想馳万里、魂走千里


 江陵を責めると周瑜が言い出したのはなにも突然の思い付きではない。
 劉備が荊州を手に入れたのは今年、建安一四年のことである。
 これで勢力は荊州を挟んで三つ巴になった。
 窓の外、庭の木々の間に星が煌いている。

 笛の音が止んだ。
 右のわき腹が痛んだ。
 曹仁との戦で負傷した場所だ。
 それからいくらかの臓腑の痛み。
 ここのところ断続的に続いている。
 時間がない。
「どうかなさった?」
 妻の言葉に周瑜は首をゆっくりと振った。
「音が気に入らなかった」
 笛の吹き口を一度ぬぐい、それから発音孔の向きを直して吹きなおす。
 気の漏れるような音がする、笛の継ぎ目だ。
「継ぎ目が合っていないと思わないか」
 夫の言葉に妻は琴から離れて夫の笛を手に取るとそれを自分で一度吹く。
 やはり微かに気の漏れるような音がして周瑜は首を振って笛を妻から受け取る。
「新しい笛身に変えてみたんだが、だめだな。吹き口の部分を昔からのにしたら継ぎ目が合わないらしくて、空気が漏れる」
 夫の言葉に妻が吹き口を抜き取って継ぎ目を細かに見た。
「傷がある、ここから空気が漏れるのではなくて?」
 妻の指差す個所には確かに小さな、しかし亀裂のように走った傷があり、周瑜はため息をついた。
「発音孔は丁度よく指に合ったんだが、傷があったか」
 それから周瑜は以前使っていた笛身に取り替えて発音孔の位置をずらしながら合わせてゆく。
 流れるように音を合わせる指は、緩慢に孔を開き、塞ぎ、豊満な音を部屋中に響かせて長い音からだんだんと速くなる。
 滑るように発音孔の上を走る指は武人のものではないかのように見えるが、しっかりとした関節で小喬はやはり夫は軍人なのだと確信する。
 なんどか吹き口と笛身を合わせなおしながら長い音を響かせる。
 澄んだ音が響いた。
 くすりと妻の微笑む様子に、周瑜は唇を放して微笑み返した。
「いい音が出たかな」
 夫の満足そうな言葉に、妻ははいとうなずいてから自分の琴の弦を弾いた。
 琴の弦は一度合わせれば揺るぐことのない笛の継ぎ目とは違い、一曲ひくごとに音はずれてしまう。
「昔からのものが一番合うな」
 自分の笛をためつすがめつする夫に、妻がそれはそうですとしたり顔で返した。
「楽器も妻も、昔からのものが一番に決まっております。糟糠の妻という言葉をご存知でしょう」
 琴の音を合わせながら言う妻に、周瑜は苦笑した。
 戦に行くといっても、以前のような夫婦喧嘩は今では少ない。
 曹仁との戦で、陣中で寝こむほどの負傷をして帰ったからだ。
 以来戦に行くと言うと子供はどうなるのと言って泣き出す始末で、以前の嫉妬もあらわに拗ねられるのにも困ったが、しかし前にも増して手におえなくなったと周瑜はため息をつく。
「今度はどちらにいらっしゃるの」
 琴だけを見つめながら問う妻に、周瑜は江陵を責めると、それだけ言って自分の笛の手入れに専念した。
 風門の紙を張りなおし、それからもう一度吹く。
 はじめのうちは新しい紙がぴりぴりと空気に震える音がするが、紙が乾ききるとその音も消えて納得のできる音が出るようになる。
 低く、深みのある音は江南の音だ。

 深く澄んだ音が陣中に響いた。
 周瑜の笛だ。
 妻のもとを離れたときと同じ、天上の木々のあいだで星が瞬いている。
 行軍中に笛を聞くことが出きるとは思わなかった、そうつぶやいたのは程普だった。
 その笛が急に止み、自分の幕舎で書を広げながらまた公瑾の病気が出たかと笑ったのは魯粛である。
 発音孔が狭い
 いつもそう言っては眉をひそめて笛を眇める周瑜に、軍楽隊の男たちは苦笑した。
 周瑜という男が音にうるさいのは軍中でももっぱらの評判である。
 音に誤りあれば周郎が顧みる、と軍楽隊の人間は首をすくめるものの、それだけの耳を持って楽を聞いてくれるのも周郎ぐらいのものだとも楽隊の中では言っている。
 もっとも軍楽隊では楽を耳にするメンツが悪い。
 むやみやたらと大きな音で打楽器を打たせたがる甘寧や、主旋律しか聞き取れない凌統に、何を演奏してもいい曲だとしか言わない魯粛、極めつけは管楽器に興味を示すのはいいが笛と笙を取り違える呂蒙である。形の問題ではない。彼にとって縦笛と笙は同じ構造でできているはずのものなのである。呂蒙には笛と笙の音が同じように聞こえているらしい。
 軍中にあっても宴会場にあっても、別に曲に間違いがあったからといって周瑜はそれを責めはしない。ただ自分が耐えられないだけである。狂った音で演奏されたときほどそれが苦しいことはないのだが。
「今日もまた音に納得がいかないのなら、いいかげんに手直しをすればよいのに」
 苦笑しながら魯粛は周瑜の幕舎の入り口をはらりと手にかけて開けたのだが、次ぎの瞬間には絶句した。
 ええとうなずきながら笛をぬぐう周瑜の手には血がついている。
「その血は」
「なんでもありません」
 次ぎの瞬間の魯粛の機敏さには、周瑜の方が絶句した。
 すくと背を張りなおすと、魯粛はまず横に置いてあった水筒を取って周瑜に口をすすげと言い放ち、今通って来たばかりの幕舎の入り口を荒い動作で開けて兵士に押さえさせ、もう一人立っていた護衛の兵士に向かって大声で医師を呼ぶようにと命じる。
「軍医だが、応急処置ぐらいはできる。公瑾、横になっていろ、あ、いや、横にはならない方がいい。背をもたれておけ。そのまま立ちあがるんじゃないぞ」
 大げさなと苦笑して周瑜は、医師を呼ばせて戻ってきた魯粛に何が大げさだと言われ、ばしと頭を叩かれた。
「血を吐くことのどこが大げさではないのか言ってみろ。いつから血を吐くようになったんだ。休養も取らずに江陵攻めなんぞを提言してこのバカが」
 周瑜が口をすすいだのを見届けてから水筒を奪い取って魯粛は自分の袖を裂き、惜しげもなく水筒の湯をばしゃばしゃとかけてそれを周瑜の額にべしゃと貼りつける。
 絞りきれていない布からはぼたぼたと熱い湯がしたたり、額から目にかけてそれを被せられた周瑜は熱いと悲鳴をあげた。
「はは、熱いが気持ちがいいだろう。くらくらしていたりするときに冷たい水で目を冷やすのも気持ちがいいが、熱い湯で目を覆うのもいい。すこしは落ち着いたか」
 笑う魯粛を、布をすこしつまみ上げて恨めしそうに睨みつけ、周瑜は人を病人扱いにしてと文句を言って魯粛に病人だろうがとまた布をべしゃと被せなおされた。
 軍医の診断は胃炎だろうということだった。
 もう少しゆっくりと見てみなければ確実ではありませんが、無理をなさったのでしょうと言う軍医に、魯粛がうなずいたが、しかし周瑜の仕草に軍医を引き止め、兵士を幕舎から追い出した。
「軍医先生、もう一度、診てもらえますか」
 要らんと言う周瑜の言い分は無視された。
 問答無用に脈を取られ、それから上着を脱がされて横にされて周瑜はいかにも不服そうに寝転がる。
 こんなに大げさな診断をされたのは久方ぶりだという愚痴に、魯粛は思わず苦笑した。
 軍医が顔をしかめる。
 それから魯粛に小さく耳打をして幕舎を出ていった。
 軍医の言葉に考えこんだのは魯粛だった。
 肝炎の可能性あり、とはまたなんとも穏やかでないな
 あるいは私の老師であればとつぶやいた軍医に向かって魯粛がさっさと探して来いと言って彼を陣から追い出したのは翌日のことである。
 間抜けな声をあげたのは周瑜だった。
 とっときの酒を魯粛に没収されたのだ。
「陣中で酒がねえなんてのは冗談じゃない」
 それは魯粛とてそうは思うが、それでも酒を周瑜に与えるわけにはいかない。
「肝炎かもしれない人間が酒を飲むなんぞというのも冗談ではないからな。ほ、さすがに偏将軍の酒だな。なかなかの銘酒」
 だから楽しみにしていたのにとぶつぶつ言う周瑜を置いてけぼりにし、魯粛は没収した酒を兵士に渡し、好きに飲めと言い置いて自分の幕舎へときびすを返した。
 高い銘酒をもらった周瑜の護衛兵がぽかんと口を開けて魯粛を見送り、それから酒を放り投げるようにして喜んだのは言うまでもない。
 幕舎の中ではそれを聞いていた周瑜が落として割るなよ!と怒鳴った。
 ここで死ぬわけには行かない
 周瑜は湯で濡らされた魯粛の袖の切れ端が冷たくなるのを手で触りながら、必死に堪えてきた臓腑の痛みに歯を食いしばって寝返りを打った。
 せめて、馬孟起と手を組めるように取り計らってからでなければ焦るようにして江陵を攻めた意味がなくなると、周瑜はきりと唇をかみしめて目を閉じた。

 星を眺めながら琴を爪弾いていた小喬は物音に目を凝らした。
 澄んだ笛の音が響く。
 透明で、夜の闇にまっすぐに線を描くような音は間違えようのない夫の笛の音だ。
 色とりどりに咲いた庭の牡丹の脇にたたずみ、笛を吹いているのは周瑜のように見える。
 格子窓から琴を弾く小喬を眺めながら微笑み、微笑んだところで笛の音がすこしずれて震えた。
 琴から離れて小喬は部屋の戸口に駆け寄った。
 そこに人はいない。
 心だけが取り残されたようにその人のいた場所に咲いた牡丹の花びらが散った。
 空耳のはずはない。
 ふいに聞こえた笛の音はすぐに鳴り止んで、庭はまた静寂に包まれた。
 今度こそは帰ってこないかもしれない
 戸口にもたれて小喬は夫のいた場所を見つめた。
 夜の空気に風が冷たくなっていた。

 朝っぱらから顔を出した魯粛に具合はどうだと聞かれて周瑜はふんと鼻を鳴らした。
「どうもこうもまったく重病人扱いでかなわない」
 ふてくされてむくれる周瑜に笑いながら魯粛は熱い茶を自分の分と周瑜の分と兵士から受け取ってふうと一息冷ます。
 夢の中でとふいに口を開いた周瑜に、魯粛は茶を足元に置いてうんと聞き返した。
「夢の中で妻が琴を弾いていた。伯符の見合いに付き添っていったときと同じように琴に向かって一心に音に耳を傾けていた。俺がまた、そのときと同じように窓の外からそれを眺めて。やはり夢らしい、妻の琴に合わせたいと思ったら笛が手元にあって、笛を吹きながら、妻と目が合った。一瞬でも、それでも幸せな夢というのはあるもんですね」
 周瑜の言い方に、魯粛はため息をついた。
「重病人扱いにしてと言いながら、自分で重病だと諦めてんじゃないですかね。気弱なことを言ってまた心配させようとしても無駄なことですからね」
 きついことを言いながら、それでも微笑したままの魯粛に周瑜は自分が苦笑した。
 責任はとらせると周瑜が向き直って指を魯粛の鼻につきつけ、魯粛はおやと指を見つめて首をすくめた。
「責任とはどういうことだ」
 怪訝そうな魯粛の顔に、周瑜はへへと笑って片方の口元を上げると、兵士には人払いをと言って幕舎の入り口にかかっている布を閉じさせた。
「責任は責任です。劉備に荊州を取られた責任ですよ」
 わざとむすっとして魯粛に言葉を放りつけ、周瑜は腕を組んで見せる。
「難しいことを」
 魯粛は魯粛で片眉をあげて見せる。
 相互に苦笑し、周瑜はなにかあったからあれだけ劉備を保護したのでしょうと魯粛の前に地図を広げた。
 三者鼎立
 あなたのおかげで私の計画はめちゃめちゃになったのだからと恨めしげに言い、周瑜は地図を指して、ここに呉、魏、それから劉備とそれぞれの拠点を一つ一つ指で叩く。
 魯粛の目が険しくなったのを、周瑜はちらりと見て首を振った。
「劉玄徳を餌にするのですか」
 周瑜の問いかけに、魯粛はははと笑い返して普段の人好きのする笑みに目の険しさを隠した。
 この表情に騙されてきたのだと周瑜は苦笑を含んだ表情でため息をついく。
「餌にするというのは確かですが、それだけでもありませんね」
 続けて魯粛の放った言葉に周瑜は背筋がぞくりとした。
 魏に天下はとれません、劉玄徳にももちろん
 くすりと笑いながらつぶやく魯粛の様子に、周瑜は底知れない恐怖を感じた。
 それ以上の言葉を継がない魯粛に、周瑜はよけいその恐怖を増したといってもよいかもしれない。
 長くはないのですよと言った周瑜に、魯粛は微笑を消した。
「長くはないとは」
 怪訝な様子で問い返す魯粛に、周瑜は今度こそ真剣な表情で口を開いた。
「自分の命数ぐらいは自分でわかる。江陵行きを提言する前からすでに具合は悪くなっていましたから侍医に診させましたよ。持ってこの戦が終わるぐらいだと」
 自嘲気味に言い捨てる周瑜の様子は、それでも軍人として死にたいのだという言葉に消された。
「俺は戦に取り付けれていると妻に言われたことがあったんですがね、まったくその通りだ。病気で死ぬよりも、戦で死にたい。せめて敵将を道連れにして死んでやる、せめて戦で死にたい、せめて行く末を定めて見ることができなければ嫌だ、俺はこれでも将軍として死んでやる!将軍として死んでみせる!」
 だんだんと語調を荒らげて歯を食いしばる様が痛々しいようでもあり、魯粛は目をそらした。それから地図を広げなおし、ここに魏、ここに呉、ここに劉玄徳と筆の柄でとんとんと叩いた。
「一朝一夕で天下を取れる時代ではありませんからね」
 言葉を連ね始めた魯粛は、周瑜の目線を気にもせずに地図を弄んだ。
「戦乱の時代に、漢の高祖、後漢の光武帝が一代で天下を治めることができたのは時代に勢いがあり、勢力が確立されていなかったおかげでしょう。ここに到って勢力が確立されているのは戦国時代同様の状況。勢力が確立された中では一年やそこらで天下をとれるわけがないんです。曹孟徳はすでに許昌で位置を定めていますし帝を擁していますから、禅譲が叶うのはまずは可能性が大きいのが曹孟徳、そうなれば呉は天下をとるのには苦労しますね。呉に安易に天下が取れないのであれば他国の足を引きずってやればいい。そこで役に立つのは縦横家のやり方なわけだ。曹孟徳の勢力と劉玄徳の勢力であれば潰しやすいのはどちらだと思います」
 一息ついて微笑み、足元から茶を取って喉に流す魯粛に、周瑜は無言で視線だけを返した。
 周瑜はすでに魯粛の構想ではなく、この男のよく回る舌に感心している。
 この時点で勢力は四つ、北の魏、南の呉、西の劉備、関外の馬超、馬超をとりこむことで魏に対抗しようという構想は周瑜に江陵行軍の理由の一端を担っている。
「と、これでよろしいかな」
 魯粛の言葉に周瑜ははっとして我に返った。
「あ、はい、どうも」
 軍人ではないなと周瑜は思ったが、それでも心当たりは他にはないとも思案する。
 周瑜の言葉に魯粛は茶を鼻につまらせた。
「なんと言った」
 つんとしている鼻を手で押さえながら魯粛は涙目で周瑜の方を見る。
「指揮を代わってください」
 あっさりと言う周瑜に今度は魯粛が失神した。
 夜になって周瑜の病状が急変したことで、陣はわずかに忙しくなった。
 前後不覚の周瑜のもとに駆けこんできたのは軍医の林斯だ。
 魯粛があきれたような何とも形容のつかない奇妙な顔で軍医を見返し、おまえの老師は来たのかと尋ねると林斯は申し訳なさそうにいいえと首を振った。
「馬を飛ばしたのですが、旅行にいらしていると」
 言い終わらないうちに林斯は首をすくめて顔をすこし正面からそらし、魯粛の怒声にそなえた。
 魯粛は怒鳴りこそしなかったが、それでもばっきゃろうと性格の温厚な魯粛とは思えないような捨て台詞を吐いて幕舎に林斯を引きずり込んだのだった。

 琴の音が部屋に響く。
 すこし空気を震わせて消えてゆく音は、かすむにつれて悲しげな響きを奏でる。
 調音をしているだけの長く響かせた音だが、それでも音の最後は普段よりも下がっている。
 何を悲しむの
 横に添えられた手が弦を弾き、小喬は横を振りかえった。
 ぴんと張られた弦は快い音を奏で、最後にはすこし上がるような音が夜の闇に消え入った。
「老公、老公、戦に行って、帰っていらしたの、帰っていらしたなら帰ったと言ってくださいな。ずっと待っていましたのに、老公ときたら信もくださらないのですもの」
 泣きそうな顔で微笑む妻に微笑み返し、たたずむ人は自分の笛を手に取った。
「公瑾殿、あなた酷い人。こんなに人を焦らして、こんなに、私はいつも思うのです、あなた信のひとつもくれたらと」
 妻の頬を伝う涙が、一粒光るのを周瑜は指でぬぐう。
 またあなたの夢だ
 つぶやく夫の声に小喬はふいに顔を上げ、周瑜を見上げた。
 夢でぐらいは、抱きしめさせてほしい、十数年前と同じようにきつく抱きしめて放さずに、こうして一晩過ごそう
 耳元でささやく夫の言葉に、小喬は苦笑して一晩抱きしめていてもいいですよと夫の胸の中でささやき返す。
 一晩思い出話をしようか
 くすくすと笑い声を含んだ声で言う周瑜を軽くつねり、小喬は笑った。
「老公ときたら本当に、まるで生い先短い老夫婦のよう」
 そこまでつぶやいて小喬ははっと周瑜をもう一度見上げた。
 夫の影が、そこにある。
 涙に濡れた自分の頬をぬぐった夫の手は自分の笛を持っている。
 そうして笛に下げた飾りを指に絡ませて弄ぶ夫の頬には妻がはじめてみる涙がいくらかあとを残していた。
 月明かりに照らされる部屋で、しっかりと妻を抱きしめて長い口付けを交わして夫婦は互いの白い頬にそっと触れる。
 周瑜の手が妻の、纏め上げられた艶やかな髪を解いてはらりと背に流す。
 簪は新婚のころに周瑜が妻に見立てた白玉作りの手の込んだこもので、ひとつの白玉から掘り出された飾りの鎖の先には小さな瑪瑙のかけらがいくらか飾られている。
 主人のまとめ髪から抜き取られた簪はしゃらりと軽い音を立てて琴の上に落ちた。
 しゃくりあげるような妻の嗚咽をもう一度長い口付けで塞ぎ、唇を離してから周瑜はごめんねとつぶやいた。
 ごめんね、あなた
 妻にささやく声に嗚咽が含まれる。
 一緒に過ごせたから、私は幸せでした
 継がれる言葉はすべて妻のすすり泣く声と共に夜の静寂に溶ける。
 ずっと、ふたりで過ごせたらよかった、白頭を掻くというぐらいまで、ずっと思い出を作れたらよかったのに、ごめんね、あなた
 周瑜の言葉が途切れ、ふたり分の嗚咽だけが部屋に残った。
「あなたの笛と、私の琴と、もう一度合わせましょうか」
 しゃくりあげながら小喬の言う言葉に、微笑む周瑜が笛を口にし、透明な、澄みきった音の筋を月明かりの中にひいては消えさせてゆく。
 小喬の琴は、やはり張りつめた音を放ったが、それでも音は柔らかく、光のように流れる音の軌跡を描いて星の瞬きに彩りをそえる。
 小喬が琴を爪弾き終わったとき、そこにはすでに周瑜の影はなかった。
 一場の夢
 その夜、一晩泣き過ごす母を幼い息子と娘は小さな手で抱きしめた。
 甥はその脇で、なぜ母上は泣いているのと問いかける一番小さな従弟を膝に乗せて抱きしめた。
 一場の夢、そう呼ぶにはあまりにも、夢は儚かった。
 建安一五年、巴丘において周瑜卒す、享年三六歳。

 英雄は肝胆たがいに相照らし(英雄肝胆両相照)
 江湖の子女は日を見るに少なし(江湖児女日見少)
 心はずっとここにあるというのに(心還在)
 人はすでにいなくなり(人去了)
 振りかえれば雨と風がほんのすこし飄揺とする(回首一片風雨飄揺)
 …心はずっと、ここにあるというのに(心還在)
 人はすでにいなくなり、(人去了)
 振りかえってみれば、(回首一片)
 振りかえってみれば雨と風がほんのすこし、飄揺としている…
(回首一片風雨飄揺……)

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