歩歩高賦〜2〜


 無謀な少年もいつしか成人し、呂蒙は子明と名乗るようになる。
「伯符将軍!」
 馬をとばしながら、呂蒙は主人に声をかける。豪快な青年将軍を、彼は慕っていた。
 真っ青な空が広がる。
「子明!見ろ、あの地の果てまで、いつかは我らのものだ!」
 将軍の言葉を、呂蒙は繰り返した。
 そのことばが実現することは、なかった。
 狩に行くと将軍は言った。狩に従った呂蒙は、将軍を守りきることができなかった。
 呂蒙の前を矢が掠める。何が起こったのかはわからなかったが、矢が放たれたはずの方向を振り返る。それは戦場での癖だった。
 最後に将軍から聞いた言葉は、何だっただろうと彼はふと考えた。
 周公瑾に向かって、悲しくないのかと問いかけたことは覚えている。涙も見せずに淡々と自分のすべきことをこなす周公瑾という男を、呂蒙は不思議なものでも見るように見ていた。
 悲しいときにはいつもの倍以上働く。ああいう男も中にはいるもんだと、そう言ったのは呂範だった。強い人なのだなと言った呂蒙に呂範は付け加えたものだ。
「悲しいときにそれを紛らわそうとするのは、人よりも情が深かったからだと思え。公瑾というのは辛いことを忘れようとする男だ。決して強い男ではないよ」
 あれからどれだけ時間が過ぎたか覚えてはいない。
 将軍が死んでから、魯子敬は北に行くと言っていた。
「北、曹操のところへ?」
 呂蒙が問いかけると、さあねと魯子敬は言った。ふうんと頷いた呂蒙だったが、周公瑾が来たことで席をはずした。
 結局呉にとどまった魯子敬を、呂蒙はからかったことがある。
「北へは行かないことにしたんですか?」
 にこにこと笑いながら聞く呂蒙に、魯子敬はふんとふてくされたように、周公瑾に泣き落とされたのだと答えた。
 その日一日、呂蒙は魯子敬に泣き落としをかける周公瑾を想像しては笑っていた。色白で長身の、黒髪の美青年が泣き落としをかける様は、よくよく考えればえらく倒錯的な情景なのだが、呂蒙には関係なく、ただ笑える光景として脳裏に想像されていたのだった。
 そのころ敵方に甘寧という男がいた。
 敵将だが、剛弓を扱う、一言で言えば「すごい奴」という印象が呂蒙にはある。
 呉軍には凌という将軍がいたが、敵軍をこの凌将軍が追い詰めたときに、甘寧という男が奮闘した。結果として凌将軍は命を落とした。
「なぜ凌将軍が死なねばならなかった」
 そう言ったときに、静かに彼に答えたのは魯子敬だった。
「運が悪かったのだ。敵軍にそれだけの弓を扱える男がいた。それは運だ」
 納得いたしかねると言った呂蒙に、魯子敬は微笑して呂蒙を見た。
「呂子明、凌将軍の器量は狭かったかね?武技はいたらなかったかね?」
 大器あり、武芸もいたらないことは決してないと呂蒙は答える。
「ならば運を味方につけることができなかった、ただそれだけのことだ。例え韓信がいかに強くとも、寝ているところを刺されたらどうにもならんだろう。同じこと。凌将軍がいかに武芸にすぐれていようと、矢がまぐれでも急所に当たればそれまで」
 うむと呂蒙は唸った。
 ところが、納得していない奴がいたのである。
 凌将軍の息子で凌統という。
 彼が別部司馬に任命されたとき、彼は奇しくも呂蒙が初陣を飾ったのと同じ15歳であった。
 甘寧が呉に投降したのは建安13年のことである。
 そのときの彼の口上を、呂蒙は忘れていない。
「巴を落とし、南を固めて北に対抗いたします」
 もっとも覚えているといってもこの一言だけだが。
 すでに呉軍にいて久しい呂蒙が、甘寧と凌統の二人に関わることになったのは不運であった。
 このころには陸遜という男も同僚にいた。
 陸遜というのはいくらか呂蒙よりも年少の男で、彼の縁談を聞いたときには、さすがに心裡暗澹としたものだ。陸遜の妻というのが、呂蒙の敬愛した伯符将軍の娘だったからなのだが、これには伯符将軍の親友である周公瑾も加担していたため、呂蒙がどう静止できるものでもなかった。どこか、妹を嫁にやってしまったような気になったのは、事実である。
 建安13年は東呉の人間にとって、忘れがたい年であった。
 総指揮官を周公瑾と程徳謀に、北の大勢力である魏を下したのである。北の魏は、これまで大敗という大敗を喫することは稀であった。
 その少し後、満天の、冬の星空の下で周公瑾は死んだ。
 魯子敬が総指揮官を務めると聞いたとき、呂蒙は内心不本意であった。
 程徳謀が務めるというのならばわかる話が、魯子敬という男はこれまで文官として呉にいた男であった。
 タカ派の周公瑾から、ハト派の魯子敬に変わったことで、対劉備政策は大きな変化があった。なかなか劉備という男を下さない魯子敬に、呂蒙が業を煮やした。
 なぜ劉備を追い詰めないのです
 魯子敬はにこりと笑うだけだった。
 呂蒙は魯子敬の前に、思いつく限りの計略を並べてみせる。軍に入ってから春秋を習ってきた。こと春秋ということになると、魯子敬は詳しかったのだが、その魯子敬に計略がないはずはないと呂蒙は思っていた。
「呉下の阿蒙にあらずや。よくこれだけ勉強したものだ」
 これまで魯子敬が呂蒙のことを子明と呼ぶことは少なかった。本当に彼を諌めるときか諭すときぐらいのものであったが、これ以来、魯子敬が呂蒙を「阿蒙」と呼ぶことはなかった。
 孫権からの使者が魯子敬をつついたとき、魯子敬は体調を崩し始めていた。
 未だ劉備を下すことはできないのかと苛立つ他の将軍たちを尻目に、魯子敬は尻込みでもするように弱腰外交を続けた。
 夜の風に当たることはやめておけと言われたはずの魯子敬は、楼閣で月を眺めて呂蒙に言った。
 力で勝っても人はつかない。人がつかなければ無意味な勝ちだ。人心を得ることができるというのは劉備という男の強みだが、関羽という男はそうではない。義理人情には厚いが、決して人民を考えることのできる男ではない。子明、お前がこうあればよいと、幼いころ思った通りのことをしてあげれば、人は必ずお前につく、忘れてはならない、戦に勝つということは最低の勝ち、武力など使わずに勝つこと、民衆に慕われるのが本当の勝ちというものだ。ただし、情に流されてはいけない
 呂蒙が魯子敬から聞かされた一番長いお説教だったかもしれない。
 魯子敬から総指揮を任せると言われたとき、青空には雁の一群が飛んでいた。
 呂蒙が魯子敬の跡を継いで、総指揮官になったのは40歳前後の時のことだ。15歳の初陣から25年ほどで、呂蒙は南の軍をまとめる総指揮官になったのである。

 空を見上げる。
 星がきらめいている。
 かつて、この空を見上げて星が降ると言った男がいた。
 青空を飛ぶ雁の一群を見て人の世の中などというものはなんと小さいのだろうと言った男がいた。
 地の果てまでが我らの土地だと言った男がいた。
「空は、今日も青いな」
 ふいに、そんなことが気になった。
 呂蒙、字子明。死に急ぐように生きた呉軍都督たちの一人であった。

 少年十五出初陣、與其姉夫去行軍。
 当成弱年昇将帥、随小覇王而立功。
 男子壮年志学問、暗春秋兮已非阿蒙。
 人到強年作都督、説如此是歩歩高。
(少年十五にして初陣に出で、姉婿と行軍に去り
 まさに弱年にして将帥に昇進し、小覇王に随いて功を立てる
 男子壮年にして学問を志し、春秋を暗じ已にして阿蒙にあらざり
 人強年都督となり、かくの如きを歩歩高という)

歩歩高解説

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