和州拒金
眼前に金の兵士が馬を並べる。
和州は宋の要地、和州を落とされれば宋が落ちるのは目に見えている。
南宋寧宗開禧二年
この年は金の章宗泰和六年にあたる。
和州に赴任して以来、周虎は蘇州に戻っていない。
蘇州では妻が家を守っているが、果たして自分が帰ることができるのか、それもおぼつかない。
五月には金軍征伐の詔勅が発令され、十月には金軍が渡河して楚州を囲んだ。以来南宋と金の攻防は激化してきている。
加えて内乱だ。雅州では李爽らが内乱軍を相手にしている。
だが南宋の将軍たちのほとんどは皆金軍に備えて要地に赴任されている。
今月に入って、辛巳に攻撃を受けた棗陽の軍は翌日壬午には金に突破されている。
周虎の聴いた報告では、棗陽の軍を攻撃したのは金の将軍・完顔匡という。
現実として、金の猛攻に曝されているのは和州だけではない。
盧州や西和州も同様の危地に置かれている。
この周虎はもともとが武科挙の出身で、たたき上げの軍人たちからはあまり信用されていないのを自分で感じてしまう。
砂塵を巻き上げて走りこんでくる馬がいる。
重い音がして和州の城門が開き、早馬を疾駆させてきた兵士が周虎の部屋に駆け込んできた。
「何があった!」
急いで馬に駆け寄る兵士たちに、早馬の伝令兵は喉も枯れんばかりの声を張り上げた。
「江陵より参る!和州周叔子将軍に報!」
張り上げた声が聞こえ、周虎は急いで部屋を開けた。
息を切らした伝令兵は転びそうになりながら部屋に入ると、周虎の前に膝をついて拱手する。
「申し上げます、金軍、神馬坡に攻撃!」
周虎の目が兵士に向けられ、兵士はたじろいだ。
武科挙出身の将軍というのはどこか及び腰なところがあるものだと兵士たちは思っていたが、周虎という将軍はその意識を払拭した。はじめ周虎をバカにしていた和州の兵士たちは今では周虎を頼りにしている。
兵士たちの目が周虎に集中する。
周虎の漆黒の瞳は兵士をまっすぐに捉えている。
「いつのことだ」
低く穏やかな周虎の言葉に、兵士は膝の前に片手をついて返事をする。
「甲申」
甲申と周虎が小さく繰り返すのを無視し、兵士は続けた。
「江陵副都統殿は襄陽へ行かれました(去襄陽)。金軍将軍は完顔匡!」
去と言えば聞こえはいいが、逃げたのだろうと周虎にも他の兵士にも見当がつく。早馬を疾駆させてきた兵士が江陵の兵士であるがゆえに、上司が逃げたとは言えないのだろうと。
しかし江陵の副都統が襄陽へ逃げたとなれば、一体江陵はどうなるのかと一抹の不安が周虎の胸中をよぎった。おまけに将軍はまた完顔匡である。完顔匡の将軍としての技量が南宋の要衝を落としているのか、あるいは江陵副都統のような男が陥落を早めているのかわからないが、おそらくはその両方なのだろう。
神馬坡は嫌な男を敵に迎えた
周虎は眉根を寄せて渋面を作った。
「督視はどうした」
周虎の質問に、伝令兵はうつむいたまま返事を返した。
「江淮督視は、金軍へ和議を申し出る所存」
和議を申し出るなどしたら、江陵は陥落したも同然、周虎は天井を眺めるように仰いでため息をついた。
すぐに城門を馬が駆け込む音が聞こえ、周虎は窓の方へ目を向け、それから一瞬目を眇めた。
外では大声が響いている。
「大丈夫か!」
「馬が泡吹いて倒れたぁ!」
声が聞こえてきて、早馬をとばしてきた江陵の伝令兵は顔を上げた。
やはり転びそうになりながら、後から来た伝令兵は周虎に聞こえるように怒鳴った。
「報!」
声と同時に兵士が飛び込んできた。
「今度はどうした」
周虎の落ち着いた声に、伝令兵は深呼吸をして呼吸を整える。江陵の伝令兵には周虎が飲み物を用意するように近侍の兵士に指示した。
もうひとりの伝令兵の言葉を待つように、江陵からの伝令兵は息を飲んだ。
拱手して、伝令兵が報を告げる。
「樊城炎上!」
この報には周虎が目を丸くし、江陵の伝令兵が顔を蒼白にした。
穏やかだった周虎の言葉に険が差す。
「いつのことだ」
声の荒くなった周虎の問いに樊城からの伝令兵は答える。
「乙酉!」
甲申に江陵の神馬坡が攻撃され、その翌日乙酉には樊城が炎上。
一体どうなっているのか。
和州を守る周虎と同じく、盧州を守るのは田琳という将軍である。
田琳の元へも周虎への伝令と同じ報が伝わっている。
「数日でここまで来るか」
金の移動は疾風怒濤と言うに相応しい。
田琳は戦甲をつけ、具足をそろえて城壁に出た。
南宋が落ちるのは食い止めなければならない。
前線で、自分が盧州より宋の中へは金軍を入れないという決意を田琳はしている。
盧州へも金軍は迫ってきた。
すでに目の前には金軍が布陣を始めている。
明日にでも攻撃を仕掛けてくるだろう。
砂塵を巻き上げて南宋を落とそうとする金軍の正面攻撃を前にして、田琳は兵士に反撃開始を告げた。
軍馬を縦横無尽に走らせる金軍を相手に田琳率いる盧州軍が奮闘、反撃を受けて金軍は兵を一時撤退させた。
時に南宋、寧宗は開禧二年十一月戌子。
前日、十一月丁亥には、金の僕散揆が南宋の安豊軍を打ち負かし、霍丘県を取った。またこの日、金のハシリエズレンが淮陰を落とし、楚州を包囲していた。
田琳の奮闘は各地の南宋諸将を奮い立たせた。
庚寅、完顔匡が南宋光化軍及び神馬坡を突破。
一報は田琳にも届いた。
「報!」
早馬が駆け込んでくる。
田琳が厳然とした面持ちで伝令兵を見て先を促す。
「完顔匡、光化軍を破り神馬坡を突破!」
田琳の顔から一瞬血の気が引いたように見えた。
この一報は、他の将軍たちにも届いているだろう。
金軍が神馬坡に攻撃を仕掛けはじめてから七日の出来事である。
続けざまに早馬が城内に駆け込む。
「報!」
矢継ぎ早に来る伝令は、来ては一晩休んで任地へ戻ってゆく。
同時に田琳も周辺の将軍に、盧州の状況を逐一早馬で報せている。
一頭乗り潰しては駅で馬を換えながら、一頭の早馬は盧州から和州へ向かう。
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