禁じる者、禁じざる物、禁じる者を禁ずべし


「中郎将」
 声をかけられて賀斎は手入れをしていた剣から目を離した。
 兵士として参軍している陳という青年が目の前に立っていた。
「まだ賊は降りそうにないか」
 賀斎は陳青年の方を見て、ため息をついた陳青年の様子にため息をついた。
 賀斎の言葉に陳青年がうなずく。
 建安十三年、中央ではこのところ忙しく様々な動きがあるらしい。特筆することがあるとすればと友人からの信に書いてあったことが本当ならば、中央では対曹操戦の論議が活発だということになる。
 中央が気になりますかという陳青年の言葉に賀斎は困ったように笑って返した。
「気にならないといえばそれは嘘だね。でも今は南の方を押さえるのが私の役目だ。派手な役ではないけれども大切なことだよ」
 賀斎はそう言うが、陳青年は中央の議論に参与できないことを賀斎が悔しいと思っていることを知っている。
 賀斎という将軍は自信家である。
 そして呂範と趣味が合うらしい。
 中央の呂範と張り合えるのは賀斎ぐらいのものであろうと陳青年は思う。あの呂範といい友達付合いを続けているというのも賀斎の好みゆえである。
 派手好み。
 しかし賀斎の趣味というのは決して成金趣味というわけではない。ただ精緻なものが好きなのだ。賀斎の剣の鞘を見ればそれはすぐにわかるが、細やかな模様が綺麗に彫られている。龍のウロコなどまできちんと彫りこまれたそれは賀斎の趣味のよさを思わせる。
 元々が悪くない生まれのせいかもしれないが、賀斎の周りに置かれたものは細やかな細工が見事になされていて、陳青年はそれを眺めるのが好きなのだ。
 ひとつ呂範と違うことをあげるとすれば、それは呂範が着物に凝るのに引き換えて賀斎は武器に凝るのが好きだというところかもしれない。賀斎の率いる蒙衝闘船の側面にはやはり精緻な模様が細工してあり、材質にも凝ったその船とぶつかるのを嫌って賀斎との水上戦を避けるような者も中にはいる。
 陳青年は賀斎の手を見つめた。
 賀斎の手は鞘に綺麗に彫りこまれた龍をぬぐう。綺麗に漆を塗ってしつらえた鞘は黒い身に白刃を納めて威厳を増したように陳青年の目には見える。
「すこし待っておいで、一緒に散歩をしよう」
 賀斎に微笑まれて陳青年ははいとうなずいて賀斎に出された酒を手で覆って一口飲んだ。
 酒や茶を飲むときに手で覆うのは儒教の習慣である。年長者や自分よりも上位にある人間の前で酒を飲むときには必ず手で覆って杯を隠して飲むのだ。
(中国の一部や韓国では現在でもこの習慣が残っている)
 それを見てにこりと笑い、賀斎は剣を置いて甲冑をはずす。
「将軍!何なさってるんです」
 慌てた陳青年の声に賀斎は散歩に行くんだと軽く言って陳青年をあきれさせた。
 出かけてくるよという賀斎の言葉に幕舎を守っていた護衛の兵士はぽかんと口を開けたままで賀斎を指差した。
「将軍、出かけてくるとおっしゃっても、甲冑も無しで散歩に行って矢でも射掛けられたらどうするんですか!」
 慌てたままで賀斎を幕舎に押し戻そうとする陳青年の声に護衛の兵士が同調したが、賀斎は大丈夫だといって取り合わない。このあたり、賀斎の無謀さは亡き孫策の上を行っているようでもある。
 押し留める兵士を振り切って林歴山に出向いて賀斎はあきれた。
 四方を壁のような岩で囲まれた林歴山の高みに陣取った賊を攻めるのは簡単ではない、むしろ不可能に近いのではないだろうか。
 だが持久戦は確実に自軍が不利を被るだろう
 賀斎はため息をつくほかなかった。
「日が暮れます、将軍」
 陳青年の言葉で賀斎はそうだねとつぶやいてきびすを返した。
 その夜、中央から戻った伝令は賀斎に孫権が対曹操戦を決断したことを報せた。伝令が持ってきた報の中には周瑜が孫権を口説き落とした文句が記されている。
 曹孟徳は未だ北を収めず、西を制さず、後確実に憂いとなりましょう
 周瑜の言葉は的確だと賀斎は感嘆したが、しかし呉とて状況は変わらない。孫権は南を制しきれていないのだ。
 周瑜、程普、呂蒙、甘寧、凌統、周泰、黄蓋、呂範、孫賁、潘璋、陸遜…
 並べられた将軍の名前を見て賀斎はそうそうたるメンツだなと苦笑した。
 このメンツで三万の兵を率いての戦とはなんともはやと賀斎は大きく息をついた。中央の展開は早い。それに比べて自分は何をぐずぐずしているのかとじれったくなる。
 賊が林歴山に陣を張って久しく睨み合いが続いている。
 賊は一つのグループだけではない。
 今はこの林歴山で陳僕、祖山らの率いる二万を相手に睨み合いを続けているが、しかし金奇の勢一万が安勒山に、毛甘の勢一万が烏聊山に陣取っている。合計で四万、持久戦などでもたついてはいられない。兵糧は限られている。今度徴税などと言ったらどこで乱が起きるかわからない。
 自分の幕舎で牀に寝転がってそこまで考え、賀斎はふんと鼻を鳴らした。
 一体自分は何をしているのか。
 まだ賀斎が少年の面影を残していたころ、むやみに徴税をする太守に怒りを覚えて彼を殺した。山越と関わりがあると聞いて頭に血が上ったのだ。あんな太守と同じように民衆に見られているかもしれないと思うと腹が立つより先に悲しいような気がした。
 ふいに賀斎は上半身を起こしてあぐらをかき、ぽんと手を打って好!と声をあげて護衛の兵士を驚かせた。
「中郎将、なにがあったんですか」
 幕舎の入り口の布を広げて問いかける護衛兵ふたりに賀斎は身軽な兵士を集めるんだと言って彼らの顔を見比べた。
「もちろん秘密裏にね。表立って集めるな、身の軽さに自信のある若い兵士をいくらか呼んでくれ」
 持久戦に飽き飽きとしてきていた護衛兵は賀斎に奇計ありと見るやいなやにやりと口元を上げてでは動くのですねと賀斎に確認し、賀斎はそれに目でうなずく。
「だが、もう少し準備には時間がかかるから焦ってはだめだ。まあ何もできることがないままに時間を浪費することはなくなるから喜べ。林暦山を開拓する」
 賀斎の言葉に護衛兵はがっくりとうなだれた。
 持久戦はまだ続くのだ、それも開墾というおまけ付きで。
 林歴山の中には木を切り開くことで道を広げることのできる道がいくらかある。その道を広げれば多くは望めなくても少数精鋭を通すことができる。
 燎が月明かりにちらちらと火の粉を飛ばしている。
 それから軍楽隊かとまた幕舎内に退きとって賀斎は腕を組んだ。
 賀斎の軍楽隊はさすが賀斎と言ったところであろう。
 日に映える銀の飾りをつけた甲冑をまとった軍楽隊員が鼓角を鳴らすさまは勇壮という二字が似合う。やはり賀斎の趣味で精緻な模様を彫りこんだ鼓角は見た目にも非常に見事である。音の精緻さでは周瑜の軍楽隊には敵わないが。
 軍楽隊には鼓角を増やして、それと鍛治職人を雇う必要があるか
 賀斎の脳裏では急速に計画が展開をはじめた。
 翌日からは賀斎に率いられた呉軍陣営内のそこかしこで急速な状況の展開が始まった。
 身軽な兵士は甲冑から身軽な鎖をしつらえることになり、同時に岩上りの練習時間を普段以上に多くとる羽目になった。
 軍楽隊では鼓角の調整が始まり、鍛治職人の手伝いで鉄戈の造成が行われ、陣中には金属の音が響きわたる。
「これからが正念場になる、いつまでもぐずぐずしていられないからな」
 楽しそうに口角を上げる賀斎に陣の男たちがわっと歓声をあげた。
 持久戦の終わりを告げる賀斎の宣布だ。
 おりしも柴桑、ハヨウから呉軍の船団が動き始めたころである。
 これ以上の持久戦はできない
 賀斎の焦りは治まらなかった。


2へ続く。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送