星が天上にきらめく。
 真っ暗な大空。
 冬は寒い。
 吐いた息が白く濁る。
 どこまで続くのか、この空は真っ暗なはずなのにどこかに明かりがある。
 深い色は延々と続いているというのに、果てが見えない。
 城の墻壁に座り込んでからどれほどの時間が過ぎたのか見当がつかない。
 目を閉じると冷たい風が心地よい。

「風邪をお召しになられる」
 狐突が言う。
 申生は振り返りもせずに「ああ」とだけ返事を返した。
 このままの時間が続いてくれればよい
 それだけを申生は願うというのに時間は過ぎ去る。
「冤罪であると、父上に釈明もなさらぬ」
 狐突がまた言葉を紡ぐ。
 言葉は何もない空中に浮かんで消えてゆく。
 釈明など必要ないと申生は答えた。
「いまさら父上に釈明などしてどうする、父上は私が毒を盛ったと信じている。昨今父上のお気に入りは驪姫だろうが。あの女を父上から引き離そうとすれば、父上には支えがなくなるのではないか?」
 誰もが驪姫をあなたの父上から離したいと思っているのだと狐突は申生に向かっては言うことができなかった。
 ただのひとりを慮るために、自分を殺すのだ
 狐突は星の瞬く空を見上げた。
 この公子が即位すれば、どれほど民を思うことができたか
 狐突のため息は目の前の空気を濁して溶けた。
 このところ申生が悩んでいることが現実にはならないことを、申生に仕える誰もが願っている。
 親思いの公子であらせられる
 そう言われる申生は父の命令さえあれば、それを公命として承諾するのだろう。
「公子の名前は、生き伸びる、そういう意味でお父君がお付けになったのです」
 狐突の言葉に申生がふいに笑った。
「申生、申冤に、冤罪に生きる、という解釈もある」
 どこか皮肉にゆがんだ申生の表情に狐突の表情が曇る。
 冤罪に生きる
「ご自分でおっしゃることではございませぬ」
 狐突の言葉が申生にはきつい。
 言葉には魔力がある。
 たとえどのように思っても口に出さずば呪いにはならない。
 言葉を紡ぐとは呪いをかけることに等しい。
 それでもあなたは私の自慢の公子なのだと狐突は申生に言葉をかける。
 申生は親や周囲の期待に沿う公子であろうとどれほどの気を使っただろうか。
 少なくとも生まれたときから申生にはすでにいくらかの不名誉が付いて回っているも同然だ。
 斉国の公主と晋の太子の不義の子であると。
 母が斉国の公主であることは確かだ。
 そうして父が太子であったころに祖父の妻として迎えられた斉の公主を奪って公子と公主が生まれた。
 それが申生であり、秦に嫁いだ公主であった。
 他の兄弟、重耳や夷吾にもそれなりの評は付いて回る。
 ふたりの母は狄の娘だと。
 中原の血を引くのは申生しかおらぬという、それだけの理由が申生を太子にしているのではないかというような噂まで囁かれる。
 晋を滅ぼすのは女兵
 史蘇の予言が狐突の脳裏をよぎる。
 驪姫は晋を滅ぼす。
 そのために驪姫は生きながらえる途を選んだ。
 申生の瞳に光がともる。
 墻壁から降りて自室へと足を運ぶ申生の様子には戸惑いも迷いもすでにない。
 星は変わらず瞬いている。

 ゆっくりと朝陽が昇り、東から曲翼の城を照らす。
 雲が照らされてくっきりと稜線を描く。
 太子の自殺。
 それは親を殺そうとした罪を認めた息子の諦めであると父は言った。
 だが誰もがそれは違うと知っていた。
 あるいはそれは違うのではないかと疑っていた。
 春秋に曰く。
 献公、その太子を殺す、と。
 晋国動乱の幕開けであった。



 狐突の馬車が走る。
 途中に人が手を振っている。
 御者が馬車を止め、狐突は顔をしかめた。
「どうした」
「いえ、前で馬車を停めようとする男がいるのです」
 言い終えてしばらく、御者を変わろうと言う声が御者を横へ追いやった。
 御者が怪訝な表情で男に御者席を譲る。
「久しいな」
 男の声が狐突にかかる。
 天上には青空が広がっている。
 男の快活な声が朗らかに舞う。
 声を聞いて狐突は御者を押しのけるようにして男の顔を覗き込んだ。
「太子」
 御者がぎょっとして男の顔を眺めた。
 私が鞭をとりますと言って狐突は御者を代わり、男を後ろに座らせた。
 太子と呼ばれた男を、狐突は今度は恭公子と呼ぶ。恭公子、恭太子と呼ばれるのは晋にただひとり。冤罪に死ぬことを潔しとした申生だけだった。
「夷吾は親不孝者だ。父上の祭のこともきちんとできない」
 狐突は苦笑した。
「あなたという公子は、お亡くなりになられてまで父上を気遣うのですか」
 そう言ってまた苦笑する狐突に申生は言葉を繋ぐ。
「親不孝者の国は長生きなどするものではない」
 御者は背筋に寒気を感じた。
 狐突は苦笑を収めてまっすぐと続く道を眺めた。
「では、どのようになさる」
 馬車の周りを風が通り過ぎる。
「秦に祭りをつないでもらうことにした」
 風が申生の後れ毛を巻き上げる。
 いまここにいる申生は鬼だ。
 鬼は将来を告げる力を持つ。
「それは秦に晋を滅ぼさせるということですか」
 毅然とした言葉で問い返す狐突に申生はうむと頷いた。
「すでに運命の許しを得た」
 この後十数年、晋は揺れ動き続けた。
 動乱を収め、晋を中原の覇王に押し立てた男は晋文公と諡される。名を重耳、申生の妾腹の兄弟の一人であった。



 天上を瞬く星は変わらない。
 沼地を飛ぶ蛍も変わりはしない。
 申生は蛍に手を伸ばした。
 父が笑う。
 きれいだろう、気に入ったかね?
 夢の中、幼い申生は満面に笑顔を浮かべて蛍を捕まえようとしていた。

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