桃の夭たり

 桃の花が咲き乱れる。
 陳羣はその中をそぞろ歩く。
 艶やかな紅色の花びらが風に舞い散る。
 美しいものだと思い、それから、曹孟徳という人であれば、これをどのように詠じるだろうかと考える。
 春の陽射しの中を歩く陳羣の傍らを、我の子房なりと曹操に言わしめた男・荀ケが歩いている。
「陳長文」
 ふいに荀ケに声をかけられて、陳羣ははっとした。
 これまでの話しを聞いていなかった。
 艶やかな桃の幾百の花に気もそぞろと言わんばかりの陳羣の様子を見て、これは話しを聞いていなかったかと荀ケは苦笑した。
「春の花は艶やかですね」
 陳羣の一言は思いついただけの言葉のようにも聞こえる。
 ただその言葉に、陳羣は続きになる言葉をぽつりとこぼした。
「艶やかに咲いて、そうして儚げに散るのが春の花なのでしょう」
 つぶやいて微笑する陳羣に、荀ケは桃の木のあたりを指差す。
「少し話しをしようか」
 頷いた陳羣はゆっくりとした歩みを止めず、ただ荀ケに示された方へと足を向けた。
 桃園にはゆっくりとした時間が流れていた。
「お疲れになりましたか」
 自分よりもいくらか若い陳羣にそう気を使われて、荀ケはもういちど苦笑して見せる。
「疲れたの疲れないのと、そういうことではないがね、ゆっくりと桃の花を眺めるのも春の興だろう」
 春の興、と陳羣は繰り返し、なるほどと頷いた。
 それから、その言葉は荀ケよりも曹操が言いそうなことだと思った。
 ふたりが歩く間にも、桃の花びらが風に舞う。
 桃の木の傍らには牀榻が置いてあった。
 陳羣は微笑した。
「桃を愛でるのに酒の相手が私とは、荀大人は不思議なことをお考えです。酒の相手であれば、私よりも郭先生のほうが適当であったでしょうに」
 陳羣の言葉に笑いながら、荀ケは桃を見上げた。
「桃の花と言って、思い出すものはあるかね」
 荀ケの質問に、陳羣は怪訝な顔を見せる。
 桃と言われたところで、あまり良い故事を思い出さない。
「桃園は人を惑わせる」
 真面目な顔で言う陳羣に、荀ケは微笑して答えを言う。
「桃の夭夭たり、灼灼たる其の華」
 思いがけない答えに、陳羣はきょとんとした。
「桃夭篇ですか。確かにこのような桃園には相応しい。しかしそれを言うのは郭奉孝だけかと思っておりました」
 桃夭篇の桃は女ざかりの娘の隠語でもある。
 今までの荀ケの人物像とは多少異なる答えに、陳羣は内心で首を傾げた。桃園で酒を飲むのに女を持ち出すとは、荀ケらしいというよりも、曹操と郭嘉の宴会のように思えてならないのだ。
 荀ケは、ははと笑って桃園のほうに向かって手招きをする。荀ケの笑顔の向こうには、愛らしい娘が酒の用意をして待っていた。
 今度こそ開いた口のふさがらない陳羣に、荀ケが得たりと悪戯げに笑う。
「桃の夭夭たり、と」
 すくと後ろへ下がって立ち上がって娘に挨拶をしたものの、陳羣は上目遣いに荀ケのほうを眺める。
「私は、大事なお話があると言われてここへ連れてこられたはずでしたが」
 恨めしげな陳羣に構わず、娘は荀ケと陳羣の前に酒杯を差し出す。
「あ、かたじけない」
 陳羣に受取られた杯に、娘が酒を注ぐ。
「あまり酒は過ごさない性質ですので」
 声をかけられた娘が、陳羣に言われるままに、半分ほど酒の入った器を陳羣の前に置く。
 荀ケがその陳羣を眺め、それから娘のほうへと目をやる。
 娘は陳羣の横顔を眺めて、ほ、とため息をつく。
 色の白い、所作のきれいな娘に酒を注いでもらえれば、陳羣もまんざらではない。
 にこりと微笑して陳羣は娘に声をかける。
「ありがとうございます」
 声をかけられて恥らうような娘を少し眺めてから、陳羣は荀ケのほうへと向き直った。
「桃の夭夭たる、灼灼たり其の華、ですか。将に桃の夭夭たり、と、奉孝であれば言うのでしょうな」
 嫌がるようでもない陳羣に、荀ケはほっとしたように酒杯を掲げる。
「桃の夭夭たり、灼灼たる其の華」
 笑いながら言い、それから荀ケは娘を見て自分の隣の席を軽く叩く。
 娘が微笑して荀ケの隣に腰を下ろす。
 荀ケの言わんとする意味がつかめず、陳羣はただ、荀ケと娘を交互に見比べた。
「桃夭篇の続きを知っているかね」
 荀ケに聞かれて陳羣が「はい」と返事をする。
「之子于歸、其宜室家、でございましたね」
 荀ケが頷いて陳羣を見てから娘を横目で見る。それから陳羣はにわかに慌てた。
「まさか、荀大人のご息女ですか」
 目を丸くして荀ケと自分を見比べる陳羣の様子に、娘がにこにこと笑っている。
「桃の夭夭たり、灼灼たる其の華。この子ここに歸がば、其れ室家に宜しからん。私にとっては大切な話なのだが」
 豪快に笑う荀ケの様子に、陳羣は鼻頭を掻いた。
 話の内容としては大事は大事だが、いきなり縁談を持ち出されるとは想像だにしていなかった陳羣である。大事すぎて心の準備というものもできていない。
 その一方で荀ケと娘は、すでにこれと決めているようでもある。
「異存はなかろう」
 父親に聞かれれば、娘は満面の笑顔で頷く。



 鼻歌を歌いながら仕事場に来て、郭嘉はぎょっとした。
 態度に驚いた様子がなくとも、少なからず彼はぎょっとしている。
 ふむと唸っては額から編みこみにして整えた前髪をいじってため息をつく陳羣の様子は異常としか思えない。
 普段ならば、机上に置かれた書簡を几帳面に丁寧に整理している陳羣が、なにか仕事以外のことを考えているのだ。
 陳羣の座っている席の目の前に行って正座し、郭嘉は陳羣に手を振った。
 目の前で手を振られた陳羣は、これも驚いているようには見えないが、しかしかなり動揺している。
 普段こんなことをする郭嘉は「バカ」と言われて陳羣にあしらわれるのだが、こと今日に限って陳羣は笑った。
 引きつった表情で笑う陳羣に、郭嘉は怪訝そうに目を向けた。
「おまえ、熱でもあるんじゃないのか?」
 郭嘉に言われて陳羣はけっと目を他所に向けた。
「熱があるものか。女のことを考えていただけだ」
 陳羣が吐き出した一言に、郭嘉は仰け反った。
「それはおまえ、具合が悪いどころか男としては正常な話だ」
 だからこそ、郭嘉は仰け反ったのだ。
 まるで聖人君子然として、言うことは理路整然、行いは上に立つもの誰もが感嘆する優等生の陳羣が、女のことを考えているという。
「どんな女だ。いい女か?おまえに貢がせるような女ではないだろうな。貢がせる女はやめておけ。おまえが溺れる女も、おまえに溺れるような女もダメだ。いい具合に話しを合わせてくる程度の女にしておけよ。妖婦ってのは一番性質が悪い」
 小声で説教してくる郭嘉に陳羣はにやりと笑った。
「御説教はありがたいが、言われたところで俺には逃げ場がない」
 陳羣に返されて、郭嘉はあんぐりと口を開けた。
「だからおまえ、女遊びのひとつぐらいはしておけばよかったのだ。女一人あしらえずに何ができる」
 ははっと笑う陳羣に郭嘉があきれる。
「釣りやすい男だとでも思われたんじゃなかろうな」
「ご心配には及ばん。曰く桃の夭夭たる、灼灼たり其の華、という女だ」
 苦笑して言う陳羣に、郭嘉はにやりと笑って机上に乗り出した。
「桃の夭夭たるか。色白の娘か?」
 郭嘉の質問に陳羣が頷く。
「灼灼たり其の華か。さぞかし艶やかな娘なのだろうな?」
 陳羣が、これにも頷く。
 郭嘉が感嘆した。
「なんだ。聞くほどにいい女じゃないか。それでおまえ、何をため息つくことがある?」
 郭嘉の感嘆に、陳羣が考えくたびれたように頬杖を付いた。
「先方は俺を婿にすることに決まっているらしい。俺はこれをどう実家に伝えたものかと迷っている」
 陳羣の悩みに郭嘉の答えは明快だった。
「それはおまえ、挙式して既成事実を作ってから報告したらいいじゃないか」
「それができるような相手じゃないもんでな」
 陳羣に言われて郭嘉が首をかしげる。
「荀家の娘だ」
 郭嘉が引きつった。
「荀家とは、文若大人の娘か?公達大人の娘か?」
「文若大人」
 脚を崩していた郭嘉がおもむろに正座しなおして陳羣の肩を叩いた。
「あまり深く考えるな。文若大人の娘だからといって礼に則らねばならんわけでもないだろうが」
 陳羣が引きつったように笑った。
「本当にそう思うか?」
 郭嘉がふうとため息をついて考え込むような仕種をする。
「そうとは思えん。きっときっちりと士婚礼をやらされるぞ」
 ぷっと陳羣が吹き出す。
「士婚礼か。それでは俺はきっちりと問答を覚えなければならんな。ええと、某は貴家のお嬢様をいただきに参りました、だっけか?」
 陳羣が真面目な顔で言うと、今度は郭嘉が吹き出した。
 ふたりでけらけらと笑っているところで、官吏がひとこと声をかけた。
「陳大人、荀文若大人がおいでです。昨日のお話でご返答をお聞きしたいとおっしゃっておいでですが」
 ふたりの笑いがさっと引いた。
「まだ返事をしていなかったのか?」
 郭嘉に聞かれて陳羣が頭を掻きながら「うむ」と返事をした。
「これは、断ったら天罰が下るぞ。春秋の昔から荀姓と言ったら強かなところからアホウまでそろっているところだからな。まあ、あの人は知伯よりは荀林父のほうが近いんだろうが」
 郭嘉に言われるまでもなく、と陳羣は苦笑した。
「ありがたく、お受けいたしますと返事をしてくるよ」
 陳羣の背中を見ながら、郭嘉は首をすくめた。
 まったく、品行不良の郭嘉にとってはありがたくない舅と婿の一対であった。



 桃之夭夭,灼灼其華。之子于歸,宜其室家。
(桃の夭夭たり、灼灼たる其の華。この子歸がば、其の室家に宜しからん。
 娘は艶やかに育ち、今は女ざかりの頃。この子があなたのところへ嫁げば、あなたの家に幸福が訪れることでしょう)
 春の庭には、桃の花が艶やかに咲き誇っている。

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