和州拒金
盧州の早馬が和州の城門を抜ける。
「報!」
ひっきりなしの伝令が周虎の元へも各地から届く。
和州有事には周虎も伝令を各地へ走らせなければならない。
「どこからの伝令だ」
周虎に問われ、伝令兵は「盧州」と答える。
盧州、田琳将軍からの伝令か
周虎はそれを念頭に置いて伝令兵に先を求める。
「金軍、盧州より撤退せず」
盧州に金軍が攻撃をしかけ、田琳が一度は金軍を防ぎきったことを周虎は報告を受けている。しかし金軍は手を休めずに攻撃を仕掛けてくるという田琳からの一報は、金軍が機動力だけで動いている軍ではないことを証明した。
神馬坡攻撃の一報を受けてから数日しか経っていない。
次は和州へ向けての攻撃を開始するだろう。
周虎は伝令を休ませるように言い、自分は踵を返した。
楚州が囲まれ、樊城が炎上し、神馬坡が攻撃され、盧州は持久戦になるかもしれない。
それだけの軍を、金軍は動かしている。
今までに聞いた名前は完顔匡、ハシリエズレン、僕散揆。
「誰が盧州攻撃の将軍だ」
周虎の言葉に伝令兵が拱手しなおして答えた。
「壬辰に僕散揆が到着」
僕散揆かと周虎は頭を掻いた。
丁亥に霍丘県を取った将軍だ。安豊軍と打ち合って霍丘県を落としてから盧州へ六日で到着、一両日は攻撃を仕掛けまい。田琳の出方を待っているとしか思えない。
夕刻近くなって、空は赤らんできた。
その中をまた早馬が駆け込んでくる。
「報!定遠敗戦!」
定遠県の軍が金軍に落とされた。
伝令兵が周虎の部屋へ駆け込む。
「和州将軍に報、定遠県、金将軍ハシリエズレンに敗戦!」
ハシリエズレンが定遠県を取った。僕散揆はすでに霍丘県を取って次は盧州を狙っているところ、完顔匡は神馬坡を落としたと昨日一報が入っている。
「報!」
矢継ぎ早の早馬だ。
この日、周虎の元へは三回の早馬が飛び込んだ。どれも壬辰のことである。
「督視、江淮の兵馬を率いて金軍に講和申し入れ!」
これで江陵方面は金軍が駐留することが決まったようなものだ。
周虎は舌打ちした。
荊楚の地はすでに金軍に蹂躙されているも同然だ。
情けない、これが南宋の軍か
日が暮れてからの抗戦はない。
和州は落とさせない、田琳は盧州を守りきるだろうと周虎は信じる。
それでも盧州か、和州か、どちらかが落とされれば互いに危うい。
どちらかが落とされれば、金が宋の南部にまで迫ってくることは間違いがない。
この和州の兵士に家族がいるように、周虎にも家族がいる。
特に頑固者で和州にまで付いてきた母と息子がいて、蘇州には妻がいる。
蘇州の妻は、一体今頃どうしているだろうかと周虎は日も暮れた空に浮かぶ月を眺めながら思う。
月は蘇州でも同じ月だ。
昔は法水寺と言われた場所に周虎の邸はある。
山紫水明、風光明媚と言われた蘇州はそのままの面影を残している。その蘇州に邸を構えるのは誰もがうらやむところだ。
法水寺であった邸は、今では巷で武状元坊と呼ばれている。
周虎が武科挙の状元、武状元だからだ。
それ以前は周将軍巷と呼ばれていた。
なぜなのかと聞くと、夫は自慢げに言ったものだ。
「この邸はずっと昔には三国志の英雄だった周瑜が住んでいたそうだ」
夫と同じ周姓の英雄は才色兼備だったそうだという。
「あなたも負けてはいらっしゃらないでしょ」
妻がそう言うと夫は少し困ったように頭を掻いた。
ずっと昔、自分と同じように、同じ場所で夫の帰りを待っていた女は辛くはなかっただろうかと彼女は時折思う。
中庭に造られた池には月が映って揺れている。
同じ月を、夫は見ているだろうかと考える。それとも月を眺めているような余裕はないだろうかとも。
和州攻撃が始まる前に、息子と母を蘇州に戻すと夫は言っていた。
息子は帰ることになったが、夫の母は頑として蘇州に帰るとは言わなかったそうだ。
これほど心配をしなければならないのであれば、自分も無理に和州へ付いてゆけばよかったと彼女は考えることがある。
そのたびに、戦場で妻がいては足手まといにしかならないのだと周虎に困ったような顔をされた。足手まといと彼が言うのが本音ではないということぐらいは彼女にもわかっている。
彼女が膝の上に広げた周虎の信には整った字が並んでいる。
武科挙を受ける人間の中には字もろくに書けないようなのがいると聞くが、周虎はきれいな字を書き、よく詞を詠む。
武科挙でも文科挙でもよかったのだろうが、周虎は武科挙を受けることを選んだ。
もっとも妻には、もしも文科挙を受けていたら将軍になどならずにすんだのだろうにと恨む気持ちもある。
蘇州へ流れてくる噂では、夫のいる和州の周辺が金軍に攻撃されているという。
明日にでも、夫のいる場所も金軍との戦が始まるかもしれない。
目の前にある琴の弦を弾いて少しため息を漏らし、ここで夫を待っていたもう一人の女も同じため息をついたに違いないと思って彼女は苦笑した。
周虎が武状元になったのは十年前のことだ。
数十斤の弓を引く周虎が雅文に秀でると知ったときには驚いた。
夫婦ふたり、一緒にいられる時間は限られていたが、周虎が武術教官になったときが一番平和であったかもしれない。武術教官を終えて以来はずっと最前線を任されている。
知州、楚州、和州と、どこも金軍の攻撃に曝されている場所だ。
その場所を、夫は幾度となく守って無事に帰ってきた。
懐に入れた信は、ついこの間もらったものだ。
いちど閉じた信をもういちど開いて、夫の字を眺める。
無事でいることを知る、このときだけが安心できる時間だった。
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