太陽の道
人質の子だと蔑まれて育ってきた。
自分のことを哀れむ者などいなかった。
たとえ口々に、太可憐(かわいそうに)と言おうとも、本気で自分のことをかわいそうだなどと思うものはいなかった。
その程度のことはわかっている。
だからこそ、他人のことなど信じられない。
少年は手に取った胡蝶を握りつぶす。
ばらばらになった羽根が落ちる。
「かわいそうなことを」
そう言われて少年が振り返ると、男がこちらを見ていた。
少年が誰よりも信頼し、誰よりも嫌悪する男。
「呂不韋」
名前を呼ばれて男はにこりと微笑した。
その微笑を見ずに、少年は踵を返した。
少年が立っていた場所には、胡蝶の羽根が散らばっていた。
呂不韋は潰れた胡蝶の羽根を拾って手のひらに乗せた。
「誰のせいだ」
呂不韋の自問自答だった。
少年は回廊を走る。
自分のことを、母と呂不韋の子供だと言う輩がいる。
どれほど隠しても、聞こえてくる。
母は呂不韋の舞姫だった。
父は呂不韋をそばに置く条件として、母を妾にした。
少年は足を止め、胡蝶を潰した場所まで戻った。
散らばった胡蝶の残骸はきれいに片付けられていた。
柔らかい肌は若い頃よりも張りを失っているが、それでも文句のない女だ。
唇を重ね、肌を合わせる。
この女を手にしている間、自分の手の中には栄光がある。
たとえ他人からどのように蔑まれようと、この栄光が自分の手の内にある間は、誰も自分には敵わない。
地位、権力、財、名声…
どのようなものでも思いのままになる。
この女さえ放さなければ、自分は王と同じだけのことができるのだ。
手を放すものか。
放せるものか。
ありとあらゆるものを、この手に入れるのだ。
女をむさぼりながら、男は虚ろで暗い目をした。
男は暖かい日向を選んで回廊を歩いた。
柔らかい陽射しが男に降り注ぐ。
いつものように租庸調として徴収した倉の中を点検しながら、黒い影が足元をいきなり走り去ったことに驚いた。
ねずみか
男は、一度は安堵したものの、それからふと倉の中を見回した。
倉の中は米が積んである。
なるほど、米倉のねずみは食べるに困らないわけか
この戦国の世の中、食客というものは論説をして諸国を回り、そうして大夫や大臣に取り入って生きている。
まじめに端役人として働くよりも、論客のほうがよいかもしれない
男は冠を捨てて筆をとった。
少年はいつしか大人になる。
王という名を冠するものの虚無。
誰からも、王とは遊んで暮らせるものだと思われている。
そうして、誰の前でも、王侯貴族とは遊び暮らせるものだと思われていなければならない。誰からも、王は虚無の上にあるものだと悟られてはならないのだ。
昼間は狩りに行き、夜は宴会を催し、それから全ての書簡に目を通す。
寝る暇などありはしない。
この男のように、誰も信頼しない王には暇などない。
ため息がこぼれる。
明かりを灯して回廊を歩く。
幼い頃、星も見えない夜は、母が隣にいた。
父という、趙国の人質の子供であった頃と、今、自分が王になってからと、どちらが孤独だと、自問自答する。
人質の子供と蔑まれても、かつて自分には父と母がいた。
今は王と呼ばれて人臣を足元に見ながら、父と母はいない。
どちらが幸せだと、もう一度自問自答する。
見慣れない子供が庭を走っている。
侍女か下働きの者の子供だろうかと考える。
考える時間というものが、一番幸せな時間ではないだろうか。
何かを考えている間、それ以外の何を考えることもない。有象無象に心を散らす必要もない。
馬を走らせる。
「呂不韋」
呂不韋が馬を並べる。
「おまえも聞いたことがあるだろう」
何も前置きのない質問に、呂不韋が顔をしかめる。
王と呼ばれる男は、呂不韋の前に馬を出して止め、呂不韋も馬を止めた。
「私がおまえの子供だと疑う者がいる」
王の静かな表情が、呂不韋に視線を注ぎ、呂不韋が首を振った。
「あなたが私の子供であるはずはない」
呂不韋の答えに、王と呼ばれる男は馬首を返した。
鳥が鳴く。
空の下、人は小さい。
他人よりは日のあたる場所を、男は歩いてきたはずだった。
しかし男は王になるわけではなかった。
庶子として、王になる兄弟、或いは叔父・甥に仕えることになる身分。
王族としてはあまり優遇されてこなかったような気もする。
どもり癖のある舌がまどろっこしいが、それを補って余りある知識が男を引き立てる。
男は筆をとった。
王とは、こうあらねばならない
どもりながらも熱っぽく語られる男の言葉を、隣でもうひとりの男が微笑しながら聞いていた。
あの王がいなければ、この女との間にできた子供を王として祭上げ、自分が執政をすることができる。呂不韋を追い落とし、この国を自分の物にするのだ。
自分を蔑んできた人間を全て、この足元にひざまずかせるのだ。
「あの王を、どうやったら殺すことができる?」
男の問に、女が答える。
「成人式にかこつけて殺せばいい。私が成人式をするのだと言えば、王は逆らえない。なにしろ私は、王の母なのだから」
成人式などと母に言われるまで、男は自分が成人式をしてもよい年齢になるのだということを忘れていた。
鬱陶しい儀式などする必要もなければ、鬱陶しい儀式をしている暇もない。
だが母の言いつけであれば、それを拒むわけにもいかない。
母君様の横の兵が集められていると聞きます、お気をつけあそばされますよう
剣を腰から外し、男は母の元へ顔を出した。
少し目を上げる。
回廊から兵士がなだれ込んでくる。
男は平然と母を見つめた。
あなたが私を殺そうとするのか
母の横に、いつか見た子供が寄り添う。
子供の口が小さく、自分の母を、母上と呼ぶ。
父は既に他界している。小さな子供が母と父の間にいるはずがない。不義の子供を、この国の王に据えるつもりかと、憤りが胸を締め付けた。
それだけではない、自分は春秋時代の、鄭の莊公と同じ立場に立たされたのだ。鄭の莊公は弟と戦い、勝って地位を守った。その場で母を殺すことはできなかったが、しかし鄭の莊公と自分の立場は少し違っていた。鄭の莊公の弟は父母を同じくする兄弟だったが、目の前にいる弟は、王の血をひいてはいない。不義の子供だ。母をこのままにしておいたならば、別の男と遊び、そうしてまた不義の子を王にしようとするのだろう。
「護衛を」
静かに告げられた王の声が、宮殿内の兵士を集める。
金属のぶつかる音。
悲鳴。
男は静かに母を見つめた。
それから、母の横にいる子供に目を落とす。
子供は母の着物を握り締めてしゃくりあげるように泣く。
十数年前、そうやって母にかばわれていたのは自分だった。その母が、今は自分を殺そうとするのだ。
男の胸中を締め付けるような苦しさが襲う。
「母上、それが、私の弟ですか」
男の口から小さくこぼれた言葉に、母の表情が多少安堵する。
この母も畢竟、人の子。腹を痛めた子供を愛しいと思うのは当たり前だ。それでも、自分は捨てられたのだという思いに男は心中で涙を落とした。
他人など信じられるものではない、信じてよいのは自分だけだ、自分を捨てずにいるのは自分だけだ
目の前が暗くなる。
衛士が駆け寄り、母であった女を捕える。
「どうなさいますか」
衛士の言葉に、男は冷たい目を女に向けた。
「幽閉に」
女が驚愕したような目を男に向けた。
「私はおまえの母です、それを幽閉など!」
「母でなどあるものか!我が子を殺すのが母か!」
男が怒鳴ると、女は幼い子供を自分の着物の袖で覆って庇う。
「おまえは母と弟を殺すのですね」
女の言葉は、男の神経を逆撫でした。
自分を殺そうとした女は、私は自分の母であると言い、不義の子を自分の弟であると言って庇うのだ。
「母などいない。私にいるのは父だけだ。不義姦通の罪人が母を気取るか、不義姦淫の子を我が弟であると言って世に曝すのか」
ふんと女が口角を上げる。
「おまえの父が何です」
ぞっとするような暗い表情で男は笑った。
「私の父は、先の秦王ただ一人。私にふたりの父はいない。不義を犯すような女は母ではなく、宦官もどきの父を持つ子供など、私の弟ではない」
そう言って衛士に目配せをし、男は声を上げた。
「女を幽閉せよ、子供は叩き殺せ!」
男の言葉が途切れた瞬間、女が崩れ落ちるように床に泣き伏した。
母を殺すのですか
例え何を言われようと、今ここで殺さなければ、母はまた自分を殺そうとするのだろうという思いが男にはある。そして自分は捨てられたのだという思いも同時に男に歯軋りをさせた。
この王は、曲がったことが嫌いなのだろうか
男は首をひねった。
米倉のねずみを見て冠を捨てた男は、いちど論客のようになり、それから今は秦王の傍らにいた。
客卿という身分である以上、男は秦の正式な大夫ではない。
ところが、客卿制度を廃止すべきと断固として王に告げたのはこの男だった。
一度は王も頷いた。だが王は、男が客卿であることを思い出したのか、あるいは別の客卿を残したかったのか、客卿がすべていなくなるのでは困ると言い、客卿制度はなくなることがなかった。
友人からこの王の話しを聞いた男は、ほうと一つ、ため息をついた。
王とはかくあるべきであり、かくあらねばならない。
厳罰を与えるのに、躊躇があってはならない、侮られてはならない。そう男は信じていた。純粋なほどに。
久々に会った友人は、その王に仕えている。
酒が回り、ふたりは普段よりも饒舌に話しを交わした。
「古今のだな、その、公や王たちの例を挙げてみた」
男が言って友人にまとめた書簡を渡す。
木簡をからりと音を立てて広げ、友人は嘆息した。
「これは、古今の春秋を全て拾い集めたのか。面白い。さすがに帝王学を学んだ人間は歴史というものの捉えかたが私とは違うらしい」
にこりと笑う友人に、男も微笑した。
書簡を閉じてから友人が男に酒を勧める。
「韓に飽きたら秦へ来い。王はまだ若いが、おまえと気が合うに決まっている」
友人に言われ、男はまた微笑した。
「ならばだな、渡したその書簡、もう一つあるから持っていって王に見せてみたらよい。それで、王が会いたいと言うならば、行ってもいいかな」
男の言い方に、友人は困ったように笑った。
どうも王族の人間は、回りくどいのも好きらしい、と。
あれはいつのことだっただろうか。
友人は男を王に紹介し、男は王と、その息子の教師として秦へ赴いた。
男は今、牢獄にいる。
自分を王に紹介した友人は、牢獄にいる自分に面会に来ている。
この友人が、自分を牢獄へと追いやったのだ。
男は苦笑した。
友人が申し訳なさそうに男を眺める。
「なにも、そのような顔をする必要も、またなかろうに」
そう男が言うと、友人は頭をたれて嘆息した。
「あの王が、他人を信じていないのはわかっている」
男の言葉に友人は寂しげな微笑を浮かべてから、そうだな、と男に向かって言った。
「おまえは知っていたに違いない。私はこれから先、あの人間不信の王を補佐する」
友人の声は静かで、男は少し安堵した。この友人が小人であることには違いないが、自分も大きな人間ではない。
王であった青年は、今や九州をその手に収めた。
覇業は完成したのだ。
それが何を意味するか、わからない男ではない。今までに男がまとめ上げた男たちの人生は、いつの時代も、王や公が苦労したときの臣下は労苦が報われないのだ。それが股肱の臣であればなおさらだ。一旦、覇業が成れば、王は横で策を弄した人間を厭う。いつか自分がその臣に地位を奪われるのではないかと案ずるからだ。
「牢獄などに入れてすまん」
平身低頭の友人に、男は笑った。
「とんでもない、干戈を持って追い回されるよりは快適。気遣ってくれたのだろう」
男はからからと笑った。
自分は今までに、男とその長男に、王とは如何様にあるべきか、いかにして臣下を承服させるかを教えてきた。人を信じることのない男が師となった男を生かしておくとは思えなかった。
「酒がふたつある」
友人が沈んだ声で放った言葉に、男は耳をそばだて、それから言葉を継いだ。
「ふむ、ひとつには酒、それと、もう片方には毒か」
友人は無言でふたつの酒壺を男の前に置いた。
くんと鼻を動かしてから、男は小さく頷いた。
「これをもらう」
片方の酒壺を手にとって、男は頷いた。
口に運び、それから一気に呷る。
友人が目を伏せた。
男の目の前は暗くなった。
目の前で友人が倒れた。
自分が用意したふたつの酒壺には、どちらにも毒が入っていた。
この聡明な友人は、どちらも毒であると知って、それでいて気付かないふりをしていたに違いない。彼はそういう男なのだ。
目を伏せて嘆息してから、男は目を開いて友人を見た。
うつぶせになった友人がいる。
友人の手から落ちた酒壺から、毒の混ざった酒がこぼれているのを眺め、それから男はもうひとつの酒壺を手にとって逆さにし、毒入りの酒をすべてこぼした。
「公子らしい立派な死に方をしたいと望んでいたな」
友人に小さく声をかけるが、すでに彼に息はない。
すくと立ち上がって、男は怒鳴るように声を上げた。
「誰か!太子太傅の自害だ、亡骸を牢から出せ!」
男は友人の亡骸に、そっと手をかけてから小さく、すまん、とつぶやいた。
男は名を李斯といった。
西暦紀元前221年、庚辰
秦王嬴政、齊を滅ぼし、天下を統一。
中国史上初めて皇帝を称し、始皇帝と呼ばれるようになった。
その宰相となった李斯は度量衡統一、文字統一事業など、皇帝を補佐した。
この年を以て、紀元前中国に長く続いた春秋戦国時代に終止符が打たれたのである。
太子太傅であった男の死。
この男の死は男を嫉んだ友人、李斯が追い詰めたのだとも毒殺したのだとも言われる。
男の名を韓非、韓非子と言った。
古今の帝王学としてマキャベリと比肩するこの書の名もまた韓非子と呼ばれる。
太陽は今でも、同じように同じ道を照らしている。
その同じ道を、今でも人は歩いてゆく。
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