介のメモ帳


三国志、建安十三年を基準にした「三国志のこんなもの」になったようです。

後漢末〜地理〜
出身地偏、現在の安徽省
臨淮郡東城  後漢書「郡國」では「臨淮郡」は「下ヒ國」となっており「徐州」に属しています。
 ここは魯粛の出身地。
 現在の安徽省定遠県がこれにあたるとか。定遠県は蚌埠市と合肥市の真中よりも少し北東寄りに位置しています。
 周瑜よりも少し東の出身だということですね。
 いやしかし…「下ヒ國」も広い広い…現在の江蘇省スイ寧に中心が置かれて安徽省定遠県まで含むんですもの…。
汝南郡富陂  後漢書では「豫州汝南郡富陂侯國」、呂蒙君の出身地ですね。ご近所には「豫州沛郡」があります。
 と言うことは呂蒙君と曹操さんはおとなりの郡出身なんですね、呂蒙の実家から曹操の実家まで自動車でで一時間かかるかかからないか…周瑜宅に行くよりも近いです。
 現在の安徽省阜陽市の南に位置するそうです。ということで現在の六十里鋪とか三塔集のあたりだと思われます。
「揚州」出身者が多い呉かと思いきや、案外そうでもなさそう…。呂蒙、ひょっとしてウドンには辣油が欠かせない人か…?
盧江郡舒  盧江郡舒、後漢書では後漢代には「揚州」に属しています。
 呉ファンには言わずと知れた(?)周瑜の出身地。
 現在では安徽省盧江舒城がこれにあたるようです。
『盧江郡:舒有桐郷』とあるので、現在の「桐城市」のあたりまでが舒に含まれたのでしょうか。
 もしそうだとしたらけっこう「盧江郡舒県」も広そうですね。
 この「揚州」は「会稽郡(現在の浙江省あたり)」からはじまり、「呉郡(現在の浙江省から江蘇省にかけての地域)」、「盧江郡(現在の安徽省あたり)」、「九江郡(現在の江西省あたり)」までを範囲にするので、非常に広いものだったといえます。
 このメモに関して、後漢書まで調べてくださった清岡様、この場を借りてお礼申し上げます。
沛国しょう  曹操の出身地。沛国しょうは現在の安徽省毫県。
 ここは呂蒙の出身地の北西にあります。この間には頴上などを挟んでいます。
 呂蒙の出身地はどうやら魏と呉の境に位置するようですが、呂蒙がこの関係で魏に行ってしまったらなどと考えるとあまりにも恐ろしいですね…魯肅から陸遜までの間の継承者がいません。
 もっとも魯肅の出身地である東城もかなり北で、魯肅にはそもそも北に出仕に出ようとする意思もあったと言われます。
 それも怖い話ですが。
出身地偏、現在の江蘇省から浙江省
呉郡呉  簡単明快。陸遜の出身地。
「揚州呉郡呉県」現在の江蘇省蘇州だそうです。
 陸遜はきっと辛いものが苦手でしょう…。中国人は辛いものが好きだといいますが、以前の江東人というのは辛いものはまったく食べられなかったそうです。辛いものを食べられるようになってきたのはつい最近、あちこちの地方料理を地元で食べることができるようになってきたからだとか。
 それにしても蘇州出身で上海に邸宅を構えて…陸遜ていい生活してますね。
赤壁  現在の湖北省赤壁市、と言われております。
 武漢からバスで行かれます。
 船でも下れます。
 武漢からは上りですけれど。
 …そうです。国慶節に行こうとして武漢から下ってしまったのは私です。おかげで授業開始前日には南京に帰れたものの赤壁は見ずじまい。
 リベンジかけて春休みに行く予定です。
 しかし武漢に行って漢口、漢陽、漢水を見てきましたが、くっそ寒い二月に来る曹操も曹操だがくっそ寒い時期に「天の時だ!」なんて言って行く奴(周瑜のこと)も行く奴だわこりゃ…という感じです。11月を過ぎての船旅は寒いので皆さま少し考えましょうね。暖房はないですよ。
九江  九江まで来ました、私が蒋子翼です!という人がいましたね。この人が建安十三年に来てしまうのは演義です。
 資治通鑒では建安一四年にこいつが来たことになっています。
 …が……、九江ちゅーのは郡なんじゃ!九江のどこやっつーねん!!…そう。現在でこそ江西省九江市は小さな市ですが、後漢書の郡國にはきちんと「九江郡」があるんです。そして曹操が軍を駐屯させ、孫権が囲んだという合肥も九江郡に含まれております。
 それでも九江市の地図、九江概要にはきちんと「三国時代、呉の将軍周瑜が魏に抗い蜀を拒み」と…え?…周瑜はたしかに親蜀派ではないけれども…。しかし合肥が九江郡に入っているとなると九江と盧江というのは複雑な隣り合い方をしていたようですね。(←話を変えてみた)
林歴山  建安十三年に賀斎君が賊討伐のために出向いたところ。
 丹陽郡(現在の南京を含む一帯、この時期南京は「秣陵」と呼ばれており、建安一七年に孫権がこれを「建業」と改めたとあります)の方を攻めたというので「近いか!」と期待していたら…賀斎君、あなたそれは「一帯を攻めた」とは言わないのではというぐらい離れていました。このとき攻めた「黝(ヨウ)」という県に林歴山があると後漢書には出ています。
 この「黝県」現在でも「三国志(中華書局)」の賀斎傅にある「イ(「黒多」で一文字)県」と同じ名前のまま安徽省イ県として江西省と浙江省の境、黄山市の西側にあります。
 近所に黄山があるんです…林歴山が岩に囲まれたような山だと言われても不思議だとは思いはしませんが、どうせなら賀斎、ついでに黄山登ってくればよかったのに…。
石頭城  建安一七年、孫権が秣陵を建業と改めたときに「城石頭」という名前が出てきます。
 この石頭城、現在も南京の南西に残っています。秣陵が孫権によって建業と名前を変えたのは建安一七年ですが、実際に孫権が呉の都を建業に移したのは黄龍元年のこと。北側には玄武湖ありという記述が江蘇文献集の中にも確かありました。玄武湖は南京の中心あたりにあるので、孫権が建業を都にしていたときの中心地は少し南に寄っているのかもしれません。
 紅楼夢研究の本の中には、紅楼夢の作者である曹雪芹が南京出身であることから、原題の「石頭記」の「石頭」は石頭城の石頭であるという人もいます。
 現在は清涼山公園となっています。
 …しかし三国志といえば演義というのが中国人の中にもありますし、中国人だからといって三国志に詳しいというわけでもありません。一般の人に比べれば日本の三国志迷の方が三国志に詳しい面もかなりあります。それでも南京大学の学生が孫権を知らなかったのはショックだったわ…。
後漢末〜中平あたり〜
周瑜と孫策の初対面  これに関して、私は調べきれていません。
 正史三国志を見ると、呉書破虜討逆伝の貢には『策字伯符、堅初興義兵、策将母徒居舒、與周瑜相友』とあり、また周瑜魯粛呂蒙伝には『初、孫堅興義兵討董卓、徒家於舒』とあり、それによれば孫堅が董卓討伐の義兵を挙げたときに孫一家が周家の南邸に引っ越してきたことになります。
 孫堅が董卓討伐の義兵を挙げた正確な年代は正史三国志には書かれていません。
 ただ、『霊帝崩』とあるので、霊帝が崩御した年、西暦189年が候補になります。
 この年孫策、周瑜、ともに15歳、そんなに成長していたのか…?
 通鑑記事本末(柏楊版)では周瑜が孫策を尋ねていったというようにも書いてあります。
後漢末〜建安13年〜
赤壁の合戦  いや、建安13年だと言われてしまえばそこまでなんですけど。
 後漢書孝献帝紀では、建安13年の10月の貢に『曹操以舟帥伐孫権』とあり、三国志魏書では『冬十二月、公至赤壁』とあります。
 呉書では周瑜魯粛呂蒙伝で『其年九月、曹公入荊州、劉j挙衆降、曹公得其水軍』とあります。
 ただ、赤壁に言及しているのが魏書のみであることを考えると、魏書の『十二月』というのが一番正確だと考えられます。
 後漢書律暦では月の定義として「大寒のある月を十二月とする」と定義しています。
 ここで、旧暦と新暦を比較すると一ヶ月ほどの誤差で旧暦の方が遅く、この建安13年の大寒を調べると新暦、つまり現在私たちが使っている暦上では209年の1月20日となります。
 したがって建安13年の12月は現在の1月20日を含む新月から次の新月までの一ヶ月ということになります。
 なにも一年の一番寒いときに赤壁なんかに出張ってこなくてもよかったんですけどね、曹孟徳さんも。
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