赤壁の役の戦略決定要素について


※この不親切なレジュメは、白文の下に【要約】、あるいは【要約】に相当する役をつけることで日本語に対応しています。
※特に批判的考察という目的ではありません。



 『三国志』を知る人は周知の通り、赤壁の役とは、西暦208年、後漢の建安十三年に起きた役です。しかしこの役は、歴史上ではそれほど大きな合戦ではありませんでした。
 赤壁の役で注目されるのはなんでしょうか。
 赤壁の役と言われてまず想像するのは、羅貫中による『三国演義』中の描写でしょう。
 120回からなる羅貫中の小説『三国演義』は『三国志通俗演義』とも言われる作品で、曹操を中心とした正史よりも、劉備勢力を中心として擁護する傾向にあり、また元末明初の小説家かつ戯劇作家でもある羅貫中の作品として一番有名な作品で、諸葛亮の人並み外れた神通力が強調されます。
 最近では『三国演義』に、様々なメディアから正史ではどのようであったかという問題が広まり、諸葛亮が神格化されたもの以外に、赤壁で実際に軍を出した呉軍の活躍も注目されるようになりました。赤壁の役で呉軍の指揮をとったのが、『三国演義』の三大軍師と呼ばれる軍師のひとりである周瑜です。彼らの共通の計略であった火計ですが、なぜ火計を選んだのでしょうか。ここでは、どのようにして赤壁で火計を使うことが決定されたかを検証してみようということを、分析のメインとしたいと思います。



1、経緯
 まず、赤壁の役までの経緯ですが、『後漢書』には、

曹操以舟師伐孫權,權將周瑜敗之於烏林、赤壁。(『後漢書』孝献帝紀第九 建安十三年)
【要約】曹操は舟師で孫權を伐とうとしたが、孫権の將である周瑜に、烏林、赤壁で負けた。

と記録がありますので、事実、周瑜が將として曹操軍を敗走させていることがまずわかります。しかし

十二月,孫權為備攻合肥。公自江陵征備,至巴丘,遣張喜救合肥。權聞喜至,乃走。公至赤壁,與備戰,不利。於是大疫,吏士多死者,乃引軍還。備遂有荊州、江南諸郡。(『三国志』魏書武帝紀第一 建安十三年)
【要約】十二月、孫権は合肥を攻め、曹操は江陵に劉備を攻めたので、張喜という将軍に合肥を攻めさせた。孫権は張喜が来たので撤退した。曹操は赤壁で劉備と戦ったが、疫病で官吏や兵士に死者がでたので引き上げた。

とあり、曹操としては、孫権と、荊州ではなく合肥で軍を衝突させていることになります。ここで曹操は赤壁で劉備と戦ったとされていますが、直前の記録が

秋七月,公南征劉表。八月,表卒,其子j代,屯襄陽,劉備屯樊。九月,公到新野,j遂降,備走夏口。公進軍江陵,下令荊州吏民,與之更始。乃論荊州服從之功,侯者十五人,以劉表大將文聘為江夏太守,使統本兵,引用荊州名士韓嵩﹑ケ義等。益州牧劉璋始受徴役,遣兵給軍。(『三国志』魏書武帝紀第一 建安十三年)
【要約】七月、曹操は劉表を攻めた。八月劉表が死んで息子の劉jが後を次いで襄陽に駐屯し、劉備は樊に駐屯した。九月、劉jが降服、劉備は夏口に逃げた。曹操は江陵に進軍した。

とされること、

十二年,曹公北征烏丸,先主説表襲許,表不能用。曹公南征表,會表卒,子j代立,遣使請降。先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其衆去。過襄陽,諸葛亮説先主攻j,荊州可有。先主曰:“吾不忍也。”乃駐馬呼j,j懼不能起。j左右及荊州人多歸先主。比到當陽,衆十餘萬,輜重數千兩,日行十餘里,別遣關羽乘船數百艘,使會江陵。或謂先主曰:“宜速行保江陵,今雖擁大衆,被甲者少,若曹公兵至,何以拒之?”先主曰:“夫濟大事必以人為本,今人歸吾,吾何忍棄去!”曹公以江陵有軍實,恐先主據之,乃釋輜重,輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂。先主棄妻子,與諸葛亮﹑張飛﹑趙雲等數十騎走,曹公大獲其人衆輜重。先主斜趨漢津,適與羽船會,得濟沔,遇表長子江夏太守g衆萬餘人,與俱到夏口。先主遣諸葛亮自結於孫權,權遣周瑜﹑程普等水軍數萬,與先主并力,與曹公戰於赤壁,大破之,焚其舟船。先主與呉軍水陸並進,追到南郡,時又疾疫,北軍多死,曹公引歸。(『三国志』蜀書先主傳第二 建安十二年)
【要約】十二年、曹操が北の烏丸を征伐した。劉表が死んで息子の劉jが立ったが降服。劉備は樊に駐屯し、曹操が来たことを聞いて逃げた。(中略)劉備は孫権と結んで曹操と赤壁で戦って勝ち、曹操の舟を焚いた。呉軍と並んで南郡まで追ったが、曹操軍に死者が多くでたため曹操は引き上げた。

から、荊州で曹操は劉表、劉jを相手にしていたことになり、劉備は劉表の元から、劉表の死亡とともに樊へ移動しているので、劉jの降服以降、劉備を敗ることによって曹操は荊州を治めることができたと考えられます。この経過に、

荊州牧劉表死,魯肅乞奉命弔表二子,且以觀變。肅未到,而曹公已臨其境,表子j舉衆以降。劉備欲南濟江,肅與相見,因傳權旨,為陳成敗。備進住夏口,使諸葛亮詣權,權遣周瑜﹑程普等行。是時曹公新得表衆,形勢甚盛,諸議者皆望風畏懼,多勸權迎之。惟瑜﹑肅執拒之議,意與權同。瑜﹑普為左右督,各領萬人,與備俱進,遇於赤壁,大破曹公軍。公燒其餘船引退,士卒飢疫,死者大半。(『三国志』呉書呉主傳第二 建安十三年)
【要約】荊州の劉表が死んだので、魯肅が弔いがてら様子を見に行った。魯肅が到着する前に曹操が現れて劉jが降服した。劉備が孫権と手を組んで、孫権は周瑜と程普を将軍として派遣した。曹操を怖がって孫権に受け入れを勧める者が多かったが、周瑜と魯肅が反対し、孫権もそれに同意した。劉備とともに赤壁で曹操軍を大破。曹操軍は船を焼いて撤退、兵士には飢えた者や死者が多かった。

という、劉表の死によって呉の魯肅が荊州を窺いに行くという行為が含まれ、実質上の劉備・孫権同盟と、曹操との対立となって赤壁での戦いとなります。
 流れをまとめると、建安十二年から十三年の秋にかけて、曹操は荊州で劉表と対立していましたが、十三年八月に劉表が死亡したことによって、荊州で対立する相手が劉表の息子である劉jと、劉備に変わります。弔問を称して荊州の様子を伺いに行った魯肅とつながりをつけて、劉備は孫権と手を組み、孫権は劉備のために、あるいは劉備と連携して合肥、荊州へと軍を出したということになります。
 ここまでの経過は、『三国演義』では第40回「蔡夫人議獻荊州 諸葛亮火焼新野」、第41回「劉玄徳攜民渡江 趙子龍單騎救主」になります。



2、智謀争いとしての「赤壁の役」
 正史『三国志』では、以上の記載に、赤壁の役の顛末までが記されますが、『三国演義』では、赤壁の役を中心とする箇所は第42回から第50回までの9回になります。この9回中、諸葛亮が東南の風を吹かせ、周瑜と黄蓋が苦肉の策を弄し、曹操を追い払うという部分が京劇の演目「借東風」で知られる名場面であり、第49回に納められています。第46回では「用奇謀略孔明借箭 獻密計黄蓋受刑」に呉の將である周瑜との間に、掌に互いの計略を潜ませて見せ合うという場面

瑜邀孔明入帳共飲。瑜曰:“昨吾主遣使來催督進軍,瑜未有奇計,愿先生教我。”孔明曰:“亮乃碌碌庸才,安有妙計?”瑜曰:“某昨觀曹操水寨,极是嚴整有法,非等濶ツ攻。思得一計,不知可否。先生幸為我一決之。”孔明曰:“都督且休言。各自寫于手內,看同也不同。”瑜大喜,教取筆硯來,先自暗寫了,卻送与孔明;孔明亦暗寫了。兩個移近坐榻,各出掌中之字,互相觀看,皆大笑。原來周瑜掌中字,乃一“火”字;孔明掌中,亦一“火”字。瑜曰:“既我兩人所見相同,更無疑矣。幸勿漏泄。”孔明曰:“兩家公事,豈有漏泄之理。吾料曹操雖兩番經我這條計,然必不為備。今都督盡行之可也。”飲罷分散,諸將皆不知其事。(『三国演義』第46回)

があり、この部分が、「周瑜と孔明が晩酌し、どのような奇計があるかと互いに問いかける。互いに掌に字を書き、見せ合ったところ、どちらも「火」の一字であった。」という描写になっています。
 この描写が複線となって、第49回の「七星壇諸葛祭風 三江口周瑜縦火」と第50回の「諸葛亮智算華容 関雲長義釈曹操」へとつながり、自分の計略をことごとく見破る諸葛亮に対して、周瑜が嫉妬するという構成になってきます。
 実際の戦略として、この赤壁の役で火計が用いられたのは事実と見て間違いないでしょう。根拠は以下の通りです。

時劉備為曹公所破,欲引南渡江,與魯肅遇於當陽,遂共圖計,因進住夏口,遣諸葛亮詣權,權遂遣瑜及程普等與備并力逆曹公,遇於赤壁。時曹公軍衆已有疾病,初一交戰,公軍敗退,引次江北。瑜等在南岸。瑜部將黄蓋曰:“今寇衆我寡,難與持久。然觀操軍船艦首尾相接,可燒而走也。”乃取蒙衝鬪艦數十艘,實以薪草,膏油灌其中,裹以帷幕,上建牙旗,先書報曹公,欺以欲降。又豫備走舸,各繫大船後,因引次倶前。曹公軍吏士皆延頸觀望,指言蓋降。蓋放諸船,同時發火。時風盛猛,悉延燒岸上營落。頃之,煙炎張天,人馬燒溺死者甚衆,軍遂敗退,還保南郡。備與瑜等復共追。曹公留曹仁等守江陵城,徑自北歸。(『三国志呉書』周瑜傳)
【要約】劉備のために曹操を破るのに、孫権は周瑜と程普を派遣し、曹操とは赤壁で遇った。このとき曹操軍では疫病があり、一戦を交えて曹操が敗退て北に引き上げた。周瑜らは南岸にいた。周瑜の武将黄蓋が、曹操軍を焼いていくことを言い、黄蓋は投降するふりをして曹操軍に火をかけたので、人馬に焼死者や溺死者が甚だしく、曹操軍は撤退し、南郡に還った。劉備と周瑜らはこれを追いかけた。曹操は江陵に曹仁らを守りに留めて北に帰った。

江表傳曰:至戰日,蓋先取輕利艦十舫,載燥荻枯柴積其中,灌以魚膏,赤幔覆之,建旌旗龍幡於艦上。時東南風急,因以十艦最著前,中江舉帆,蓋舉火白諸校,使衆兵齊聲大叫曰:“降焉!”操軍人皆出營立觀。去北軍二里餘,同時發火,火烈風猛,往船如箭,飛埃絕爛,燒盡北船,延及岸邊營柴。瑜等率輕鋭尋繼其後,雷鼓大進,北軍大壞,曹公退走。(『三国志呉書』周瑜傳)
【要約】黄蓋は舟に枯れ草などを積んで、魚油を撒いた。東南の風が吹いたので投降するふりをして曹操軍に行き、火をかけ、あとから周瑜らが続いて攻撃したので曹操軍は敗走した。

建安中,隨周瑜拒曹公於赤壁,建策火攻,語在瑜傳。(『三国志呉書』黄蓋傳)
【要約】建安のうちに、周瑜に従って曹操を赤壁で拒むのに、火攻めを建した。

 上の正史と江表傳に、赤壁の役で孫権軍は黄蓋の提言を採用して東南の風を受け、曹操軍に火をかけたと記載されます。
 上記の記述中から明らかにわかるのは、火計を用いると明言しているのは、周瑜ではなく黄蓋だということです。

 また周瑜以外に、『三国演義』で赤壁で火計を提案している諸葛亮ですが、

權大ス,即遣周瑜・程普・魯肅等水軍三萬,隨亮詣先主,并力拒曹公。曹公敗於赤壁,引軍歸鄴。(『三国志』蜀書 諸葛亮傳第五)
【要約】孫権は周瑜・程普・魯肅ら水軍を派遣して諸葛亮に付け、曹操を拒んだ。曹操は赤壁で敗れて帰った。

とだけされていることから火計を明言したとはできず、これより、赤壁の役で火計を明確に提言しているのが黄蓋のみであるとできます。



3、戦略の決定要素
 水上戦での戦略がどのようなものであったかについて、明の劉基が『百戦奇略』の中に

凡與敵戰於江湖之間,必有舟楫,須居上風、上流。上風者順風,用火以焚之;上流者隨勢,使戰艦以衝之,則戰無不勝。法曰:「欲戰者,無迎水流。」(『百戰奇略』巻一 第七 舟戰)

として、江や湖で戦をするときに舟が必要であり、すべからく敵の上風をとり、上流に居ること。上風は順風であり、火をかけるのに用いる。上流にいれば勢いをつけることができるために、戦艦を衝突させれば、負けることがないとしています。『百戦奇略』の原文を続けると、

春秋,呉子伐楚。楚令尹卜戰,不吉。司馬子魚曰:「我得上流,何故不吉?」遂戰,已巨艦衝突;呉軍勢弱,遂至敗績。(『百戰奇略』巻一 第七 舟戰)

とされます。これは春秋時代の呉と楚の戦で楚軍が勝ったという記録ですが、『左傳』に同じ記事を見ると、

楚人及呉戰于長岸。(『左傳』昭公十七年經)
呉伐楚,陽為令尹,卜戰,不吉。司馬子魚曰:“我得上流,何故不吉?且楚故,司馬令龜,我請改卜。”令曰:“魴也以其屬死之,楚師繼之,尚大克之。”吉。戰于長岸,子魚先死,楚師繼之,大敗呉師。(『左傳』昭公十七年傳)

とあること、『百戦奇略』の「法曰」の「法」が『孫子』を指し、

欲戰者,無附于水而迎客,視生處高,無迎水流,此處水上之軍也。(『孫子』行軍篇第九)

とあることなどから、上流にいることが有利であることが春秋時代からすでに知られていることであったとわかるのです。
 つまり赤壁の役の計略は、『左傳』から得た知識の応用として、諸葛亮、周瑜以外にも『左傳』を知る人物であれば、上流につき、追風で敵を攻撃するということは考えられたはずでした。
 では『左傳』が後漢の時代にどれほど読まれていたのかという問題ですが、それに関しては、

孤少時歴詩、書、禮記、左傳、國語,惟不讀易。至統事以來,省三史、諸家兵書,自以為大有所益。如卿二人,意性朗悟,學必得之,寧當不為乎?宜急讀孫子、六韜、左傳、國語及三史。(『三国志呉書』呂蒙傳)

と、孫権が呂蒙・蒋欽のふたりに学問をさせる折、良書として薦めていることから、基礎的な教科書であったとわかります。
 次に火計についてですが、こちらも『孫子』に火攻篇という部分があり、また『百戦奇略』に応用がまとめられています。

孫子曰:凡火攻有五:一曰火人,二曰火積,三曰火輜,四曰火庫,五曰火隊。
【要約】火攻めには5種類ある。

行火必有因,煙火必素具。發火有時,起火有日。時者,天之燥也。日者,月在箕、壁、翼、軫也。凡此四宿者,風起之日也。
【要約】火を起こすには道具が必要である。気候が乾燥しているときがよく、箕宿、壁宿、翼宿、軫宿に月があるときがよい。
(箕・壁・翼・軫=東洋の黄道星座である二十四宿の四宿)

凡火攻,必因五火之變而應之。火發于内,則早應之于外。火發而其兵靜者,待而勿攻。極其火力,可從而從之,不可從而止。火可發于外,無待于内,以時發之。火發上風,無攻下風。晝風久,夜風止。凡軍必知有五火之變,以數守之。
【要約】火を使うには、内から火を出したらすぐに外へ出る。火が出ても冷静でいる軍には攻撃しない。火を止めてはならない。外側から火をかけることもできる。風上から火をかけたら風下を攻めない。風は夜には止む。

故以火佐攻者明,以水佐攻者強。水可以絶,不可以奪。
【要約】火攻めをするものは聡明であり、水攻めをするものは強い。
(『孫子』火攻篇第十二)

とされます。風上から火をかけたものは風下を攻撃しないとされるが、赤壁で呉軍は長江の南岸に布陣し、東南の風を待っているため、風上から風下へ火をかけ、攻撃していることになります。ところが後の部分で、「夜風止」とあるので、夜になると風が弱くなるとされており、火をつけた舟を焼き払って、夜のうちに総攻撃をかけるということは可能と考えることもできます。
 上記が『孫子』に見える火計の項目で、『百戦奇略』では

凡戰,若敵人居近草莽,營舍茅竹,積芻聚糧,天時燥旱,因風縱火以焚之,選精兵以擊之,其軍可破。法曰:“行火必有因。”
漢靈帝中平元年,皇甫嵩討黄巾,漢將朱儁与賊波才戰,敗,賊遂圍嵩于長社。賊依草結營,會大風。嵩敕軍束苣乘城,使倍卒間出圍外,縱火大呼,城上舉燎應之,嵩因鼓而奔其陣,賊惊亂奔走。會帝遣曹操將兵适至,合戰大破之,斬首數万級。(『百戦奇略』巻七 六十六 火戦)
【要約】草の多いところや、竹作りの陣には乾燥しているときに火をかけ、精鋭兵で攻撃すれば破ることができる。

となります。内容は『孫子』とほぼ同じものが簡略化されています。ここで例として挙げられているのが、皇甫嵩が黄巾討伐で火攻めを使ったという事象です。文中にもあるとおり、このときには既に曹操が軍を率いており、また孫堅が朱儁に従ってこの戦役に参加していたため、孫堅に従っていた黄蓋も、実際に見聞していたでしょうから、黄蓋が経験から火攻めを提案することに無理はないのです。

 『三国演義』第46回で掌に「火」と書く場面ですが、羅貫中もこの計略が基本的なものであるとわかっていたのでしょうか。
 『百戦奇略』は明中期ごろに刊行された物であり、元末明初の羅貫中によって書かれた『三国演義』よりも年代としては後の成立になります。しかし『百戦奇略』自体は劉基が全て調べた上でまとめた書物ではなく、北宋の時代に流布した武学の教科書である七書を手本として編纂されたものであるということで、羅貫中の時代には、『百戦奇略』の題材となっている武学書が流布していたと考えることが可能です。
 また、そもそもの記録が『左傳』に見られることから、儒教社会であった頃の中国の文化人が、これらの記述を知らないはずはなく、羅貫中も基礎知識として暗記していたという部分があるでしょう。
 また、同じく第46回で黄蓋が

卻説周瑜夜坐帳中,忽見黄蓋潛入中軍來見周瑜。瑜問曰:“公覆夜至,必有良謀見教?”蓋曰:“彼衆我寡,不宜久持,何不用火攻之?”瑜曰:“誰教公獻此計?”蓋曰:“某出自己意,非他人之所教也。”瑜曰:“吾正欲如此,故留蔡中、蔡和詐降之人,以通消息;但恨無一人為我行詐降計耳。”蓋曰:“某愿行此計。”瑜曰:“不受些苦,彼如何肯信?”蓋曰:“某受孫氏厚恩,雖肝腦涂地,亦無怨悔。”瑜拜而謝之曰:“君若肯行此苦肉計,則江東之万幸也。”蓋曰:“某死亦無怨。”遂謝而出。

と火計を献策していることは、すべて奇妙なことではなくなります。



4、短絡的な結論
 以上より、赤壁の役において、戦略の決定要素となったのは、
1、 水上戦であること
2、 『左傳』中の先例
3、 『孫子』の応用
であると見られます。
 これらに提示された条件のうち、上流にいることについては、曹操軍は北岸に布陣、周瑜らが南岸に布陣しているということから、どちらも真横に長江の流れをとらえるという同じ条件であったと考えることができ、したがって追い風であることが周瑜・劉備らに必要な条件でありました。つまり彼らは、勢いをつけて曹操軍に体当たりするために、追い風となる東南の風を待つ必要があったということになるのです。
 周瑜と諸葛亮は、どちらが優れた計略家であったということではなく、どちらも優等生であったといえましょう。
 もっとも周瑜が抜きん出た将軍であったことは

曹操密遣九江蔣幹往説周瑜。幹以才辨獨歩於江、淮之間,乃布衣葛巾,自託私行詣瑜。瑜出迎之,立謂幹曰:“子翼良苦,遠渉江湖,為曹氏作説客邪!”因延幹,與周觀營中,行視倉庫、軍資、器仗訖,還飲宴,示之侍者服飾珍玩之物。因謂幹曰:“丈夫處世,遇知己之主,外託君臣之義,内結骨肉之恩,言行計從,禍福共之,假使蘇、張更生,能移其意乎!”幹但笑,終無所言。還白操,稱瑜雅量高致,非言辭所能間也。(『資治通鑑』漢紀五十八 建安十四年)

として曹操が蒋幹に周瑜を誘わせていることに窺えますし、諸葛亮が人並み以上の政治手腕を発揮していたことは、劉備亡き後、蜀の政治を取り仕切り、諸葛亮の後に国を支えきれるだけの人物が居なかったことに窺えます。



資料
『後漢書』
『三国志』陳壽、裴松之注
『三国演義』羅貫中
『資治通鑑』司馬光
『左傳』左丘明
『孫子』
『百戦奇略』劉基
『三国演義的政治與謀略観』毛宗崗 考古事業文化公司
『中国歴史年代簡表』文物出版社

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