干戈弓弩


 あまりにも唐突に決断を求められた。
 陸遜にはそう感じた。
 従兄弟が生きていれば、陸家を率いるのは自分ではなかったはずだった。だが、自分は今、陸家を率いている。だからこそ決断が必要だ。
 陸遜は焦点も定まらぬ目で、虚空を眺めた。
 手元にあるのは、墨も鮮やかな布帛。
「どうすればいい」
 目を現実に戻して横にいる老僕に尋ねるが、老僕が答えられようはずもない。簡単に労いの言葉をかけることはできても、答えを出すのは彼ではなく、陸遜自身だからだ。
「いかようにも」
 老僕の言葉が頼りない。
 孫家に服従すべきか否か。
 それが布帛に記された選択だ。
 だが、と陸遜は苦い顔をする。陸家を痛めつけたのは、孫家の男だ。孫伯符、あの男が陸家に煮え湯を飲ませてくれたのだ、と。その男に仕えることができるかと、陸遜は自問する。
 迷った挙句に、彼が出した答えは「可し」である。
 弟が心配そうな顔で兄を見た。
「案ずるな、孫家の勢いは中原まで届く勢い。これに乗らずば、近々陸家は粛清されるのだろうよ」
 兄の言葉に、弟はため息をついた。

 そのころ、孫策は思いがけない人間の献策を受けていた。
 だがなにも、遠方からはるばると訪ねてきた人間というわけでもなければ、いつも振られてばかりだというような、そんな人間でもない。よく見知った弟だ。
「なんだ阿権、寝られないのか?」
 兄に聞かれて、こちらの弟は困ったように扉の脇で躊躇している。
 彼が見る兄の横には、誰もがうらやむ美貌の兄嫁がはべっている。
「無粋なまねをしてすみません」
 普段のおっとりとして能天気な孫権の様子とはまったく違う様子に、孫策は眉をひそめて妻に目をやった。妻も物分りがよいらしく、にこりと微笑して立ち上がる。
「妹のところからきたお酒、とって参りますわね」
 妹のところから、と妻が言うことには、その酒を持ってきたのは周瑜に違いない。孫策は苦笑して妻の配慮に感謝した。
 時折、男同士の話には女がいないほうがよいこともある。
「どうした」
 妻の後姿を見送って扉を閉めた孫策が、孫権を牀榻に座らせる。
 胡坐をかいて座る兄に対して、弟はきっちりと膝を閉じて正座して頭を下げた。
 目を丸くした孫策に、孫権はただ手をついて頭を下げているのだ。
「おまえ、また何かしでかしたのか」
 心配になるのは兄ゆえだ。この弟は、おっとりとしているようでいて、時々無鉄砲なことをする。
「いえ、陸家のことでお願いにきました」
 陸家の、と聞いて孫策が眉をひそめた。
 潰し損ねたあの陸家か、と小さくつぶやく兄に、弟はやっと頭を起こした。
「潰し損ねた、その陸家です。先日、陸家に信を出しました。孫家の配下に服すれば、陸家に兵を向けはしないと」
 孫権の言葉に、孫策が頷く。
「矜持の高い豪族だ。そうあっさりと服従はしないだろうな」
 苦笑する兄に、孫権が口元をほころばせる。
「服従いたしますよ。朱家が孫家の配下に在り、張家も孫家の配下に在りと脅しましたから、陸家の当主が賢い男なら配下に下ります」
 弟の自信に兄が唸る。この自信がどこからくるのかわからないが、近隣の豪族がことごとく孫家の配下に在りと脅したのであれば、捨て身の覚悟でもなければ反旗を翻してはこないだろうと、とかく根拠もなく孫策は強引に納得して頷く。
「服従しないと言うのであれば、そのときに兵を向ければよいことです」
 ああ、と孫策がつぶやく。
「兄上が用意した兵が、手付かずで残っているじゃありませんか」
 平然と言う孫権の様子に悪びれたところはない。そして孫権の言うとおり、孫策が官渡へ出向いている曹操の背後を突こうと用意した兵は、彼が巻き起こした不慮の事故によって、未だ使われずに予備兵として訓練されている状態である。それを使えばよいと、孫権は言う。
「適当だと思うか」
 孫策の問いに、孫権は「はい」と返事をした。
「おそらく陸家は従うでしょう。実直で思慮分別のある男だと聞いています」
 孫権の主張を、一体短期間で誰に相談しようかと思案する孫策に向かって、孫権がもう一度手をついた。
「その上でお願いいたします」
 あっけに取られたのは孫策だ。
「頼みってのは兵のことじゃないのか?」
 顔を上げた孫権の目に、孫策はぎょっとした。
 弟がこれほど険しい目をしていたという記憶がない。上目遣いに、見ようによれば挑戦的な目を孫権はしている。
「兵のことは、兄上もお考えのはず。兵のことではなく、陸家が孫家に服するという前提でのお願いです」
 一瞬ひるんだ孫策に、孫権がゆっくりと言葉を続ける。
「陸家との縁談を、と、お願いしたい」
 孫策が「誰と」と聞こうにも声が出なかった。
「まだ幼いのは承知ですけれども、仁では気が強すぎる。できれば阿珪を陸家に嫁がせて欲しいと、そのお願いに来たのですけれども、やはり、だめですか」
 腕組みをして口を閉じてしまった兄の様子に、孫権は自分を納得させるように「やはり、だめか」と言い聞かせるように言葉をくぐもらせた。
 孫策が頬杖をついて、それから小さく口を動かす。
「阿珪を、と言って、陸家が納得するか?」
 孫権の目が険しい中に希望を見せた。孫策の目は、孫権を捉えてはいないが、しかし同じ事を考えたのは確かだと孫権は確信していた。
「納得せねば、叛意有りとするまで」
 弟の一言に兄が目を向ける。周瑜が楽しそうに笑っていたのを思い出す。
 あの弟くん、ヘビか、それとも龍か、と言いながら周瑜は孫権を眺めていた。母は弟を産むときに太陽を夢に見たという。自分の時には月であったと。
「策を弄するのはあまり感心しないが、おまえは嫁を与えて、それで陸家を抑えることができると思うか?」
 一喝されるのではないかと内心で冷や汗をかいていた孫権が、安堵したように四肢の緊張をほどく。
「今の陸家の男は、生真面目な男だそうですから、陸家を抑えるには武力よりもよいかと思いますが」
 弟に言われて孫策がにっと口角を上げる。
「あとの難関は、兄の妻、ということか」
 兄が言い、弟はやっと普段の優柔不断にも見える笑顔を見せた。その笑顔を見てばかりいたら、険しい表情の孫権を見て、ぞっとするのではないかと兄でさえ思う。
「ありがとうございます兄上。あとは、陸家に阿珪をやるか否か、兄上次第ですから、兄上が娘を陸家には嫁がせないと言ったところで驚きはしません」
 にこにこと邪気なく言う弟に、孫策はあきれ返った。
 脅すような目で娘を陸家にと訴えていたというのに、言っていることはまるで選択肢があるような言い草だ。
「考えるに値する、というところだろうな。面倒な仕事を兄に任せやがって。自分が考えたのだから自分であいつを納得させてみろ」
 兄の言い分が、もちろん冗談であることを弟は知っている。兄は必ず、妻を納得させようとするはずだと、孫権は確信を持っている。
 近いようで遠い同じ空の下で、陸遜が鬱々と布帛を眺めていることなど、孫権には関係ないのであった。


4へ続く。

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