錢唐江畔
晴天。
空は青い。
江の水を掻き分けて船が進む。
男たちの掛け声が重なり合う。
舳先に座り込んで、少年は前を眺めた。
周りを商船が行きかう。
この船も同じ商船だ。
少年が眺める船のなかには、他の船から板を渡して船荷のやりとりをしている船もある。
風が強い。
からりとした風が少年の髪を撫で付ける。
おーいと叫ぶ船がある。
船は少年を乗せて声のほうへ寄せられた。
商談相手の船なのだろう。
船の上に板を渡して男たちが行き来する。
一枚の板は少年の船から相手の船へ渡され、男たちが少年の船に載せてあった積荷を相手の船へ渡している。もう一枚は相手の船から渡された板で、こちらは相手の船の積荷を少年の船へ積んでいく男が渡ってくる。
船荷の乗せ替えを指図していた男が少年のほうへ歩いてきた。
「阿堅、おまえも手伝え。今回は積荷が多い」
言われて少年はにこりと笑った。
精悍で大人びた表情が、笑ったとたんに少年のあどけない表情に変わる。
「運んできたのを下に移す?それとも向こうに運ぶ?」
うむと頷いて男は後ろを見た。
「そうだな、新しい荷を下の船室に運んでくれ」
男に言われて少年が元気よく返事をする。
「好的(ハオディ:わかった)!エイ!我来我来(ウォライ:俺がやる)!」
駆けてゆく少年を見ながら、男はつぶやいた。
「元気なやつ」
商船が多く行きかうこの江を、錢唐江という。
錢唐江は今で言う杭州の辺りを流れて杭州湾へでる河で、富春江から流れ込んでいる。
阿堅と言われた少年は、姓を孫という。
孫堅、後に江東の勢力を束ねる男になる少年だ。そんな少年を輩出した富春孫家と呼ばれるこの一族は、辿れば孫子につながると言われる名門である。一族の長老がた曰く、孫武の息子の孫明が斉から移住して富春に住み着き、富春孫家を作り上げたと。もっとも孫堅にとってそんな話は半信半疑の代物でしかない。後ろ盾にはもってこいという程度のものだ。あくまでも「孫武から始まる」、ではなく「孫武の息子から始まる」家なので、あまり威厳もなさそうに聞こえる。
積荷の上げ下ろしが終わると、二隻の商船はそれぞれの向かう方向へと出向した。
孫堅の船は錢唐で一旦船を休ませる。
「遊びに行ってくる!」
船が陸へと板を渡すや否や、誰もがあっけに取られる勢いで孫堅は陸へと飛び出した。
「おい!阿堅、出航の時間は覚えているだろうな!」
父親に怒鳴られて孫堅は覚えてると言い返す。
「まったく、あの落ち着きのなさは誰に似たんだ」
呆れて腕組みをする男に周りで男たちが、そりゃ親方に似たんだと言って笑った。
錢唐を歩き回って、孫堅は物珍しい事物をあれやこれやと眺めて船の上で溜まった鬱屈晴らしをする。
適当にふらついているうちに、孫堅は立ち止まって目を見張った。
目の前の店に絹を眺めている少女がいる。
身なりも悪くないのだから、どこか良家の娘に違いない。
鐘楼の鐘が鳴り、孫堅は慌てて船に帰った。
船に戻ってから、夕食を食べている間も自分を眺める息子の様子に、父は眉をひそめた。
「なんだ、おまえ。父の顔になんかついてるか?」
父の質問に孫堅は首を振った。
息子の様子に怪しむような顔を向けたまま、父は自分の部屋に戻る息子を見送った。
「なんなんだ、あいつ」
快晴。
錢唐を出てから、風に塩の匂いが混じるようになった。
いつもと同じように、孫堅は舳先のあたりに座り込んでいた。
やはり目の前を商船が行きかう。
商船の様子がおかしい。途中で引き返してくる船がある。
首をかしげてから孫堅は父の所に足を向けた。
「父さん、おかしい。船が戻ってくる」
船室の扉を開けて顔を覗かせ、それだけ言う孫堅に父は吐息した。
「なに、行った船があれば戻ってくる船もある。おかしいのはおまえだ。昨日からぼけっとして」
そう言いながら甲板へ出て前を眺め、孫堅の父は目を眇めた。
前から戻ってくる船の甲板で手を振っている男がいる。
すれ違いざま、戻ってきた船の男が叫ぶ。
「海賊がいるぞ!もう少し船が集まってからでないとあそこを渡れない!」
その海賊対策のために自衛組織があるのだが、と孫堅の父が吐息する。
それから向かいの男は孫堅たちの船の舳先を指差した。
「あの坊主、下手すっと錢唐江に落ちるぞ!」
慌てて振り返ると、孫堅が舳先で海賊を眺めようと身を乗り出している。
「阿堅―っ!」
父の怒号に孫堅は転げるようにして甲板へ戻った。その顔には好奇心と興味と、少年らしい欲求が満面に浮かんでいる。
「父さん、俺あれやっつける!」
向かいの船の男たちも、孫堅の船の男たちも、ぽかんとして孫堅を眺めた。
あっけに取られている父に、孫堅は言う。
「あのぐらい俺だってやっつけられるって。いいっしょ?」
父は呆れてため息をついた。
「おまえにできるものならやってみろ」
孫堅が躍り上がる。
小舟を下ろせ!
孫堅の声が甲板に響く。
「お芝居するんだ」
父に言って、孫堅は父親の佩いていた剣を借りる。
向かいの男たちが、それで渡れるならのってやろうと自分たちの小舟を下ろし始める。
舳先に立ち、孫堅は剣を振りかぶる。
「もっと近づいて」
海賊の顔が判別できる程度にと言って指図を出し、孫堅は思い切り剣を太陽に反射させて見せる。
大きく剣を左右に振って、怒号を上げる。
「展開!」
孫堅がしばらくそうして適当な身振りで剣を振り回しているうちに、海賊の船が引き上げるのを見て男たちが喚声を上げた。
まったくと父親が呆れるうちに、息子は舳先から飛び降りてしまった。
「あれっ、おい!阿堅のやつどこにいく気だ!」
数時間して、船の下から声がした。
「父さんー、縄を下ろしてー」
バカ息子の帰還だと父は苦笑して縄を下ろした。
この後の惨事を一体誰が想像するだろうか。
何かがぽーんと投げられて甲板に落ちた。
縄を上ってきた息子が、自分が甲板に下りるよりも先に投げてよこしたものだ。
甲板で孫堅が戻るのを待っていた男たちがそれを覗き込む。
「ぎゃあぁぁぁっ!親方、ありゃ、坊ちゃんが持って帰ってきたのは人の首だあ!」
悲鳴が上がる。
伊達に錢唐江に商船を走らせてはいなかったはずの男たちが腰を抜かしている。
縄をよじ登ってきた孫堅は血まみれの剣を父に渡す。
「おまえ、あれはおまえが取ってきたのか?」
父に質問されて孫堅はえへへと鼻をこすった。
「だから言ったじゃないか、やっつけられるって」
弱冠17歳の少年の快挙は瞬く間に噂となって広がった。
孫堅、後に字を文台として群雄に名を連ねる少年の初陣であった。
海賊退治、腕白ざかりの少年にとってそれほど刺激的な話もない。
少年がふたり、その話を面白そうに聞いている。
「そのとき何歳だったの?」
片方の少年の質問に、孫堅は豪快に笑った。
「17歳か18歳かだな、ちょうど今のおまえと同じぐらいだぞ、阿策」
阿策と呼ばれた少年、孫堅の長男である孫策が吐息する。
それで、と言う孫堅の横で、呆れたように苦笑している弟が口を挟む。
「あれはおまえの親父が17歳のときだったはずだな。叔父さんは悔しかった。なにしろそこにいればおまえの親父と一緒に活躍したはずだったんだから」
孫堅が孫静をひとつ軽く殴る。
「阿静めこんなことを言っているがね、周郎、こいつはそのとき母親のとなりで蛙を捕まえて喜んでいるようなガキだった」
兄ちゃん!と孫静が顔を真っ赤にして怒鳴る。
口を挟んだのは孫策だ。
「それで、錢唐で見つけた美人はどうなったの?」
さっきから孫堅が色々と言うので、孫策も周郎と呼ばれた少年も、錢唐の美人が気になって仕方がなかったのだ。
「そう、その美人だがえらいきれいでね、一目ぼれだったよ」
孫堅が言うと孫策が、さっきも聞いたよと言う。
孫策も周郎も、続きが気になって仕方がない。
「その美人は?もう会えなかったのですか?」
周郎の言葉に孫静が大笑いした。
「会うも会えないも、この人はその美人を嫁にくれないのなら恨んでやるって言って強引に彼女を嫁にしたんだ」
孫策があっけに取られる。
扉が開いて女が顔を出す。
「噂をすれば影」
孫静がまた笑う。
女が微笑した。
「おやつの時間、お腹すいたのではない?」
柔らかい声で言われて孫策が困ったように孫堅を見る。
「あなた、阿策はどうしたの?」
孫堅が苦笑した。孫静は後ろを向いて笑っている。周郎が孫堅と女を見比べる。
孫静が堪えきれずに口を開いた。
「阿策がそんなに困ることもない。この人が錢唐で見つけた美人はおまえのお母さんだ」
孫策が明らかにほっとした顔で吐息してから笑った。
そして横で同じく破顔一笑した周郎の脳裏には新たな疑問が沸いた。
一体、嫁にくれなければ恨んでやると言って妻の家に殴りこんだとき(←そこまでは言ってない)孫堅は何歳だったのだろう?
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