老伯の笑顔は漸く温かく朗らかになり、微笑して言った。
「私はずっと律香川を自分の息子のようにしてきた、おまえにも同じようにしたい」
 孟星魂はうなだれて、ほとんど仰ぎ見ようとはしなかった。
 突然自分の目の前に立っているものは、よじ登ってとりいることのできない巨人で、そして自分は三尺にも満たないほどになってしまったように感じた。
 突然自分が汚く卑しく感じた。
 このとき律香川はすでに戻り、灰衫の人が、背には薬箱を背負って手には鈴を提げて彼の背後にいた。
 孟星魂の全身の筋肉が引き攣る。
 この薬売りの漢方医が葉翔であるとは思いもよらなかった。
 最近は葉翔を見ることがとても少ない、ところが今はとても冷静だった。
 彼は冷静で沈着で、孟星魂を見たときも、目は避けもせず、どのような表情もなかった。
 まるではじめから孟星魂が見えていないかのように。
 孟星魂はといえばしばらくしてようやく緊張がほぐれた。初めて彼は本当に自分が確実に多くのことで葉翔に適わないことを感じた。
 なぜ葉翔がここにいるのかは更にわからない。
 老伯には明らかに曖昧で、微笑して言った。
「丁度よいところにいらした、お医者先生が必要でしてな」
 葉翔も笑みを浮かべながら言う。
「病人がおるのですか?」
 老伯が言う。
「病人はおらん、傷を負った者と死人がいる」
 葉翔が言う。
「死人は治せませんよ」
 老伯は言う。
「傷を負った者は?傷薬ならば持っているだろう」
 葉翔が言う。
「治せない」
 老伯は言う。
「どのような病ならば治せるのかね?」
 葉翔が言う。
「どのような病も治せない」
 老伯が言う。
「それではおまえは何の薬を売っている」
 葉翔は言う。
「薬は売っていない、薬箱の中は酒と刀だ」
 彼の顔に表情は無く淡々と続けて言う。
「人の病は治せない、ただ命をもらうだけだ」
 この言葉に孟星魂の心臓は飛び出しそうになった。
 老伯はしかし笑いながら言う。
「そもそも人殺しか、それはよい、ここでは大勢の人間がよく人を殺す、おまえがそのうちの誰を殺すのかは知らないが」
 葉翔は言う。
「人殺しに来たわけではないぞ」
 老伯が言う。
「違うだと?」
 葉翔は言う。
「もし人を殺しにきたのなら、当然殺すのはあなただが、私はあなたを殺そうとは思わない」
 老伯はおおと言う。
 葉翔は言う。
「人を殺すのに選り好みはしない、条件に合えば例えどのような人であれ、私は殺すけれども、あなたは例外なんだ」
 老伯は「なぜ?」と言った。
 彼の面には微笑が保たれている、聴くのが興味深いようだ。
 葉翔は「あなたを殺さない、なぜなら私はそもそもあなたを殺せない、殺してもあなたは死なない」と言い、淡々と一笑して、続けて言う。「世の中の生きている人全て、もしかしたらあなたを殺すことはできない、あなたを殺そうとする人間はキチガイで、私はキチガイじゃない」
 老伯は大笑いしながら言う。
「おまえはキチガイではないにしろ、私をいささか高く見すぎだ」
 葉翔が言う。
「そんなことは無い、なぜなら私は知っているから」
 老伯は言う。 「生きている人間は誰でも誰かに殺されて死ぬ可能性が有る、私も人だ、生きている人間だ」
 葉翔が言う。
「当然あなたも誰かに殺されて死ぬことはある、ただその日はまだ来ていない」
 老伯が言う。
「いつ来るのかね?」
 葉翔は言う。
「あなたが老いたときだ」
 老伯が言う。
「私はまだ老いてはいないのかね?」
 葉翔は言う。
「まだ老いたとはいえない、まだ動きも遅くなっていない、頑固で他の爺さんのように禿げてもこせこせもしていない」
 彼は冷たく「ただしおまえも遅かれ早かれそういった日が来る、誰にでもその日がくる」と言う。
 老伯はまた大笑いしたが、しかし目の中は一陣の影が掠め、言う。
「人を殺すでないのなら、なぜここへ来た?」
 葉翔は考え込むようにつぶやき「本当の話を言えと?」と言う。
 老伯は微笑して「一言も嘘の無いのが一番よい」と言う。
 葉翔はまた考え込むようにつぶやきながら、ついに「あなたの娘を迎えに来た」と言った。
 老伯の表情が忽然と変化して、厳しい口調で「娘などおらん!」と言った。
 葉翔は言う。
「それでは別の人間の娘でもいい、迎えに来たのは孫蝶という人だ」
 葉翔が言う。
「彼女を自分の娘だと認めないのは知っている、だから彼女を連れに来た」
 老伯が言う。
「あれを連れに来た?」
 葉翔は言う。
「あなたは彼女をいらない、私は彼女が必要だ」
 老伯が厳しい声で言う。
「あれをどこへ連れて行こうというのだ?」
 葉翔は言う。
「すでに彼女をいらないというのに、なぜまた彼女をどこへ連れて行くのかを気にする?」
 老伯の鋭利で研ぎ澄まされた一服の瞳が突然紅くなり、髪は総毛だった。
 しかしそれでも自身を制して、葉翔を見つめること久しくし、一言一言「おまえを見たことがあるようだ」と言った。
 葉翔は「あなたは確実に見ている」と言う。
 老伯は「数年前おまえを見てそうして…」と言う。
 葉翔が「そうしてかつて韓棠に私を永遠に戻れない場所へと追いやらせた」
 老伯は「おまえはまだ死んでいなかったのか?」と言う。
 葉翔は笑うだけだ。彼が口を開く前に、老伯は突然飛び掛り、葉翔の衿を強く掴み、彼を持ち上げるようにし、「小蝶の子供はおまえの子供か」と語気荒くした。
 葉翔は口を開かない。
 老伯は怒りに「言うか言わんのか?……言うのか言わんのか?」と死に物狂いで葉翔を揺する、まるで葉翔の骨身全てを揺さぶり散らすかのようにして言う。
 葉翔の面はやはりまったくの無表情で、淡々と「衣服を他人に掴まれているときには、話をするのが嫌いだ」と言った。老伯は怒りに目玉さえ飛び出しそうなほどで、額には青筋が浮いて、切れそうになっている。律香川はあっけにとられたようだ、今までに老伯がこれほど怒ったところを見たことは無い、老伯でも自分を制することができないときがあるなど思いもよらなかったのだ。
 孟星魂もあっけにとられていた。「孫蝶」と名前を聞いたときに、彼はすでに呆気にとられたのだ。
 彼は自分が殺そうとしているのが彼自身の思い人の父であるとは、夢にも思わなかったのだ。
 ただし彼は葉翔が来た意味を知った、葉翔は彼に免れ得ない間違いを起こそうとしていることを告げに来たのだ。
 葉翔は命の危険を冒して彼にこのことを告げようとした。孟星魂のためだけではなく小蝶のために――そもそも彼が唯一本当に愛した人が小蝶だった。
「なぜだ?どうして?まさか小蝶の子供の父は、本当に葉翔なのか?」  孟星魂は天と地が旋回し、世界が崩れそうな気がした。
 彼自身が崩れそうになった。支えることもしきれず、倒れそうだった。
 老伯は葉翔の面前で身震いしていた、全身が震えていた。
 楽になると、両の拳をさらに強く握り締め「よかろう、言え、子供の父はおまえではないのか?」と言った。
 葉翔が「違う」と言う。
 彼は長いため息をつき、続ける。
「ただし私はそうありたい、一切を犠牲にしてもむしろ、その子供の父親になりたい」
 老伯はしわがれた声で「あの畜生、あの私生児…」と言う。
 葉翔が「なぜ子供を恨む?子供に罪は無い、すでに父親がいないのだからかわいそうじゃないか、祖父になる人間はそれをもっと可愛がってあげるのが本当だ」と言う。
 老伯は「誰が祖父だ?」と言う。
 葉翔は言う。 「あなただ、あなたがその子供の祖父だ」
 声高にして、大声で「認めまいとしても無駄だ、なぜならその子供はおまえの血を分け、肉を分けたんだ」と。
 彼が言い終わらないうちに、老伯は飛び掛り、拳で彼の面を痛撃した。
 彼はよけなかった、よけることはできなかった。
 老伯の拳は雷のようにすばやかった。
 葉翔には拳が見えていなかった。ただ目の前が真っ暗になった、天が崩れ地が避けたように。
 眩暈がしたわけではなく、老伯の一撃がすでに下腹を撃っていたからだ。
 苦痛が彼にせまる。
 身を曲げて、両手で下腹を押さえながら地上に倒れて痙攣する。
 鮮血と胆汁と胃酸が一気に吐き出され、葉翔は生臭さと酸っぱさと苦味を覚えた。
 孟星魂はまるで引き裂かれたようだった。
 彼は我慢しきれない、我慢できなかった。
 我慢ならず一切を顧みずに手を出しそうになった。
 ただし彼は見ていなければならなかった、我慢しなければ、彼も死ぬ。
 それでは葉翔が彼の全てを犠牲にしたことが、全て無意味なものになり、死んでも死にきれない。
 それは更に我慢がならない。
 葉翔は痙攣し嘔吐し続ける、老伯の拳はこの世でもっとも悪辣な刑罰で、誰も味わったことの無いような苦痛を味わわせるのだ。
 老伯は彼を見ながら怒気は抜けたように、ようやく平静を取り戻し、ただ軽く喘いでいた。
 突然縮こまっていた葉翔がぱっと飛び起きる。
 手の中の鈴は突然十幾らもの寒空の星を撒き散らした、流星よりももっと早い星だ。
 右手には短剣を取り出している、まるで身体と剣が一体になったようだ。
 剣光は虹のように、寒空の星の中に飛ぶ、星よりも早く。
 星と虹は老伯の逃げ道の全てを塞ぐ。
 この一撃の威力は、誰にも抵抗できず、誰も避けることはできない。
 孟星魂は当然葉翔がどれほど恐ろしい殺人者かを知っていたが、自分で見たことは無かった。
 彼は今見た。
 最近ではだんだんと疑うようになり、以前多くの人間が葉翔のために死んだことを信じないほどだった。
 今は信じられた。
 葉翔の一撃はもっとも意外なときに繰り出されるだけではなく、素早さは誰にも想像させない。
 意外なときとは、もっとも正確なときだ。
 ただの一手、相手に退路を残してはやらない。残酷で、正確で迅速だ。
 それは殺人の基本的な条件であり、最も重要である。
 この三つが一緒になるとは、死を意味する。
 最近葉翔を見た人間は、彼がまだこのような一撃を発することができるとは絶対に信じない、まるで昔日の一番よかった頃が戻ったように、孟星魂への友情と、小蝶への恋情が彼に最後の力を出させたのだ。
 これは最後の一撃だ。
 誰も彼の一撃を避けることはできない。他に人はいない、ただ老伯だけだ。
 短剣が空中に飛び、落ちたときには二つに折れていた。
 葉翔の身体はがばっと起きる。落ちた右手はすでに折られている。
 老伯はやはりそこに立っている、動かそうとしても動かないかのように立っている。袖で十幾らもの寒星をよけたとはいえ孟星魂にはまだ老伯の胸を寒星が打っているのが見えている。
 少なくとも4、5。
 孟星魂にははっきりと見えていて、見間違っていない自信が有る。
 彼もこの暗器の威力ははっきりしている、彼が老伯を殺すために用意したのもこの種の暗器だからだ。
 誰であれこの暗器に撃たれれば、すぐに倒れて死ぬ。
 老伯は倒れない、死にもしない。
 暗器は彼の身体を打った、まるで鉄の人間でも打つようにチンッと音がした。
 老伯がもし超人であれ、巨人であれ、どのようであっても鉄でできている人間ではない。
 孟星魂はついに見つけた。老伯の着ている平凡で古い着物のほかに、必ず平凡ではない衣服がある。
 その服が金糸で作ってあるのかどうかはわからない。ただ世の中にあるどのような暗器もこの服を貫くことのできるものは無い。
 もし彼がこの種の暗器で老伯を殺そうとしたら彼が死んでいた!
 これが孟星魂の得た教訓だ。
 この教訓は孟星魂が自分で苦労した経験から得たものではない、葉翔の命と引き換えに得たものだ。
 葉翔はもがいて這い起きるが、やはりつまづいて倒れ、地上に伏せ、ののしるように喘ぐと、いきなり大笑いして言った。
「俺は間違っていない、間違ってはいない」
 老伯は「だが多くの人間がおまえを殺すことができる」と言う。
 それだけ言うと、忽然と身を翻した。
 葉翔をもう一度見ることは無かった。そうして律香川を見た。
 律香川は彼の意図がわかった。
 老伯は人が死ぬのに、倒れた人間を殺すことはしないのだ。
 老伯がしないことを律香川はする。

 
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