孫氏三代(184/03)「広き庭園」


 私は呂子衡さんの後について廊下を歩いていた。
 これからの先のことに気を向けないといけないのに、ついつい庭に目がいってしまう。そこの草木には春のはなやかさや夏のにぎやかさはなかったけど、秋独特の落ち着いた雰囲気があった。
 以前の私だったら、自分の庭が一番だと思っていたし、他人の庭なんて見向きもしなかっただろう。でも今は自然と目がいくようになっている。
 いつからだろうか、と記憶をさぐる。そうするとすぐにある風景が思い浮かんでくる。緑の草が一様に並ぶ光景、そうだ、芍陂での風景だ。
 芍陂に行ったのはいつ頃のことだったかしら。もうかれこれ一年にはなるのかしら。そのときのことで、私の中での一つの事柄が終わりになると思っていたのに、今から考えるといろんなことの始まりだったんだ。お父さまのこと、お母さまのこと、それに子衡さんのこと。
 この廊下を歩いた先のこともそれら多くのことの一つでしかないけど、子衡さんにとってとても大切なことの一つ。だから、私にとってもとても大切なことなんだ。
 そんな想いを抱く私を子衡さんは肩越しに見つめる。
「悪いな、急な用件で連れてきてしまって…」
 子衡さんの声で急に現実に戻された私は、早足で彼の横に動いた。
「いいのよ、あなたのこれからがかかっているのですし。私のことなんかより、先のことに集中して」
 私のその一言に、子衡さんは表情をほぐし、相づちをうった。そして、私にしかきこえないぐらい小さい声で「ありがとう」とつぶやく。
 子衡さんは心持ち早足になり、とある部屋の前で立ち止まる。その部屋は確かに、私たちをこの建物まで案内した人が、ここから先は二人で行ってくださいと、指し示した部屋だった。
「寿春の県吏、呂子衡と申します。孫文台さまはいらっしゃるでしょうか」
 何の躊躇もなく、子衡さんは部屋の中へ呼びかけていた。それは決意の表れだったんだろう。
 その部屋の奥に誰かいるのかはわからないけど、いたとしても子衡さんの突然の挨拶で驚いたのだろう。ちょっとした沈黙が続く。
 その間、私は子衡さんが呼びかけた孫文台という人物を思い描く。一度も会ったことのない人物。だけど、子衡さんと話していると、よくでてくる名だから、どういう人物か思い浮かべられる。彼は言うなれば英雄。彼は軍を率いて、私の故郷、細陽を襲った賊徒を倒してくれた一人なんだ。
「おお、来たか。まあ、二人とも入ってくれ。俺が孫文台だ」
 そう男の人の声が辺りをおおった。声の主は、「孫文台」と名乗っていた。
「失礼します」
 偶然にも子衡さんと私は声をそろえた。二人はそんな奇遇に少しも驚くことなく部屋の奥へと歩を進める。緊張しているんだ、と私は少し自覚する。
「ははは、二人とも息ぴったりだな」
 奥で牀に座る孫文台さんは笑っていた。私たちが部屋に入ったときにその様子が目に入る。
 それと、孫文台さんの右隣の牀に女の人が座っている。多分、孫文台さんの妻なんだろうけど、私にとって違和感があった。孫文台さんと子衡さんが会うことになったのは、子衡さんの将来を決めるからだと聞いていたから、孫文台さん以外の人がこの場に待っていたのは不自然な気がする。それは私がこの場にいることもなんだけど。
 孫文台さんは右の手のひらを前に差し出す。
「まあ、二人とも突っ立ってないで座りな」
 孫文台さんの一言に私たち二人は軽く一礼し、そそくさと牀に座った。
 その場に座ると、ちょうど女性の目の前だった。真っ先にどれぐらい年上だろうかと思いを巡らしそうなものだけど、私は彼女の美しさに目を奪われている。同性だから、へんなことかもしれないけど、それくらい彼女が綺麗だということ。
 私がその女性に見とれていると、彼女は私に笑顔で会釈した。私は気恥ずかしくなり目を伏せる。
「あ、そうか、紹介を忘れていたが、こいつは俺の妻、呉江姫だ……」
 と孫文台さん。私の様子に気付いていたのかしら。こちらを向いている。
「……君らは、確か、呂子衡と劉良媛という名だったな」
 孫文台さんはそう言いつつ私たち二人を見渡した。
「我々の名前を覚えていただき、光栄でございます」
 そう言ったのは子衡さん。そちらを見たとき、彼は一礼していたので、私もあわてて一礼する。
 顔を上げると、真っ先に目に付いたのは孫文台さんのにこやかな表情。
「まあ、かたいことは抜きだ。これは公式な会見ではないからな……」
 孫文台さんは気さくに話していた。
 孫文台さんの家族が東から来たのは昨日。この寿春の邑に引っ越してきたんだ。だけど、細陽の邑を襲った賊徒を倒した英雄の家族が来た、ということで、その噂は一昼夜で細陽の邑の出身者全員に広がっていた。
「そ、孫文台どの…」
 右にいる子衡さんが話し出した。声があからさまに上擦っている。
「…私はあなたのことを良く知っています。昨年、起こった、暴徒たちの大規模な反乱……それを鎮圧する軍を最前線で指揮し、時には身に多くの傷を負い、それでも暴徒たちに立ち向かっていき勝利を手にしたのは、他ならぬ、あなたです……」
 子衡さんは緊張のためか不自然な声をあげていたけど、孫文台さんにとても熱っぽく語りかけていた。
 孫文台さんは真摯な表情で耳を傾けていた。やがて口を開く。
「俺のことをそこまで知っているとはな…ありがとよ。俺もおまえのことは寿春の県令から聞いている。細陽県からの住民避難には力を尽くしたようだな。それに住民からも良い評判を聞いている」
 孫文台さんは少し笑みを浮かべていた。
 その声とその表情を子衡さんは真っ直ぐな視線で逃していない。
「私を知っていただき光栄です。突然ですが、今日、あなたとお会いしに来たのは他でもありません。実はこちらからお願いがあるのです」
 子衡さんは、ようやく淀みない話し方になっていた。私は、子衡さんがこの言葉を言うために心の中で何度も反芻していたことを知っている。
「奇遇だな。俺もおまえに頼みがあるんだ……ま、おまえの頼みから訊こうか」
 孫文台さんは楽しそうに答えた。子衡さんは我が意を得たというような口角をあげる。子衡さんは孫文台さんが自分と同じ考えを持っていると感じているのだろう。
「確かに、私は細陽県の住民避難に対し昨年、懸命に働きました。それも誰一人、傷つけたくなかったからです。だけど、同時に迫り来る暴徒と戦えない、おのれの無力さに悔しい思いを抱いてました。いつか、自分の力を暴徒鎮圧のために尽くしたいと。だから、今から私を是非、あなたの任務へと連れていってください」
 子衡さんは今までにないほど熱い語りをきかせていた。だけど、孫文台さんは険しい表情を見せている。
「正直、驚いた……なぜなら、俺の頼みとは正反対だからな」
 孫文台さんの言葉に今度は子衡さんが険しい表情をした。私も予期せぬことに内心、とても驚いている。
「正反対?」
 子衡さんは間の抜けた声をあげた。
 孫文台さんはうつむき、右手で頭をかく。
「ま、落ち着いて聞いてくれ。去年から反乱が各地で起こっている。志の高い男の多くは、動機はどうあれ、故郷を出て、戦いに繰り出そうとする。だけど、おまえも図らずとも故郷を出たが、血気にはやって戦いに行かず、住民のことを考え、ちゃんと彼らを守っていたそうじゃないか。俺はそんな地に足のついたおまえの心意気に感動した。だから、場所は変わったと言ってもこれからもおまえにその調子で頑張って欲しい、と俺は思ってねぎらいの意味で、この会を催したんだ」
 孫文台さんは子衡さんに申し訳ないという表情を見せていた。
 私も子衡さんの弱い者を守るそんな姿勢は大好き。だけど、それが子衡さんの目指すことと少し違っているなんて思ってもみなかった。
「この会? 私にはただの話し合いの場に見えるのですが……」
 子衡さんの顔も声も狼狽していた。それなのに、私はなぜか結構、冷静でいられた。子衡さんの夢がうち砕かれようとしているのに。
 孫文台さんは両腕を組みうつむき加減に首をかしげる。
「弱ったな、そんなにおまえが驚くなんて……男二人だと面白くないだろうから、二人で来てもらったんだ。それで、釣り合いとれるように、俺も妻をこの場に連れてきた……それにちゃんとごちそうも用意しているんだ……策、芳、権、もう出てきていいぞ」
 孫文台は入り口に向かって、聞き慣れぬ三人の名を呼んだ。
 入り口の方へ振り返ると、壁の向こう側から、女の子と男の子が入り口がいた。女の子の方が年上で、手には食器をたくさんのせた膳を持っている。男の子はまだ小さくて、その女の子に寄り添っている。
 よく目をこらすとその向こうに大きな男の子がいた。両手で赤ん坊を抱えている。あの子たちが、孫文台さんとこの呉江姫さんの子どもたちなんだろう。子衡さんから勇ましい孫文台さんのことを聞かされていたから、とても意外な感じがしたけど、孫文台さんの家庭的な一面を見れて得した気分だ。
 いつか私も子衡さんとこんな家庭を築けたら……
 そうぼんやり想っていると自然と向き直り、呉江姫さんの方を眺めていた。呉江姫さんは入り口の方に眼差しを向けている。
「策ちゃん、芳ちゃん、権ちゃん、こっちにきて挨拶して」
 呉江姫さんは明るい調子で三人の子に呼びかけた。すぐに三人とも笑顔でこの場にやってくる。赤ん坊を抱えた男の子は孫文台さんの右に立ち、女の子は私たちの前にお料理を持った皿を出していた。それから一番、小さな男の子はすこし遅れて呉江姫さんの左隣に寄り添った。
 そうして、三人の子どもたちは口々に挨拶の声をだした。
 私はとても微笑ましい気分になっていて、子衡さんもそうだろうなと思い、右を向いてみた。だけど、私の視線の先には子衡さんの険しい表情があった。
 その子衡さんの様子に孫文台さんも気付いたようで声をかける。
「どうした? 嫌いな食べ物でもあるのか?」
 孫文台さんの一言で、子衡さんはより深刻な表情を見せた。
「……いえ、私の願いはただ一つ、平和のため、あなた様と共に反乱討伐に向かうことです……私を連れていってくださいませんか?」
 子衡さんは声を震わせていた。それはこの団欒の場にはとても場違いのようだった。私でもこの後、険悪な雰囲気か気まずい場になることを予想できた。
 だけど、私はひらめいた。私がこの場でやること、意味すること、いろんなことを知ったような気がする。あとは行動あるのみ。
「子衡さん」
 私は精一杯の優しさで呼びかけた。子衡さんは不意をつかれたようにこちらを向く。私は微笑む。
「私はここで働くあなたが好きです……いえ、それは細陽にいたころもそうですし、心の奥でずっと思っていたことです。でも、私は今まで自分に嘘をついてたみたい……子衡さんは今すぐ、遠くへ反乱討伐に向かうのが良いだろうっていう嘘を…」
 私は伝わらないことを覚悟で想いを口にした。
 思ったとおり、子衡さんは、私に非難と驚きの表情をむけただけ。
 だけど、私の覚悟は揺るがない。以前、子衡さんは私を細陽の庭園の外へと導いてくれた。それで、私がいつか子衡さんを導こうと心ひそかに思っていた。だから、子衡さん自らが作り出した思いこみの塀の内側から、今、私が彼を導き出すときなんだ。
 私は微笑みを崩さず口を開く。
「私と違って、暴徒たちから、共に避難した細陽の人たちや、何ヶ月もあなたをみてきたこの街の人たちは、嘘なんかつかず素直にあなたに居て欲しいって思ってる。何より私があなたに今、ここに居て欲しいの」
 私の言葉に、子衡さんは目をつむり右手で眉間をつまんでうつむいていた。
 私にとって、とても長い時間。私の強い覚悟が子衡さんの心を闇雲に切り裂いているだけかもしれないという、疑惑が私の心にわいてきている。でも心の多くは子衡さんのことを不思議と信じている。
 それから子衡さんは面を上げ、私に弱々しい笑顔を向ける。
「ありがとう……そういうことだね。俺は反乱討伐に向かうことが絶対の正義だと思っていた……いや、思い込んでいたみたいだ…」
 口とはうらはらに、子衡さんの顔に迷いの色が見えていた。
 それで私が言葉を選んでいたとき、呉江姫さんが先に子衡さんに声をかける。
「それが例え、正義でも、残された方々の気持ちを考えて下さい。その方々にとって、あなたはとても頼りにされているようですね。あなたのような若い方が頼りにされるようなことなんて、めったにないことだと思います。頼りにされる場で力をふるえるなんて素敵なことじゃないですか」
 呉江姫さんの語りかけに子衡さんはそちらに振り向いた。彼は驚きの表情を浮かべている。孫文台さんからではなく、その妻の呉江姫さんからそのような言葉をかけられるなんて思わなかったんだろう。
 私もとても驚いた。だけど、すぐにそんな呉江姫さんのことを尊敬するようになっていた。私もこんな家庭をもって、あんなふうになりたい。
 呉江姫さんはさらに続ける。
「私の夫は勅命で遠いところへ、苦しんでいる多くの人たちのために、反乱討伐に行かなければなりませんが、できれば私や子どもたちを守ることもしたいはずです。その点でも、あなたは幸せです。ここの街で多くの人たちのためにも、劉良媛さんなど、身近な人のためにも働けますもの」
 呉夫人さんはさらりと言い切った。彼女の右手は、向かって左横の小さな男の子の肩にやさしく置かれたままだ。子衡さんは未だに唖然としている。孫文台さんはゆっくりと何回か首を縦にふっている。
「そうだな、江姫のいうとおりかもな。俺は、今、中央の意向でいろんなところへ反乱討伐へ行っているけど、昔、十年ぐらい県吏(やくにん)をやっていたからな、だから県でしっかりとした仕事をしていれば、まだ年月はかかるが、中央で働くことになるかもな。まあ、そうじゃなくても俺が数年もすれば推薦したいぐらいだ」
 孫文台さんの補足で、子衡さんの表情は少し和らいだ。
 次第に子衡さんは決然とした表情を見せるようになっていた。そして、彼は私に顔を向けた。私は安堵の笑みでそれを返す。子衡さんは正面を向く。
「わかりました。私は寿春に残り、今までどおり任務を果たしていきたいと思います」
 子衡さんの表情にもはや悩みなんてなかった。いつもどおりさわやかな顔だ。それはいつもより美しい顔だ。
「ではこの寿春の邑を……」
 そう、孫文台さんが声にだしていたとき、子衡さんは牀からすくっと立ち上がり、孫文台さんの右にいた男の子の元へ行く。
「だからといって、私があなたを尊敬している気持ちは変わりません。代わりといっては変ですが、呉江姫さん、それにこの子たちは私が責任をもって守ります。だから、孫文台さまは安心して西方へ赴いて下さい」
 子衡さんは孫文台さんの一番大きな子の元へひざまずいていた。孫文台さんは慌てて、子衡さんの元へかけより、同じようにひざまずく。
「ほら、おまえのような立派な男には勿体ないぞ。牀に座り、共に料理を楽しもう」
 孫文台さんの呼びかけに、子衡さんはすぐ元気の良い声で返事をした。
 それから、二人はそれぞれの牀に戻った。ことが丸くおさまり、もう安心。
 細陽からここへ移り住んだときほどでもないんだろうけど、この孫文台さんの家族がここに来たことで、私の日常も子衡さんの日常もまた少し変わっていくんだろう。
 あの庭園に居たとき、私は季節の移り変わり以外の変わることを怖がっていたのかもしれない。だけど、今は変わることをを受け容れられるし、ことによっては自分から変えていこうとしている。だから、さっき、子衡さんも私も良い方になるよう、ことを変えられたんだ。
「さあ、良媛さんも、遠慮せず、お料理、食べて下さいね」
 あれこれ想いを巡らしていると、私は目の前の呉江姫さんから優しく声をかけられた。
 私は、にこりと相づちをうち、ご馳走に手を伸ばす。
 細陽の庭園を出たときは悪くなる一方と思っていた。だけど、この広い庭園で、悪いことばかりではなく、良いことはたくさんあるし、何より子衡さんが側にいてくれるからとても心強い。
 これからどんなことが起こるか、私は楽しんでいるのかもしれない。

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