月明かりと、風に揺れる木の葉の音。
 ひらりひらりと衣を舞わせる。
 詞を口ずさむ。
 愛しい人と二人くちずさんだ詞。

 満目江山憶旧游
 汀洲花草弄春柔…

 もう二度と、会うことのないあなた、この詞を覚えていらっしゃいますか?
 私は、ここで、あなたを見つめることにします。
 愛しい、あなた



 月夜の晩にこうして散歩をすると、ときおり詞を口ずさむ女の声が聞こえる。
 陸仁は柏の木の下に、ふわりふわりと舞う薄い紗の領布を見つけた。
 薄い若草色の、長い領布の向こうには色の白いきれいな女が月を眺めるようにして髪をなびかせ、風の中に立っている。
 くるくると領布を舞わせながら踊るように足を動かす女の頬を、光の粒が零れ落ちる。
 朝になって陸仁は夕べのことは夢であったのだと自分に言い聞かせた。
 美しい女であったと、陸仁は夢の中の女の容貌を反芻して微笑んだ。
 寺住まいで、毎朝粥だけという生活にも慣れ、陸仁は椀を置いて箸をその上にそろえた。
「施主殿は、今日はまた街をふらつくのですか」
 まだ幼さを残した僧に聞かれて陸仁は苦笑した。
「書をあさりにゆくよ」
 また書ですかとあきれて僧は陸仁を送り出す。
 この雍煕寺は、蘇州のなかでもそれなりに大きな寺である。
 すでに齢数百年にもなる柏が枝を広げて門の脇に堂々とそびえている。
 才子佳人が戯れる水の都を、付近から来た生員や監生が挙人を目指してせわしなく歩き回っている。
 今年もこの中から状元、榜眼が出るのだろうかと陸仁は周りを歩く科挙の受験生を眺める。まだ二十歳になったばかりかと思うような若い男もいれば、反対側をゆく生員は七十歳を越したのではないかと陸仁は口をぽかんと開けてしまった。
 水路に降りて舟遊びをしようと思いついて、陸仁は適当な橋のたもとを降りていった。
 船から下りてきた男たちの中にも科挙の受験生は多い。
 監生貢人、生員にと陸仁は下りてくる男たちを眺めながら想像を巡らせる。
 男たちの様子もさまざまで、明らかにお坊ちゃんとわかるような青年から、蛍の光窓の雪という言葉がよく似合う苦学生のような青年、苦節何十年というような老人もえいやと荷物を担いで船から下りてくる。
 わっという声に、とっさに陸仁は船着場でこけそうになった男を支えてくすと笑った。
 科挙を受ける前からこれでは先が思いやられるなと思って陸仁は男のほうを見た。
 陸仁に抱えられた男はありがとうと言って袖をはたいてから落とした行李を抱えなおした。
 まだ三十五にはなっていないだろうと陸仁は見当をつけた。
「どうもありがとう。こんなところでこけたら皆に笑われてしまう」
 苦笑しながら言う男に、陸仁はははと笑った。
「気をつけて」
 陸仁の言葉にありがとうと返して男は石の階段を上がってゆく。
 男のほうは、陸仁を見やって笑っている船頭に、あれは誰ですと尋ねている。
 尋ねられて船頭は、ありゃ雍煕寺の陸仁先生だと苦笑しながら言い返した。どちらかといえば玄妙観の道士のほうが似合っているのじゃなかろうかとも思うがねと言う船頭に、そりゃ確かだと笑って男は階段を駆け上がった。
 夜中になって、陸仁はまた柏の木の下を女が舞っているのを見つけた。
 またこの女かと陸仁は首を振った。
 陸仁のことなどまったく意に介していない様子の女は、いつもと同じ詞を口ずさんでいる。

 満目江山憶旧游、
 汀洲花草弄春柔、
 長亭艤住木蘭舟。
 好夢易随流水去、
 芳心空逐暁雲愁、
 行人莫上望京楼。

 陸仁は口内で幾度かその詞を繰り返してくすくすと笑った。
 なかなかによい詞だ
 ふいと思いついて部屋に戻り、陸仁は筆に墨を馴染ませて自分の扇を裏返した。
「満目江山憶旧游、汀洲花草、弄、春、柔、と」
 流麗な字で扇の裏に書きとめ、陸仁は満足して扇を乾かした。
 翌日になってまたふらりと出かけ、子供相手に対を教えている男を見つけて陸仁は横に足を伸ばす。
「おやまあ、昨日船着場で会ったお人か。なんです、こんなところで子供に講義ですか」
 くすくすと笑う陸仁に、男はははと照れくさそうに笑って頭を掻いた。
「昨日はありがとうございました、私は名を岩卿と言います」
 拱手する岩卿に、私はと言いかけて陸仁は言葉をさえぎられた。
「存じております、陸仁先生」
 男の言葉に、陸仁はははと笑った。
「それほど有名だとも思ってはおりませんでしたが」
 その実と男が首を振って陸仁に耳打をする。
「本当は昨日船着場で船頭に聞いたのですよ」
 なるほどと扇をぱんと開いて陸仁はうなずいた。
 しばらく並んで街を巡り、陸仁と岩卿は酒楼の門をくぐった。
 二階の窓際に陣取って河を眺め、岩卿は舟が下を通りすぎるのを眺めていた。
 陸仁の方は夜扇に書きつけた詞を指でなぞりながら見つめる。

 満目江山、憶旧游、
 汀洲、花草、弄春柔、

 岩卿がふいに小声で口ずさんだ詞を聞きとめ、陸仁は自分の扇を慌てて見た。
 同じ句が並んでいる。
「今の詞は」
 陸仁に聞かれて岩卿は苦笑しながら首を振った。
「お聞かせするほどのものでもない」
 岩卿に言われてから少し黙っていた陸仁だったが、それから扇を開きなおして流行り歌なのだろうかとつぶやいた。今度は岩卿がそれを聞きとがめる。
「なんです?」
 岩卿の不思議そうな声に、陸仁は扇を眺めながら詞を口ずさむ。

 満目江山憶旧游、
 汀洲花草弄春柔、
 長亭艤住木蘭舟。

 陸仁が小さく口ずさむ詞を聞いて岩卿は蒼白になった。
 ばかなとつぶやく岩卿に、陸仁は慌てて大丈夫かと声をかけたが、岩卿の方は首を振っている。
「なぜ、ご存知なのです」
 やっとのことで絞りだすようにして出された岩卿の言葉に、陸仁は顔をしかめた。
「なぜと言われて…よい詞だと思ったから書きとめたのですよ、ほら」
 陸仁に広げた扇を見せられて岩卿は今度こそああと声を上げた。
「本当に、一字一句、間違いはない」
 つぶやく岩卿を陸仁は怪訝な顔で見やり、大丈夫ですかともう一度声をかけた。
 岩卿はやりきれないとでもいうような表情でうつむいて、扇を手にとって握り締めている。扇の上に落ちた水滴に、陸仁は今度こそ呆然としてしまった。
「申し訳ない、人前で泣くなどどうかしていると思われるでしょうが、この詞は、私が妻に送ったもので、妻以外の人間には草稿を見せたこともないのですよ」
 岩卿の言葉に、陸仁は呆けてしまった。
 それで奥方はと岩卿をのぞきこんだ陸仁に、岩卿は首を振った。
「会えないのです」
 つらそうに微笑む岩卿に、陸仁はそうですかとゆっくりうなずいてから河のほうを見下ろした。
「死んだのですよ」
 ゆっくりと継がれた岩卿の言葉に陸仁は一度持ち上げた杯を机に戻して岩卿を眺めた。
 それでは、この詞はこの夫婦だけの思いでであったのだ
 陸仁はどこか空虚なものを感じながら、岩卿の手に握られた自分の奥義を見つめる。
「それは、さし上げます。奥方と岩卿兄の思いでであるなら、それはあなたが持っているべきなのです」
 陸仁の言葉に岩卿は小さくため息をついてからありがとうございますとつぶやいた。
「雍煕寺には、満月の夜に女が来るのですよ」
 陸仁の唐突な言葉に岩卿は陸仁を眺める。
「その女が、いや、きれいな女なのですがね、私が気にかけていることなど考えもせずに柏の木の下で領布をひらひらと舞わせながらこの詞を口ずさんでいるのです」
 陸仁の話に、岩卿は目をゆっくりと見開いた。
「それは、もしそれが本当であれば、この詞を口ずさむのであれば、それは私の妻です、雍煕寺は妻の棺を収めた寺ですし」
 岩卿の言葉に陸仁がさびしげな微笑を浮かべた。
 夫のことが、忘れられないのだろうかと陸仁は雍煕寺で見る女を思い出した。
 今思えば、夜中に雍煕寺などというところでひとりで詞を口ずさむ女など正気の人間ではないのではないかとも思える。
 月夜の晩になって、岩卿は雍煕寺を尋ねて柏の下へと足を向けた。
 領布が舞う。
「老婆(妻)よ」
 岩卿の言葉にゆっくりと女が振り向く。
 相公
 女の口から言葉が継がれた。

 この後、この夫婦がどうなったかを陸仁は知らない。
 知ろうとも思わなかった。
 陸仁はただ、岩卿が陸仁の机の上に残していった扇を手に取り、雍煕寺の僧侶に聞いた岩卿の妻の墓の前で燃やしていた。
 陸仁の着物から、紙銭が風に乗って蒼天へと広がってゆく。
 憶旧游、と陸仁がつぶやいた言葉だけが紙銭とともに風に乗った。

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