魯粛の「少年抱雄心(Boys be ambitious)」


 魯家の主はこの日二度目の失神を起こした。
 ろくでなしの嫡男がためである。
「父上が倒れたと?」
 部屋に入ってきた嫡男を見るなり魯家の主は嫡男を一喝した。
「この、大バカたれがぁっ!」
 地を振るわせる父の怒声に嫡男は驚いて口をぽかんと開けたまま父を見つめる。
 それからはっと自己を取り戻すと目を見開いたままで父に向かって一言つぶやいた。
「なんだ、ぴんぴんしてるじゃないですか」
 今度こそ魯家の主は牀に倒れこんだ。

 魯家のこのろくでなし、名を粛という。
 魯粛はふんふんと鼻を鳴らしながら自分の剣を持ち出してきて手入れをはじめた。
 老李があきれながら坊ちゃまと魯粛に声をかける。
 魯粛は剣を拭きながら老李の方を振りかえった。
「老爺は小爺のことをそれはご心配なさっておるのですよ。それをなんです、まだ生きているではないかとは」
 老李の言葉に魯粛は肩をすくめてそんなつもりではないのだがと剣を鞘に収めた。
「聞けば坊ちゃま、またご自分の物を軽々しく人にあげて…坊ちゃまのお優しさはこの李賛がよく存じておりますとも…ですがこの間は巷の少年たちと戦争ごっこもなさっていたとか。危ないことをなさいますな」
 少年でありながら、魯粛はこれでも巷では礼儀正しい少年だと評判である。その魯粛はこの日二度目の老李のお説教を食らう羽目になった。
「よろしいですか、この魯家は、それなりの豪商ではありますが、決して将軍や貴族の家ではないのです。小爺が剣や騎射ばかりに精をだすから老爺はまたこの魯家の行く末を案じてしまうのです」
 朝も聞いたこのお説教に魯粛はうんざりしたが、表向きはいと返事をして剣をしまいこんだ。
 老李の説教はまだまだ続く。
「巷の少年たちに衣食を提供するのは構いません、魯家の名声も上がろうというものですからね。ですが練武ごっこまでとなると行き過ぎというものです、おわかりいただけますか、老爺も決して坊ちゃまが憎くて叱っておられるわけではないのですよ」
 辟易して魯粛ははいと返事をして控えますと言葉だけは言った。
 しかし魯粛、これで懲りるような少年ではない。
 木簡を取り出すとおもむろに墨をすり、そこに幾らかの字を書き込む。
 それが終わると魯粛はそれを机の上に放りだし、弓を担いで腰に矢を下げて扉から部屋の外を覗きこんだ。
 おっしゃぁと小さくうなずくと魯粛は裏庭へ抜けて自分の馬に鞍を載せるとあっと声をあげて小爺!と魯粛を止める厩舎係に手を振って父上には内緒だと叫んで料理場の裏口から無理やりに馬を通して道へと踊り出る。
 幾らかの少年たちがすでに集まっている。
 魯粛の級友たちである。
「悪い、待たせた!」
「来た来た!行くぞ!」
 少年たちの笑い声が東城の街に広がる。
 馬を走らせながら少年は授業中の話をあれこれとした。
「老師の口癖、あの老師いっつも偉そうに本を読んでから、わかっただろうとこう言うんだ、わかっただろうはわかったから次ぎに行け!ってな」
「いやいやいや、あの老師のおかげでわかったわけじゃなくて、教科書のおかげでわかるんだ。だからあそこで老師は、わかっただろうではなくて、わかってるだろうと、こう言うべきなんだよな」
「そうそうそう!あの老師、お嬢さんがすげえ美人でさ、とんびが鷹を産むってのはああいうのを言うんだな、まったく」
「なに!それは聞き捨てならん。今度覗きに行くか!」
「はっは、次ぎの獲物は老師のお嬢さんか!」
 笑いながら馬を走らせて来た少年たちは南山の麓で馬を止める。
 この南山が少年たちの遊び場、狩猟場である。
「今日こそは獲物の数で俺が一番になって見せるからな」
 一人が言うと別の少年が無理無理と笑い、魯粛も一緒に笑った。
「それじゃあ、また後で」
 言って少年たちはばらばらに散る。

 魯粛は獣道を探す。
 獣道は獣が通るからできるのだ。
 その周辺を探せば必ず巣にたどり着く。
 木々の中に、魯粛の馬が獣道をかき分ける音だけががさがさと響く。
 チチチと鳥の鳴く声がこだましている。
 馬をすこし止めて上を見上げると、晴れた空は樹木の葉に隠れ、木漏れ日が差込んでくる。
 濃い緑の葉は幾重にも重なって空を隠し、森閑とした森を作り上げる。
 風の音は木の葉のかさなる音だ。
 かさと音がする。
 馬上で魯粛は音を立てないように腰から一本矢を抜き取るときりと弓をつがえた。
 黒い影が叢から出て来た瞬間に、弓は矢を放った。
 どすっと音をたてて地面に突き立った矢は、タヌキを捕らえている。
 あっちゃ、タヌキか
 魯粛は目を覆った。
 この間もタヌキしか獲れずに、友人にタヌキに好かれる男とからかわれたのだ。
 しかし獲物は獲物である。
 次にはウサギを狙うぞと自分で意気込んで魯粛はとりあえずタヌキをぶら下げた。

 雷が落ちた。
 魯粛の頭の上で父が鬼もかくやあらんといった形相で息子を見下ろしている。
 魯粛は正座になって首をすくめ、父の顔色を窺う。
 無言の父が恐ろしい。
「友人との約束を破るわけにもいかなかったもので」
 ぽつりと口を開いた魯粛に父はなにも言わずに椅子に戻ると勝手にしろと言って茶をすすった。
「魯家も末だな、こんな狂児が生まれてきよった」
 返す言葉がない。
 それから父は机に肘をついて目頭を押さえるとそのままうつむいていたが、魯粛は父の手を涙がつたうのを見てしまった。
 その日魯粛は夕飯の時間にも父の部屋で正座をしていたという。
 タヌキはめでたく魯家の夕飯として丸焼きにされた。
 父の落涙は魯粛の胸中深くに残っている。

 校尉と呼ばれて魯粛は顔を上げた。
 兵士の中には魯粛に同情的なものもいる。
「バカが何を言っても気にする必要はありませんよ。別にあなたが文官だったからと言って兵士誰もが軽んじているわけでもありませんから。ごく少数の兵士だけですよ。自分が出世するだけのことができないんです、そういうやつらは。ご自分の船団の兵士には結構好かれているんですからね。自信を持ってくださいよ、校尉」
 燭に灯をともしに来た兵士だ。
 ありがとうと言って魯粛はそれからにこりと笑うとその兵士に酒は飲むかと杯を出したが、兵士はありがたいのですが今は陣中ですからそう軽々しくは飲めませんと苦笑して幕舎を出ていった。
 あれからすぐに父は病死して自分は祖母に引き取られた。
 とうとうここまで来たのだ。
「父上、魯家は絶えとりませんよ。息子は立派に、ここまで身を立てましたからご安心なさいませ」
 小さくつぶやいて魯粛は自分の杯を酒で満たした。
 ぐいと呷ると、幕舎を出て対岸を望む。
 対岸には朧に魏軍の燎が見える。
 近いうちにまた兵が出る。
 そのときには魯粛隊も蒙衝船を出して魏軍に突撃する。
 今は感傷に浸っているときではない。
 星は雲に隠れて見えない。
 朧な月だけが照る空に、魯粛は戦勝を誓った、今はなき父に向けて。

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