は嘆息した。



 あれからどれぐらいになっただろうか。
 使者からは、荊州全土を早急に領地とせよという綸旨が送られてくる。
 武官の中には、文官であった男に都督など務まるわけがないという声がある。
「いいたい奴には言わせておけばいい」
 ふんと鼻を鳴らす。
 妻が顔を覗かせ、魯肅はにこりと微笑して見せた。
「このところ、いつも何かを考えていらっしゃるのに、今日はお休みなのですか」
 うんと頷いて魯肅はお休みなんだと答えた。
 考えることにも疲れるときがあるのだと魯肅は知った。今までどれほど楽しんで考えるということをしてきたか数え切れないほどであったのに、今では考えることに疲れているということに自分で驚く。
 穏やかに、微笑を絶やさず人に接しようと務めてきた。
 それがどれほど大変なことか。
 犠牲を出さずに荊州を手に入れる。それができなければ自分は小人でしかない。魯肅がそれを幾度自分に言い聞かせてきただろうか。
「人が死ぬのは、辛い」
 小さくつぶやかれた夫の言葉に、妻が微笑を返す。
「あなたは強い人だから、泣くことを知らないのだもの」
 妻の胸に顔をうずめると、魯肅はくぐもった声でまたつぶやく。
「強くなどない」
 催促の信を妻に見せたことはない。もとより仕事の大事を妻に打ち明けたことなど今までに一度もなかった。
 無理をしないでください
 妻の声が耳元に柔らかく響く。
「無理などしていないから安心していい」
 夫の言葉を聞いて妻は嘆息した。
 仕事に無理をして欲しくないのは当然だが、それ以上に自分の感情を閉じ込めて欲しくなかった。どれほど目に見えて疲れていても夫は妻に泣き言を言ったことがなかった。いつも微笑していて、穏和な物腰で自分を抱きとめてくれる。
 しかし妻というのは、それだけでは納得しないものなのである。
 自分には泣き言を言って欲しい、疲れたと言って欲しい、いつでも自分はそばにいるのだと覚えていて欲しいものだ。
「誰があなたを見限っても、私はずっとあなたの横にいるの」
 抱きしめていた妻を放し、妻の目をまっすぐと見つめて、魯肅はまた微笑した。普段の微笑とは違う、心底安心したような微笑に、妻も微笑する。
 魯肅がくすくすと笑うと、妻がくすくすと笑う。
「私を誰だと思って?」
 妻の言葉に夫は困ったような表情をして見せた。
「私はあなたの妻なのですからね」
 言外に、だてに十年もあなたに寄り添ってはいないのよと言われたような気がした。
 天上を仰いでから、魯肅は妻の肩に寄りかかって笑った。
「生我者父母、知我者妻也」
 困ったように言いながら、魯肅は笑う。
 我を生むは父母、我を知るは妻なり
 魯肅の言葉に、妻が、管仲、と答える。
「我を生むは父母、我を知るは鮑叔。私は鮑叔ではなく、晏子の御者の妻になろうと思いますのに」
 魯肅がまた笑う。
「晏子の御者の妻?晏子の糟糠の妻ではなくてか?」
 くすくすと妻が笑う。
「だってあなたは、晏子にはなれませんでしょ?」
「うん、晏子にはなれないし、晏子にはならないな。だから晏子の御者の妻か。そんな言い方は誰に習った」
 笑う夫にむかって、あなたに決まってますと妻が答える。
 思いきり笑ってから魯肅は嘆息した。
 絶対に、この妻に心配はさせない
 夫が妻を思う心と、妻が夫を思う心はすれ違う。



 病床に臥せた、目を覚ますことのない夫に妻は涙を流した。
 かつて魯肅に阿蒙と呼ばれた壮年の男が嘆息する。
「子敬兄、荊州を掌中に収めることができないままで、悔しくはなかったのか、辛くはなかったのか、言いたい奴には言わせて置けばよいと笑って、なんだったんだ」
 男がつぶやく声に、妻は微笑した。
「主人は人が死ぬのは辛いと言う人でした」
 魯肅の妻の言葉に、男はうつむいた。
「子敬兄は、確かにそういう人だった。最期までそうなのですか。今まで私が見てきた人たちは、天下を平らげるために犠牲を厭わない人ばかりでした。荊州を掌中にと、どれほど矢の催促を受けていたか、どれほど、荊州を取り戻すための軍も出すことのできない都督であると罵られていたことか、それでもこの人は、笑うだけでした」
 罵られながらも、微笑するだけで耐えることがどれほど辛いことかと男はつぶやく。自分であれば耐えられないかもしれないと。
 勝つのは私だ
 強い語気で最期に魯肅が言った言葉が去来する。
 魯肅という男は何を考えているのか、まったくわからなかった。
 穏和な表情でいつも微笑しながら、それでいて徹底抗戦を主張したかと思えば、今度は弱腰だと罵られても平然と微笑している。
 微笑すらしない死に顔に、男は微笑して見せた。
 関雲長という将軍は、民衆を手なずけることを知らない。必ず勝機は来る。待ちなさい
 死んだ魯肅が、ぴんと背筋を張って笑ったように見えた。
 魯肅の亡骸に寄り添った妻が、夫の頬を撫でる。
「誰があなたのそばから離れても、私はあなたのそばにいますから、どうぞあなた、安心していらして。あなたは泣くということを知らないから、私は不安になります。無理に笑おうとしないで、辛いときには泣いてください。あなたご存知?私は、一度もあなたの涙を見たことがないの。あなたの心の中にいつか、涙の海ができてしまうのではないかと思って、私はいつも不安になるの」
 夫婦を後ろにして、男は扉を閉めた。
 病床に臥せった魯肅に、奥方を呼ばなくてよいのかと問うたとき、魯肅はいつもよりも幸せそうに微笑して言った。
 子明、おまえは大切な人を、心労でやつれさせたいと思うかね?
 思い出して男は、呂蒙は首を振った。
「ひとつだけあなたは間違った」
 あなたにとって大切な人は、誰よりもあなたを大切に思っている人だったと呂蒙はつぶやく。誰よりも長く傍で、病にやつれるあなたを支えることが、奥方にとっては幸せなことだったに違いないと。
 涙があふれる。
 荊州をと催促され、武官から罵られた日々、魯肅は辛かったはずだ。誰が離れても、私はそばにいると、そう言う妻を、魯肅は気遣った。うまくいかないときというのはあるものだ。
「呂先生、ありがとうございました」
 声をかけられて呂蒙が振り返ると、魯肅の妻が微笑している。
「軍中にいると、周将軍や呂将軍が横にいるから、まるで手のかかる弟ができたみたいだと、ずっと前に、主人がとても楽しそうに話していたことがあります」
 手のかかる弟と言われて呂蒙は苦笑した。
 魯肅にかかっては、やはり自分はそういった存在だったのだろう。
 最後に夫人の言った言葉に呂蒙は、寂しげに微笑した。
 あのひとは、とても優しいひとでしたの
 優しいひとは、時に一番残酷になる

 泣くことを知らないあなた
 泣くことを我慢してきたあなた

 お願いだから、泣いてください
 涙の海を、溜めないでください

「大切な人が傍にいると思えば、どれほど辛くても少しは楽になる」
 呂蒙がつぶやく。
 夫人の頬の上を涙がこぼれる。



 ばばさま、なぜ泣くの?僕が悪い子にしたから?
 いいえ阿粛、おまえは強い子、よい子ね
 ばばさま、僕は強いの?
 よく泣かないでがんばるからよ
 じゃあ、僕は泣かない。ばばさまが泣かないように
 じゃあ、ばばさまも笑わないとね



 阿粛、おまえはなんだって乞食の子供に服をやったりするんだ
 だって父上、あの子、笑った
 笑った?何を笑った
 うれしそうに笑った



「いつも辛そうに笑っていたけれど、一度だけ、本当のことを言ってくださいました」
 夫人が言う。
「あの人、“それでも私は、人が死ぬのは、辛い”と言いましたの」



 目の前で流れる血は、大河になる
 目の前でくず折れる者は、大地になる
 死ぬな、死ぬな、死ぬな、誰も死んではならない
 それが戦に勝つということなのだから!

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