干戈弓弩
孫策の剣が風を薙ぐ。
男の首が虚空を飛ぶ。
鮮血がほとばしった。
狩りの獲物を持ち帰るはずだった孫策は、男の首を持ち帰ることになった。
建安五年旧暦四月四日、西暦200年のことである。
孫策に首をとられた男たちは、そもそもは呉郡太守であった許貢という男の「客」だった男たちだ。
「客」とは訪問者のことではない。
雇用人ではなく、主人が礼を尽くしてもてなす参謀役らのことだ。
許貢という男を殺したのは孫策であり、彼らは「客」として許貢にもてなされた義によって、孫策を殺して仇を討とうという輩だった。
「なにやってんだ、あの男は」
呆れてつぶやいたのは、孫策の友人であり配下でもある、周瑜という男だ。
この西暦200年という時期は、後漢の中央政府が混乱を極める、その最中だった。
まるで300年も400年も前の秦王朝の末期と同じように、各地の群雄が割拠する時代となったのだ。
貴族だったものが没落し、貴族でもない者が頭角を現すことができる時代だ。
そういう時代だから、貴族出身だった周瑜は抵抗なく孫策の配下に付くことを考えたのだろうし、官職をたらい回しにするようなつまらない貴族から抜け出すこともできた。
孫策が狩りに行くなど、どこからどう話が漏れたものかと検討がつかない。
そして孫策が狩りに行くなど、自分は聞いていなかった。
狩りに行くことをわざわざ周瑜に報告する必要もないのだが、しかし、孫策は許を攻めると言って軍を集めたのだ。
「練兵中に総大将が狩りに行くなんてのが、まずどうかしている」
周瑜がもう一度つぶやく。
その狩りで、孫策は刺客に襲われたという。
刺客の放った矢は紙一重で孫策を掠めたに留まり、彼の命に別状はないというが、面白い話ではない。
北では混乱のなかの二大勢力となった袁紹と曹操が対峙しており、本拠地である許を曹操が留守にしている間ならば、自分たちが許を攻撃して帝を擁立することができるというのが孫策の言い分だった。
曹操は袁紹に勝てないだろうというのが、ほとんどの人間の見方なのだが、ところが用兵に抜きん出た曹操と、おっとりとしてはいるが自己中心的な袁紹と、どちらが勝つかとなると見当をつけにくい。
「袁本初之仁是宋襄之仁」(袁本初の情けは宋襄公の情けと同じである)
周瑜は独り言を言う。
かく言う周瑜は、袁家のなかでも、袁術という男の配下にいたことがある。
孫策も同じく袁術の配下にいたことがある。叔父が手配した見習い出仕先が袁家と聞いたとき、周瑜は「腐れ縁というのはこういうものだ」と首をすくめた。
「曹孟徳之軍是晋文之軍」(曹孟徳の軍は晋文公の軍と同じである)
ふんふんと鼻を鳴らしながら周瑜はまた独り言を言う。
宋襄も晋文も春秋の君主である。
このふたりの中身は正反対で、要らぬ「情け(仁)」をかけて大局を見失い、結果として惨敗したのが宋襄であれば、「情(仁)」を手にしながらも、大局を見極めて戦に挑み、覇王となったのが晋文だった。
しかし、孫策が言うほど巧くいくものだろうかと周瑜は考える。
第一孫策ときたら江東にいるのに、官渡で袁紹と曹操が対峙を始めてから「許を攻める」などと言い出すのだ。
それなのに狩りに行ったとはどういうことなのだろうか。
「これもいつものことだけど、あいつ何考えてんだか」
周瑜としては、そんな暇があるなら兵士を見てやれよ、と言いたい。
韓非子ぐらい読んだだろうがと周瑜は言うものの、なぜ有効なのかよくわからないと言って孫策は放り出すのだ。その点を見ていると、孫策よりも弟の孫権が、春秋やら韓非子やらの話に真剣な顔でのめり込む。
面白くて聞いているというよりはむしろ、聞いておかなければ怖いことになるというようなことなのだろうが、友人と数人で寄り集まってあれやこれやと討議をしているのを見ると、周瑜は「ひょっとしたら頭になるとしたら、弟のほうが頼りになるかもしれない」とも思う。
お互いの行動に予測の付く友人同士だから余計、孫策が危なく見えるのかもしれない。
あん畜生と言って孫策がむかっ腹を立てているところを容易に想像できる周瑜は、頭をおさえた。
軽率だからそうなるのだと言おうとも、幼馴染であるせいか、周瑜の言葉はたいてい言葉半分に理解され、半分は冗談で笑われるのが落ちだ。
頼りにしていると言って心服してくれるのはうれしいのだが、なにもかも「大丈夫」ですまされると、あまり心地がよくない。そうして周瑜が「大丈夫だとは思えない」と言うと、孫策は「俺が信頼できないみたいだ」と言って機嫌を悪くする。
機嫌が悪くなったと見て周瑜が「信頼している」と言うと、孫策は「じゃあ安心していろ」と言い切って、そのあと延々と周瑜が言う説明のうち、自分に都合の悪い部分は馬耳東風に聞き流す。
それでも友人でいられるのは、ひとえに「馬が合ってしまった」からに間違いない。
音楽好きの周瑜と、武術一辺倒の孫策に、共通点と言える部分はほとんどない。
例えば周瑜が「辞賦のあれがいい」と言う一方で孫策は「この間作らせた弓が飛ばない」という話しをする。
そうすると周瑜はそれに「なるほど。で、その辞賦なんだが、なかなか巷に出てこない」と言う。孫策は「ふうん、楽府というのはあまり興味がないな。ところでその弓なんだが、もう少し弦を張ったら飛ぶと思うか?」と返事をする。
つまるところ、話がずれていようともふたりは気にならないのだ。
恐らくはふたりとも自分の信念を曲げない性質のために、興味の範囲が合わないほうが上手に付き合えるのだろう。それでも互いに触発されて色々と共同作業をするのだから不思議な縁でもある。
まったくとため息をつくが、やはり友人が殺されたかもしれないということには、助かってくれてよかったと若干安堵する。
「相変わらず突拍子もない奴」
最後にぽつりとつぶやいて、周瑜は声を張り上げた。
「明日には兵をまとめて呉へ向かう!」
死に損ねた男の顔を、なるべく早々に一目拝んでやらなければならない。
嫌味のひとつも言ってやらなければ、と周瑜は思う。
いきなり決まった出立命令に、周りに居た男たちが首をすくめた。
この周瑜という男は、一度やることを決めたら後は行動が早い。結局、周瑜が孫策と馬が合うのは、台風のような性格のおかげだったに違いない。
孫子を枕に、孫策は牀榻(タタミ)に転がってあくびをした。
刺客に殺されかけた男だとは思えないが、殺されかけたのは間違いなくこの男だ。
「公瑾め、俺が無事だと思ってのらりくらりとしていやがる」
ぶつぶつとひとりで文句を言いながら、孫策はまたあくびをする。
「あいつがぐずぐずしている間に官渡でケリがついちまったら、俺は許を攻める隙がないじゃないか」
孫策は、周瑜が聞いたら眉を吊り上げそうなことを平気で言う。
ところがこちらも相手の性格は知っている。
「公瑾のことだから、また無茶はしないでくれと言うのだろうな」
これは周瑜にお願いされているところが味噌なのだ。
周瑜から、無茶なことをと一蹴にされるところを、自分に都合よく置き換えた、孫策一流の覚え違いだ。
孫策にしてみれば、無茶だと言われて引き下がることができるものかという矜持のようなものがある。
枕にしていた孫子を頭の下から抜いて牀榻に広げ、孫策はしばらくそれを眺めた。
どうも眠気が襲ってくる。
今は亡き父からは、ご先祖の書いた書だと言われてきたが、孫策にしてみれば、あまり実用的であると思えないのが実情だ。
「この間は散々な目に遭った。気晴らしにまた狩りにでも行くか」
孫策の一言を周瑜が聞いたら、周瑜は唇を引き結んで睨んでくるだろう。それとも呆れて、言うべきことも言えなくなるかもしれない。
しかし孫策には、どれだけ命を狙われていようとも、殺されない自信がある。
周瑜だけではなく、孫策の配下にいる全ての男の危惧はそこにある。
いつどこが死地になるかもわからないというのに、孫策には危機感がない。それは当然ながら、自分は相手に殺される前に相手を殺すことができるという自信があるからだ。
ふと目を閉じた瞬間、孫策は自分が殺した男の顔を思い出した。
高岱という癪に障る男だった。
ご自分に勝つ人間がお嫌いのようですね
高岱は孫策に、穏やかな笑顔でそう言った。それがどれほど孫策の矜持を傷つけたことだろうか。高岱の顔から笑みが消える前に、孫策は白刃を払っていた。
孫策の眼前に、高岱の影がちらついた。
高岱を斬ったことに後悔はない。ただそのために、それでは自分の狭量を証明したようなものだと母に、悲しげに眉をひそめられたことを思い出す。
少し苛ついた孫策は、孫子を巻きなおしてから、それを枕に寝なおした。
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