歩歩高賦〜1〜


 長江は滔々と流れる。
 舟は悠々と下る。
 彼にとって、土地の惨状はひどいものであった。
 時代の荒廃などということは、幼い彼にはわからなかった。
 姉の結婚という朗報は、彼にとって非常にうれしいものであった。
 少年は、姉の結婚相手が武人であると知るや否や、どこの将軍に仕えているのか、どんな戦に行ったのかと質問攻めにして姉婿を困らせた。
 阿蒙、それぐらいにしてくれないと兄さんが疲れてしまうよ
 苦笑する母に、彼ははにかみながら声を返した。
 我当了将軍、我就給娘好好得生活!(僕が将軍になったら、お母さんにいい暮らしさせてあげるからね!)食糧多、衣服好、住得也好!(食べ物たくさんでしょ、いい着物に、住むところもいいところ!)
 息子の純粋な言葉に、母はやわらかく微笑した。
 姐夫、ゼマ様才能当将軍ナ?(兄ちゃん、どうしたら将軍になれる?)
 阿蒙、長大了以後、我帯小弟去将軍那兒。(阿蒙、君が大きくなったら、僕が将軍のところに連れて行ってあげよう)行不行?(どうだい?)
 豪快に笑いながら言う義兄の足を踏んづけて、姉は彼に言って聞かせた。
 阿蒙、将軍というのは大変なお仕事よ、いつ死んでしまうかもわからないでしょう、兄さんだって命がけで戦に行くのよ
 姉の言葉に小さな弟は落ち込んだように椅子に座り込んで足をぶらぶらと揺らした。
 いつか僕は将軍になってみせる、姐夫と一緒に、母ちゃんと姉ちゃんにいい暮らしをさせてあげるんだ
 彼の決心は、後にとんでもない行動となって家族を騒がせた。
 戦に従軍した男たちがざわめいていた中、子供が紛れ込んでいると聞いて、物見高く見に行き、唖然としたのは彼の姉婿だった。
 姐夫!(義兄ちゃん!)と呼ばれて彼の義兄は何かを喉に詰まらせたようにうめいた。
「阿蒙!おまえ何をしにここへ来た、ここは軍の中だと知っているのか!」
 義兄に叱り飛ばされ、彼はうつむいてふてくされたように、椅子に座り込んで足を揺らした。
 笑ったのは、義兄の主人だった。
 将軍と義兄が困ったように声をかけるのを聞い顔を上げた彼は、目を丸くした。
 将軍と聞いて、立派なひげを蓄えたおやじを想像していた彼の目に飛び込んできたのは決して太ってはいないが、がっしりとした体躯の青年だった。
 義兄と年もそう変わらないだろう。
「お前、名前はなんだ。血気盛んだな」
 にやにやと笑う将軍に、彼は大声で返した。
「我姓呂、名蒙!我要当将軍!」(姓は呂、名前は蒙!僕は将軍になりたい!)
 横で義兄が慌てて彼の座る椅子を蹴ったが、時はすでに遅かった。
 将軍はあっけにとられたように少年を見つめて、彼の義兄に声をかけたのである。
「他這個フォ子、好有意思也(面白い小僧だ)」
 義兄は当然ながら、顔色を失ったままで笑うしかなかった。
 やせっぽちの呂少年は、かくて義兄にくっついて初陣を飾ったのだった。
 呂蒙という男の、駆け出しである。

 おまえは私に似ているなと将軍があきれたようにため息をつき、呂蒙はうなだれた。
 15歳の少年がうなだれているのは、将軍の叱責を買ったからである。
 やせこけたガキに何ができると言われ、頭に血を上らせた呂蒙は義兄の静止も聞かずに相手に切りかかり、結果、相手を死なせてしまった。
 頭に血の上った小僧は何をしでかすかわからんなと苦笑したのは、将軍の横にいる長身の男だった。
 この男に関しては、たまに見かける男だが、どうやら将軍の部下ではないらしいと呂蒙は見当をつけている。
 なぜかと言えば、部下にしては、義兄たちのように遠慮というものと縁がなさそうなのだ。そこに加えてこの男に対しては、古株の男たちも一目置くように動くからである。
 なによりも、陣中でこの男が指揮をとっている部隊の練兵を見たことがないのである。
 将軍の隣に座る男は、空になっている将軍の杯に酒を注ぐと、自分の杯を干して将軍のほうへと差し出した。
 将軍に酒を注がせるんだ、偉い人なんだ。この人も将軍なのかな
 呂蒙がちらちらと気にしながら長身の男を見ると、男はふいと呂蒙に目を合わせて微笑した。
「少年、君をからかった大人がいけなかったな」
 長身の男の一言に将軍がうむと頷いて、それから呂蒙のほうへと目をやってにこりと笑った。
「頭に血が上ってしまったのは仕方がない。若いからね」
 将軍に、男が苦笑しながら声をかける。
「そこだ、そこ。相手をやり込めるなら殺してはいけないな。生きながらにして後悔させてやらねば。ほれ、戦国時代にいただろうが、屈辱を受けた仕返しに、相手をくそまみれにさせた男が」
 からからと笑う長身の男に、将軍があきれたように声をかける。
「公瑾が敵ではないのは、これは私の運がよかったな」
 将軍の言葉で、長身の男は公瑾というのだということを呂蒙は知った。
 公瑾という男は、苦笑した。
「おい伯符、少年の名はなんだ」
 呂蒙だと将軍が答えるより先に、呂蒙は公瑾という男に向かって自分で名乗っていた。
 公瑾という男は苦笑して将軍を見る。
「元気な返事でよろしい、ただし主人を差し置いて先に返事をするのは感心できない。客人が何かを主人に問いかけたら、主人が答えるのを待つことだ」
 やわらかい低音で諌められ、呂蒙はまた首をすくめた。
 後になって、将軍が小さく彼に声をかけた。
 あの男は、ああいう男だ。気にしなくてもよい、怒っていないよ
 彼はこの将軍が好きだった。
「他也是将軍マ?(あの人も将軍なのですか?)」
 呂蒙の言葉に、人のよい将軍はふむとあごに手を当てて首をかしげた。
「将軍ではないな、貴族だ。盧江周家は知っているだろう、あそこの公子だ。祖父は三公で父は洛陽の県令っちゅう名門の出なんだが、どうもあいつはそういった血とは折り合いが悪いらしい。おかしな男だよ」
 将軍はそう言うと、私の友人だからね、おかしくても不思議はないと笑った。
 世界が違うらしいと呂蒙はとっさに足を止めてしまった。
 畑仕事ばかりを見てきた彼には、どうも公瑾という男は上のほうの人間であるとしか理解できなかった。
 公瑾という男が彼の軍に、正式に来たのは、それから数年後のことだ。
 都の貴族が辺鄙な田舎の将軍にくっつくということが、呂蒙には面白かった。
 そのときには義兄は戦死してしまっており、呂蒙は義兄の跡を継いで別部司馬という大役を、年少ながらもらっている。
 周家のと聞いて、義兄が生前、周家の公瑾ならば周郎だなと言っていたことがある。
 名前は周瑜というのだと聞いた。
 どうやら有名人であったらしかった。
 周公瑾が軍に来たとき、呂蒙は更にその横に見慣れない男を見つけた。
 あれは誰だろうと聞いた呂蒙に答えたのは、やはり将軍の下にいる呂範という男だ。
「ありゃ魯家の当主だそうだ」
 にこにこと笑う呂範という男は、どうやら出身は呂蒙と近いらしく、初めて会ったときから訛りに違和感は持たなかった。
 魯家の当主だと呂範が言った男は、やはり金持ちの類であるらしかった。
 普段その男は周公瑾にくっついているため、呂蒙は周公瑾に尋ねたことがある。
「彼は、周家の人間なのですか?」
 返ってきた答えは否であった。
「私の部下ではないよ。友人だ。気の合う友人。あの男は温厚だが頭がいい。怒らせると雷が降りそうな男だよ。魯家の、子敬という」
 魯子敬先生
 口の中で名前を転がしてはみたが、呂蒙には怖そうな男だとは思えなかった。正装で仁王立ちになれば、身長も低くはなく、痩せこけているわけでもない男だ、威風堂々として威厳があるかもしれない。とはいえ、魯子敬の顔はいつも穏やかで、しばらく挨拶を交わすうちに、呂蒙はこの男から何かしら目をかけられるようになっていた。

下一貢

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