干戈弓弩


 青年が馬を走らせながら弓に矢をつがえた。
 きりきりと音を立てて弓を引き絞る。
 弦を引ききって、彼は的が視界に入るのを待った。
 風を切って蒼天に矢が飛ぶ。
 馬上から放たれた矢は、ドッと音を立てて的に当たった。
「いいぞ!」
 声をかけた孫策に、矢の持ち主は馬上から困ったような顔を振り返らせた。
 矢の持ち主は呂蒙という。
 そうして矢を的に当てた呂蒙が下馬して孫策の前に膝をつく。
 甲を着ている間は、拝礼などをする必要がないのが慣例である。片膝をついて軍礼をとる呂蒙の弓を孫策が手に取った。
「軽いな。もう少し重くしたほうがいい」
 つぶやく孫策に、呂蒙が渋い顔をする。呂蒙の弓がとりわけ軽いわけではない。
 孫策の手から戻された弓を自分で引いたところで、自分にはちょうどいい重さの弓なのだからこれに手を加える必要もない。
 先日死に掛けた主人は、死に掛けたこともけろりと忘れて弓の手入れに没頭している。これでよいはずもないのだから、彼が死ななかったことに安堵すると同時に困ってしまう。
「呂蒙、先日のことは気にするな」
 孫策の声が上から降ってくる。
 こう言われても、呂蒙にはうなだれるよりほかにできなかった。数日前、孫策が死に掛けた折、呂蒙はとっさに主を庇うこともできずに孫策の馬を追うだけだった。
 孫策の馬が単騎で先頭にいたのだから、呂蒙以外の部下も全て、孫策の後を追うことしかできなかったのだが、自分たちが護衛すべき主が先に、自分を殺そうとした男たちを捕まえてしまったことに部下たちは呆れた。中でも一番年若い呂蒙は地団太を踏んで悔しかったのだ。そのとき孫策は、呂蒙の様子を眺めながら笑い転げていた。
 これを呂蒙が気にしないはずもない。
 からかわれた憤りに任せて思慮分別のない行動をとって人を殺し、その名誉挽回をかけて軍にとどまり、戦死した姉婿の位を継いだ呂蒙にとって、主を守れなかったことを気にするのはごく普通のことだ。
 このところ毎晩、その姉婿の夢を見る。
 夢とはいえ、いっそ怒鳴ってくれれば楽になるものの、夢に出てくる姉婿はいつも生前そのままの穏やかな表情で慰めるのだ。あまり報われた気がしない。
 姉婿のことを考えながらも呂蒙は、孫策を前にして立ち上がる機会を見つけられずにいたのだが、その脇で馬場に真っ黒な馬が出された。
 馬の嘶く声に、孫策が振り返り、やっと軍礼から解放された呂蒙が立ち上がってひとつ伸びをする。
 漆黒の馬は背が高く凛としており、呂蒙は思わず嘆息した。
 馬の持ち主には彼も幾度か会ったことがある。馬と同じように、漆黒の髪をきりりと束ねた男だ。
 孫策の姿を見て、男が軍礼を取る。
 孫策はと言えば、毎度この光景に渋面を作る。
「やめてくれ、公瑾。おまえに軍礼やら拝礼やらをされると、なにか企まれているような気がして怖い」
 そう言った孫策に、周瑜がからからと笑う。
「企んでなどおりませんよ。なにしろ主従ですから、主をないがしろにはできませんでしょうが。それから、字を呼ばずとも結構。昔馴染みの阿瑜で十分」
 これにも孫策は嫌な顔をする。
 その度に呂蒙は横で苦笑するのだ。
「公瑾は公瑾でいい。桓公は管仲を仲父と呼んだと言うし、文公は狐偃を舅犯と呼んだと言うじゃないか」
 自分を立たせながら孫策の言うことに、周瑜は首をすくめた。
「さて死に損ないの将軍、魯子敬兄から信が届いて、彼は北へ行くと言い張るんだが、どうにかして留めおきたいとは思わないかね」
 周瑜の言葉に孫策は首をかしげた。
 孫策が魯子敬という男に会ったのは、かつて袁術の元に居た折だっただろう。
 見た限り、魯子敬という男は軍人ではないが、生粋の文人という雰囲気の男でもなかった。どのように形容をすればよいのか、軍人にしては穏やかで、文人にしては威圧的な雰囲気をまとった男だ。
 孫策は周瑜に問うような目を向けた。
 にやにやと微笑を浮かべながら周瑜が孫策に目を返す。
「魯子敬兄は頭がいい。手元においておかねば損をする」
 ちらりと孫策が目を動かした先には、孫策の目付け役とも言うべき程普がいる。程普と周瑜の折り合いが悪いのは、この軍の誰もが知っている。
 呂蒙も、魯子敬という男の事は知っている。孫策に従っている間に幾度か会ったことがあった。穏やかで、何をされても大抵は笑顔でかわすような男だ。孫策がどれだけ失礼なことを言った時にも怒ることなく、むしろ笑っていたぐらいだ。
 孫策や周瑜も敵わないぐらい気が大きいのか、それとも笑われていることに気がつかないようなバカなのか、どちらにしろ、呂蒙の理解の範囲を超えている。
「手元に置いておけとは言うが、正直なところ、ああいった男と主従関係でいられる自信がない」
 珍しく気弱な孫策に、周瑜は一瞬呆けた。
「そんなに殊勝なところは生まれて初めて見たのじゃなかろうか」
 周瑜の言い分には、日頃は周瑜にいい顔をしない程普も笑った。
 孫策ひとりは、いかにも困ったように周瑜を眺め、それから横にいる呂蒙へ目を移し、彼が弓の弦をいじっているのを見て、軽く呂蒙の肩を押した。
「騎射の練習でもしてこい」
 言われて呂蒙は、集まっていた中でひとり騎射の練習に戻った。
 風を切って呂蒙の馬が馬場を駆けると、孫策の馬も周瑜の馬も嘶き、首を振って前脚を浮かせた。呂蒙の馬が馬場を駆けるのを追いかけようとするのだ。
 腰に下げた幾らもの矢の中から二本を抜き、一本を咥えて、手の中に残った一本を弓につがえる。咥えた矢に歯を立てながら歯を食い縛り、思い切り力を入れて右腕を引く。
 手前から的を狙い、すれ違いざまに手を放すと、矢は呂蒙の耳を掠めて的を射抜く。
「あいつは上達が早い」
 周瑜がつぶやくと、孫策が、あたかも自分が教え込んだかのように、大げさに胸を張って頷いてみせた。
「あの呂蒙という奴は、ちびのくせに兄貴にくっついてきた。そのときには馬にも乗れなかったんだが、数年で騎射までこなしてやがる」
 褒めているのか、それとも驚いているのか、呆れているのかわからないが、孫策の言い草に周瑜は首をすくめた。
「努力があいつの偉いところだな」
 今度孫策がつぶやいた言葉は、周瑜に言っているのか、それとも独り言なのか、よくわからなかった。周瑜は何も言わずに目だけを一度、軽く伏せた。
「その努力がすごいのだと、魯子敬兄はあいつを気に入っている。ところで子敬兄を軍に入れても良いかどうか、まだ将軍のご意見を承っておりませんが」
 周瑜にちくりと言葉を刺されて、孫策は困ったように頭を掻いた。
「あの威圧的な空気が苦手だ。なんというのか、主従になるような男じゃない。俺が引きずり込みたいのはむしろ諸葛子瑜という男だったんだが、こちらの男には見事に振られたんだ。曰く、俺のようにガサツな男は好みではないのだそうだ」
 くっくっくと笑う周瑜の背中を軽く叩き、孫策はふんっと鼻を鳴らして見せた。
「孫伯符を振るとは、なかなかいい度胸をしていらっしゃる」
 喉を震わせながら孫策をからかい、腹を抱えてしゃがみこんでしまった周瑜の背中を、今度は思い切り叩いて孫策は真っ赤になった。
「俺は失恋して傷ついてるんだ。あまりからかってくれるな」
 言い放って自分の馬に乗り、馬の肩に鞭を入れた孫策を見て、周瑜が慌てて自分も馬に飛び乗った。
「おい!こっちはどうしてくれる!俺はもう、北には行くなと子敬兄を口説いちまったんだぞ!」
 周瑜の言葉を聞いているのかいないのか、孫策は腰を浮かせ、もう一度馬に鞭を入れて馬場を一周させる。横を抜かされて驚いた呂蒙の馬が走り出し、呂蒙は思わず手綱を引いて馬を棒立ちにさせた。
 わるい!と孫策が振り返って言うのとほぼ同時に後ろからは周瑜の馬が迫ってくる。
「子明、大丈夫か」
 馬が落ち着いたところで、周瑜に声をかけられたが、呂蒙は口に矢を咥えて歯を食い縛っているので返事をするどころではない。
 大丈夫かと聞かれたところで、周瑜の馬に追い越された呂蒙の馬は、今度こそ思い切り前脚を上げて走り出し、わっと声を上げた瞬間、呂蒙は咥えていた矢を落とし、後ろから二周目を走らせる主とその友人に向かって、余計な心配はご無用です!と怒鳴った。


3へ続く。

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