長江に花の咲くとき


 お兄様、あなたはひどい人
 趙雲の見たところ、孫夫人はいつもそれを繰り返していた。
 花びらをひらひらと弄びながら踊る様子は未だに少女としか思えず、趙雲はそれを眺めていた。
 気丈に見えても、やはりあれも女だと劉備が苦笑していたことがある。
 趙雲にくっついて練武をしていた阿斗が、母上と声をかけながら近寄ると、孫家から来たばかりの少女は阿斗のほうへと手を伸ばして小さな阿斗を抱き上げる。
「私を母上と呼んでくれるのね、おちびさん」
 少しさびしげな微笑を浮かべながら阿斗にほお擦りをする少女は、趙雲の姿を見てふいと背中を向けて自室の方へと足を翻した。
 少女に付いて行こうとする阿斗に、趙雲は少爺と呼ぶ。
 足を一瞬止め、それから少女は早足に自室へと駆けこんだ。
 少女の後姿を眺めて趙雲は首を振る。
 少爺をあの少女に近づけるわけにはいかないのだと小さくつぶやいて趙雲は阿斗を抱き上げた。
 新しく来た劉備の夫人、孫仁の輿入れは非常に盛大なものだった。
 兄の孫権の取り計らいだというが、護衛、侍女、その他雑用などで数十人と、合わせて百人以上の付き人が孫仁についてきた。
 二十歳になるかならないかの若い娘である。
 しかしどこかさびしげだと趙雲には見えた。
 趙雲から離れるように部屋に戻った孫仁は、ヒステリックに机を叩いて侍女を追い出すとそのまま牀に伏して枕を被った。
 なによなによなによ
 声もなく、嗚咽が喉からこぼれる。
 自分が政略結婚でここに来たことは確かなのだが、しかし見張るような目つきのあの男はどうも好きになれないと孫仁は思った。
 ここで、自分に何も裏を持たずにやさしくしてくれるのは阿斗だけなのだ。それなのにあの男は自分が阿斗を抱き上げることさえもいけないことだと言うように目を向けてくる。
 趙子龍という男、嫌な男
 しゃくりあげながら孫仁は牀の上で丸くなった。
 見張らせていらっしゃるのですかと聞いた孫仁に、劉備はなにがと聞き返した。
「趙将軍です。それは、私が阿斗と一緒にいれば、私は孫家の女ですから、心配にもなるかもしれませんけれど、私、そこまで汚いことをするようには育てられてはいません。孫家のお兄様には曹家の方が嫁いでいらしたけれど、私おねえさま方とも仲良くできましたしお兄様だっておねえさま方を監視するようなことはしませんでしたわ」
 孫仁の言葉に劉備は人のよさそうなと言えば聞こえのよい、どうも優柔不断そうな顔を考え込ませて髭を撫でた。
 この男のこういう様子が嫌いではないことに気がついたのはつい最近である。
 酒を飲んで寝てしまったときに、船にでも揺られるような心地のよい暖かさを感じてうっすらと目を開いたときには劉備の顔があって、なにやら安心したときもあった。
 お父さんに抱き上げられたときにも、こうして見上げていたかしらと、幼い頃に死んだ父が牀まで運んでくれたときのことを考えて、孫仁は劉備に抱えられたままでまた寝てしまったのだが。
 劉備から話を聞いて考え込んでしまったのは趙雲である。

 これでよかったのだと、孫権は幾度か自分に言い聞かせた。
 劉備という男は、決して信頼に足るというような男だとは思えない。だが非凡な男であることは確かである。
 例え政略結婚であっても、劉備という男が妹をないがしろにするとは思わない。
 情の深いあの男ならば必ず妹をひどい扱いにはせずに置くはずだと孫権はつぶやいてから、下ろした髪を手で梳いた。
 もしも、もしも戦火があの子を包むようならば、そのときには先にあの子を呼び戻そう
 考えてから小さくうなずいて孫権は牀に横になる。
 仰向けになると、兄の言葉などが彷彿と思い出されてくる。
 いっときの英雄のように城を落とすことは、おまえは兄さんに敵わない、だけれども阿権、人のよさを見ぬいて、そうして軍を守り抜く我慢強さは、兄さんはおまえには敵わないのだから、おまえ、自信を持ちなさい
 自分が末の妹を父親ほども年の違う男の嫁にやったと言ったら母や兄はなんと言うだろうか
 とりとめもなく考えて孫権は大の字のままで天井を見上げた。
 母が死んで二年、兄が死んで九年。
 もしここにいたら、誰かが止めてくれただろうか、義兄である周瑜が、仕方がないのだと言って首を振った。魯肅も、幾ばくかの犠牲はどこかで出るのだと言った。陸遜はなにも言わずに、お姉ちゃまがいなくなるのと泣く孫権の姪を抱き上げていた。呂範もいたしかたないと言った。
 母か兄がおれば、誰かが止めてくれただろうかと孫権は思った。
 義妹を見送った周瑜が、見送った河のほとりで呆けていたと聞いた。
 花嫁を見送る父親ねと周瑜が妻にからかわれたことを、孫権は知らない。

 おちびさんと孫仁が呼ぶと、小さな影は少しかたむき、草葉の陰から小さな男の子が走り出てくる。
 孫仁はその小さな影を見るだけでもよかった。
 誰かが近くにいてくれるとわかるからだ。
 それが何時の間にか孫仁は、父親のような男の顔を眺めるのもよいものだと思えるようになっていた。
 決して自分のことを孫家の娘だとしか見てはいないはずの男だが、冷たくされることはない。むしろ男の暖かい、柔らかい笑顔に孫仁は懐柔されていた。
 義兄である周瑜が言うには、いつ何時も決して油断はできないような男ということだったのだが、実際に会うと、どこか憎めない、適当そうで、行き当たりばったりなごく普通の男だった。
 それは諸葛亮という男も似たようなもので、切れ者だと周瑜が言う割にはどこぞの農家のオヤジぐらいの雰囲気の持ち主だった。
 嫁いできてから、あからさまな武人といえば孫仁が気を許せない男ぐらいのものである。
 趙子龍
 居丈夫ではあるが、武人然とした空気はどこか冷たいようで、それはどことなく周瑜に似ているような気がすると孫仁ははじめ思った。それから、実は魯肅か諸葛瑾に似ているのだろうかと思った。
 統率の崩れることを嫌う周瑜、信賞必罰を必ず実行する魯肅、絶対に馴れ合いを自身に許さない諸葛瑾、どれも趙雲という男の持ち合わせる気質のように見えるが、実際はそうではないと孫仁が知ったのは最近だった。
 子龍という男は
 劉備が切り出した時に孫仁は部下を庇護する上司のありきたりな弁解ではないかと考えたのだが、劉備はそういったことはしなかった。
「子龍という男は融通がきかない」
 劉備に苦笑されて孫仁はふんと他所をむいた。
 孫仁が聞く耳を持たない様子を、苦笑いのままで眺めながら劉備は続ける。
「阿斗をとても大事にしてくれる。が、後継ぎはまた作れるものの、有能な将軍は死んだら戻ってはこないだろう」
 劉備が何を言わんとしているのか、孫仁は見当をつけかねた。
「子龍が阿斗を戦場から助けるために、引き返して自分が戦場へ戻ったことがあった」
 孫仁は、そうですかとだけこたえる。
 劉備は言う。
「子龍は将軍らしい将軍だから、私は彼に死んでほしくはなかった。だから息子よりも彼のほうが大事だったんだな、そのとき」
 言われて孫仁は内心であっそうと言い返す。
 阿斗が可哀相すぎた。
 泣きそうな顔で唇をかみ締める孫仁の頭を、劉備はぽんぽんと軽くなでる。
「右も左も見えないで、子龍が傷を負って阿斗をつれかえり、私は思わず阿斗を放り出していた。おまえのおかげで、あたら有能な男を殺すところであったと言って。子龍はそのときなにも言わなかったが、私が放り出した阿斗を拾い上げて、泣きじゃくる子供を不器用に慰めていたんだ。後でね、孔明に言われたよ、阿斗を殺していたら、子龍の奮闘は水泡に帰すでしょうねと」
 孔明の言い分は当然だわと孫仁がつぶやいた。
 それでも、劉備が言いたいと思ったであろう言葉が理解できないほどに孫仁も子供ではない。
 趙雲が阿斗の周りを警戒するのは、別に孫仁を疑っているわけではないのだと言いたかったのだろうと孫仁は納得した。
 本当はひょっとしたら他意などない思い出話だったかもしれなかったが、その区別など誰にもつけられはしない。

 男って生き物は大変ね
 妻に言われて周瑜はふんと鼻を鳴らした。
 孫珪のときもそうだった。
 孫珪という姪の場合は、相手は旧家の陸遜で、南で台頭してきた孫家の支配体制に反感を持っていたであろう陸家封じ込めに使われたのだが、孫仁もやはり劉備封じ込めのために使われたのだ。
 国外か国内かという差である。
 かくいう孫家には、封じ込めの被害者はそれだけしかいないかというとそうでもなく、孫権の弟は曹操の娘を妻にしている。つまり曹家からは逆に封じ込めをかけられた形になるだろう。もっともこれは年代が定かではないが、孫仁輿入れよりも前だろうという推測はできる。逆に言えば孫仁輿入れよりも後かもしれないという推測もできないことはない。
 有事の際にいかにして孫仁を呉に連れ戻すか、それだけが義兄を含む兄たちの悩むところであった。
 そうして結論は出たのである。
 孫権が病気を得たという虚報が飛んだ。

 眉をひそめたのは諸葛亮であった。
 ウソをつけウソを、あんな元気だけが取り柄の男が簡単に病気になどなるかというあからさまな文句を目に浮かべ、諸葛亮は劉備の方を見た。
 劉備も苦笑する。
 孫仁はむっとして口を開かず、阿斗はその日孫仁の部屋には入らなかった。
 庭で阿斗の守役をしながら趙雲はため息をついた。
 誰も彼も、主公を置いて行くのか
 そんな思いが胸中を去来した。
 そうして趙雲は不安そうな阿斗を見た。
「また母上がいなくなってしまうかなあ」
 つぶやく阿斗に、趙雲は寂しげな微笑を向けた。
 それから助けられなかった夫人を、もう一度失うわけには行かないと趙雲は孫仁の部屋の方へと目を向けた。
 数週間して、孫仁を迎える舟がつくと、孫仁は阿斗を抱きしめてささやいた。
 戻ってくるから
 趙雲という将軍には疎まれていると思っていた。
 だからこそ孫仁はうれしかったのだ。
「夫人!留まってください!お願いですからここへ留まってください!」
 必死に声を張り上げる趙雲の言葉が、孫仁にはうれしかったのだ。
 ここで孫仁を引きとめることは、趙雲にとっては過去の清算であったのかもしれない。
 孫仁と、阿斗を守るために井戸に沈んだ夫人の面影が重なっていたのかもしれない。
 夫人と趙雲がもう一度叫んだときに、孫仁はもう一度微笑んで趙雲に言った。
 阿斗を残して井戸に沈んだ夫人と同じ言葉だった。
「後主を、頼みます、守ってくださいね」
 孫仁の目からあふれた涙が、長江に消えた。
 花が咲いたようだと趙雲は思った。
 この花は戻ってくるだろうかと趙雲は孫仁を見送る自分自身に問い掛ける。
 後主を頼みます
 あなたは、井戸に身を沈めた夫人と同じことを言うと趙雲はつぶやいた。
 井戸に身を沈めた夫人が黄色い牡丹なら、長江に去った夫人は紅い牡丹だったと、柄にもなくそんなことを考えている自分に、趙雲はふんとため息をついた。
 いつだって自分はふがいない
 女一人を助けることも引きとめることもできない男だ
 名誉挽回する機会を与えられたというのに、まるでなにかの因縁のように同じ終わりしか見えてこない
 馬上で考えながら、趙雲はふいに空を仰ぎ見た。
 真っ青な空が広がっていた。
 果てしなく続く空に鳥は悠々と遊んでいた。
 長江に咲いた花が幸せになるようにと、そう祈っている自分を趙雲は見つけた。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送