干戈弓弩


 不機嫌を絵に描いたような呂蒙の表情に、孫策は首をすくめた。
 横で呂範が、はっはっはと豪快に笑っている。
「素直な男だな、呂子明という奴は」
 笑われた呂蒙のほうは、むっとして笑うどころではない。なによりも、なぜ自分が笑われなければならないのかわからない。
「だって貴族豪族というのは、それだけで得をする。陸家の当主って男は、それだけで将軍の娘を嫁にするわけでしょ?それだけじゃなくて、主人の娘が物心もつかぬうちに陸家へ嫁がされるってのが俺には不満です。偉いところの考えることってのが、貧乏老百姓の俺には理解できませんので、そればかりは笑われても治せませんやね」
 不機嫌は、呂蒙の横に陣取っている程普も同じである。もっとも、こちらは自分にひとことの相談もなかったことが寂しかったらしい。
「公子易牙の差し金ですか」
 程普に聞かれ、孫策は一瞬なにを言われたかわからないとでも言うように眉を寄せたが、すぐに理解して首を振った。
「公瑾のことを易牙と言うな。あれは気のいい男で、俺はあいつが好きなんだ。徳謀から悪いように言われるのは嬉しくない」
 ふん、と程普が鼻を鳴らす。
「落ち目の貧乏貴族ですな。顔がいいことで得をしているようなもんです」
 その落ち目の貧乏貴族である周家も、山のいくつかぐらいは所有しているのだが、なにしろ友人のところに兵糧を借りに行ったことが印象を落としているらしい。程普が引き合いに出した易牙というのは春秋の奸臣である。もともと一国の公子であったものが、齊の桓公の下へ身を寄せたが、桓公の死後になって政権を恣(ほしいまま)にしようとしたという話の持ち主である。
 そのころ、その易牙こと周瑜は、自分がひきとめた男と面と向かっていた。
「引き止められただけの価値があると、そう俺が思えるのであれば納得するが、しかし残念なことには、俺があの孫伯符と主従として馬が合うとは思えん」
 目の前に座った魯肅からこう聞かされて、周瑜は渋面で白湯を喉に流した。
 よく考えてみれば確かなことではある。
 どこまでも自分が動き回り、人を動かすことが好きな孫策と、どこまでも自分の調子でやらなければ面白いとは言わない魯肅。なにしろ周瑜自身は自分が動き回ることが好きであり、その方向が大体孫策と同じだから苦にならないが、魯肅となると、自分が納得するまでは動こうとしない。孫策が短気をおこしてイライラすることもあり得る。
「しかし子敬兄、すでに私は伯符に子敬兄を引き止めてしまったと言ってしまった」
 周瑜が困ったように言うのを聞いて、魯肅は笑う。
「なに、会うだけは会う。この間君と約束してしまったからな」
 この言葉に安堵して、周瑜は苦笑した。
「子敬兄ときたら人が悪い。人をはらはらさせるのが得意だ」
「馬が合うとは思えんと言ったまで。馬が合わんとは断定しておらんだろうが」
「それ、会って見なければわからんというのであれば、馬が合うかどうか会って見なければわからんと言えばよいものを、わざわざ自分で思えん、なんぞと断定する。それがわかりにくい」
 杯に白湯を汲みながら、魯肅は相変わらず人のよさそうな悪そうな顔をほころばせている。
「なぜ孫家に期待しようと思った」
 魯肅の視線に、周瑜は杯を持つ手を少し止めた。それから口元まで杯を上げると、一気に白湯を喉に流し込む。白湯を飲み下して杯を置き、これが酒であれば興ものろうが、と独り言をつぶやく。魯肅の目はひたと周瑜をとらえて放さない。
「孫家を選んだというわけではない。孫家に惹かれたというのが本当だ」
 周瑜が言うのに頷いて、それから魯肅は手元の杯を転がして遊び始めた。
 続く言葉があるのだろうと魯肅が期待していることは、手元の杯で遊びながらも周瑜を眺めている目が先を促していることに見て取れた。
 少々苦い顔で、周瑜は口元を濁す。
「なんと言えばよいのか、王朝を潰すことができるのではないかと、そう、思ったのだ」
 手を止めて、魯肅が口を開く。
「酒がよければ老僕に持ってこさせよう。白湯がよいと言うのであれば、また侍女に白湯を持たせるが」
 周瑜は唐突に、魯肅が自分と全く違う人間だと気が付いた。いや、望まずとも彼が自分とは全く違う種類の人間だと気付かされたと言うべきだ。
 杯を脇に避けて、最善から机の上に置いてあった巻物を手にしながら落ち着いた様子でゆったりと座っている魯肅は、少しばかり分が悪いと口をつぐんでしまった周瑜を見ようともしない。
「あなたが面白がっていた孫伯符はこの世に留まった」
 周瑜の言葉に魯肅は目を上げて、それから巻物を置いてまた杯を手に取った。
「短気な将軍は私の主人には向かないな。袁家と同等の勢力が出来上がるまで待つことのできる曹孟徳の方が私はやりやすそうだ」
 この言い分に周瑜はむっつりと押し黙った。
 孫策が短気であることは認めるが、魯粛が敵方に回ったとしたら自分は勝つ自信がない。
 他人が見る以上に魯粛という男は手強い。
 これが周瑜の魯粛評である。
「今一度ご考慮願えないだろうか。孫伯符の勢力は中原と比べても遜色の無い勢力にまで育っている。上手く立ち回れば天下も平定できる」
 とん、と魯粛がひとつ机を叩いた。
 周瑜がびくりと肩をそびやかす。
「公瑾弟が見込んだ男は私を扱いにくいと言ったのだろうが。主にならんとする男も気が合わぬと言い、仕えんとする男も気が合わぬと言う。なら本当に気が合わんのだろうさ。気の合わん者同士が主従になってもいい結果になるとは思えん」
 魯粛の言葉は冷たい。
 しばし眉をひそめてから、周瑜は孫策からの布帛を思い出した。
「あれでも単なる短気ではなく、気を遣うことはできる」
 慌てたように言う周瑜を見て魯粛は目で先を促した。
「それが証拠に陸家に兵を向けてはおらんのですよ」
 一度潰し損ねた陸家に対して孫策が兵を発しないことがそれほど重要かとも思うが、それは魯粛という男に対して孫策という男の評価を幾許かでも変えさせる手になる。周瑜はそう見ている。
 魯粛は首を振った。
「陸家に兵を向けなかったのは感心だが、孫伯符が自らの意思で止めたのか?」
 とてもそうとは思えない、と言外に魯粛が言っているのがはっきりと聞こえる。
 周瑜は答えに窮した。
 魯粛を魏に取られるのは痛い。どうにかして止めねばならないと思うが、嘘をついて伯符自身が考えたと言えば後で魯粛の侮蔑に耐えなければならない。
「いいえ」
 苦渋の末に発した一言だった。
「弟ですよ。伯符の」
 魯粛の目が周瑜を凝視した。
 孫伯符の弟が孫策を制止したとなれば見るべきは孫策よりも弟である。
 魯肅が思案顔でじっと宙を見つめてから口を開いた。
「孫伯符という男は、私が見たところ、兵を動かし始めれば勢いをつけて士気を高揚させることができ、勝敗を左右することのできる将軍だと思うが、だが力ずくの戦しかできない将軍でもある。違うかな」
 評は辛いが、周瑜には反論ができない。陸家を下そうというのも、孫権が婚姻を提案しなければ兵を向けたに違いない。それがわかってしまうから、魯肅の評価にも文句が言えない。
「私は」
 少しばかりの間を置いて、周瑜はぽつりと口を開いた。
「孫伯符という男も好きだし、魯子敬という男も好きなんだ。できることならば同じ所で力を合わせることができればいいと思う」
 この言葉に呆れたように、魯肅が首を振った。


5へ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送