江陵晩暁


 劉皇叔に急ぎ使いを出せ
 言ったのは魯肅である。
「呉軍は水路を追うとお伝えしろ」
 魯肅のきびきびとした声に使い役を任された兵士ははっと拱手して馬に飛び乗った。
 昨晩のうちに火をかけられた魏軍船は夜明けにはすでに黒ずみと化した。
 沈んだものもあれば、黒ずみになったおかげで浮いている破片もある。
 そのうちの少しは昨日まで黄蓋の部隊が大事に手入れをしていたものだ。
 魯肅は自分の船からそれを眺めて首を振った。
 今のところ魯肅は賛軍校尉という位を得ているが、この賛軍校尉というのは決して伝統ある地位ではなく、三国時代に初めて使われ始めた参謀長の名称である。この賛軍という言葉も三国時代にできたものだ。
 周瑜の軍の正規校尉である陸遜が隣の船でてきぱきと指示を出している姿が見える。
 呉軍の将軍の下には五部の主力小部隊が置かれ、その各部にひとり校尉が置かれる。
 この場合では周瑜が本隊の総指揮官である都督を拝命しており、その横に程普、その下の下の校尉として陸遜がいることになる。
 昨日の合戦で黄蓋が負傷したため、黄蓋隊はここから撤退することになり、周泰隊がその護衛についた。
 ここから江陵までの主力部隊は韓当隊、呂蒙隊、甘寧隊、凌統隊だ。
 すでに甘寧隊は赤壁を出港して江陵へと向かっている。
「出動!」
 呂蒙の船の鼓角がドンドンと鳴らされはじめた。
 ここから江陵までは少なく見積もって五日ほど、多く見積もっても一週間ほどだろうと魯肅は見当をつけていた。
 劉備率いる軍が陸路を追うが、これを当てにしようとはやはり思わない魯肅である。
 夕べの花火はでかかったという雰囲気であたりを見まわしている魯肅に周瑜は首をすくめた。
 なんつー肝の太さだ
 大抵あれだけの戦があれば、昨日の様子で興奮しているか、さもなければ一仕事終えたと気が抜けるかというのが兵士たちの反応である。
 それがこの魯肅という男は普段の食えない昼行灯ぶりで自分の船の甲板を往来して自分の指揮下にある兵士たちをいらだたせている。
 甘寧は自分の指揮下の兵士たちを昨晩のうちに鼓舞して今朝早く出港した。
 どこの部隊でもその将の気質というものは部下に伝染すると言われるが、魯肅のあの昼行灯ぶりだけは伝染されても後に困るなあと妙なことを考えながら周瑜は自分の指揮下の兵士たちを振りかえる。
「さて、気を抜くなよ、これからが本番だからな」
 周瑜の言葉に甲板に出ていた兵士たちがおーっと声を上げる。
 魯肅の指揮下に舞わされた兵士たちは、まだ校尉からは声がかからないのかとじりじりしながら見回りをしている。
「さて」
 魯肅の一言に横にいた兵士の顔が緩んだ。
 やっと昼行灯が口を開いたわ
 兵士の内心など関係なく、魯肅は一つ息を吸った。
「次のお相手は誰が来るか、ひとつその面を拝んでこい」
 大き目の、いつもと変わらないテンポでのんきに言う魯肅に横にいた兵士は息をついた。
 どうもこの人は、まだ四十にもならんというのにまったく五十も六十にもなる爺さんのような人だ
 この魯肅と、その親友諸葛瑾がすでに一部の若い将たちによって茶のみ友達扱いされていることは兵士の預かり知らぬところである。
「私はここから報告に帰らなくては」
 他人事のような魯肅の言葉を、兵士はもう少しで聞き逃すところだった。

「ヘイッ!ゼマネイ個老頭也一起走過来ナ(何であのオヤジまで一緒に来るんだよ)!」
 甘寧がついてくるのが不満な凌統は、呂蒙の船団を見て息をついた。
 我慢しろと呂蒙は言うが、しかしどうして父の仇を討つことすらもできないのか。
 それはひとえに奴が同じ呉軍に来てしまい、おまけに呂蒙と気があってしまったからであると凌統は信じている。
 すきだらけに見えてどうしても手を出せないのは呂蒙を計算に入れてしまうからであると。その実凌統が未だに甘寧に手を出せないのは、甘寧に比べたときの凌統の腕のお粗末さゆえである。
「ヘーヘーヘー、今度こそ奴の船を沈めるなりなんなりして見せるからな!」
 呂蒙が聞いたらまた怒鳴られそうなことを平気で言うのがこの凌統の凌統たる所以である。懲りるということはないのだ。
「そうか!今度は地上戦もあるのだな、ということはそこで後ろからカーっと一矢!いやいやいや、そいじゃ足りね!」
 こんな凌統の指揮下の兵士はもうすっかり慣れてしまい、こんどは凌統がどんなアホなことを思いつくのかを楽しみにしているという。
 父の凌操が聞いたらお粗末すぎて泣けるであろう計画を懲りもせずに立てる凌統は、それでもこれが父の報仇になると信じている。
 そんな凌統を隣の船団から眺めて、甲板をふらつく凌統に呂蒙はため息をついた。
 これは決して懲りていないな
 呂蒙思うに、下から船を削って甘寧の船を沈めるとか、戦闘中に間違ったふりをして矢を射掛けるとか、手がすべってふりをして剣を投げつけるとか、甘寧の部隊に混じりこんで後ろから刺してやろうとか、そんな手段では甘寧には効かないと思う。
 甘寧を殺すのであれば、自分ならばまず甘寧を酔いつぶす。同じ陣にいるという特権を十分に生かさなくてはと考えて呂蒙は頭を振った。
「等等等(待て待て待て)、呂子明、ゼマ我想殺興覇的辨法エ(なんで俺が興覇を殺す方法を考えとるんじゃ)、我応該想的是保護興覇ラァ(考えなきゃならんのは興覇を守ることだろが)」
 疲れたようにため息と一緒につぶやいて呂蒙は頬杖をついた。
 この男、どうもあちらこちらに気を回すのはよいが根本的に少年時代から習慣づいている軍人思考であるためか、やはり攻撃の方法を考えるほうに頭が回る。彼の脳裏で思いつく限りの作戦というのはかなり正確に全てのパターンを想像できているのだが、呂範や潘璋といった人間に比べて控えめな性格であるためか、やはり能用マ(使える)?というような疑問符が最後につくのである。自分が周瑜や魯肅、陸遜という面々と比べて無学問でここまで来たというのがその理由の大きな一端である。
 呂蒙から見て凌統の父というのは立派な将軍である。
 これは過去形にはならない。
 立派な将軍というのはいつまでも現在進行形で立派な将軍なのである。
 息子のあんな様子を見たら、自分なら泣けるよなあと呂蒙は思う。
 そこではたと呂蒙は気がついた。
 もう数日で年明けだろう、一つ老けたら…これってのはいわゆる婚期を逃したというやつだろうか
 嫌なことに気がつき、呂蒙はもう一つ大きくため息をついた。
 小さなカミさんにどんな土産話をしたらよいだろうかと悩んでいるなどと陸遜が言ったならば、このときばかりは呂蒙にげんこつの一つも食らっていたかもしれない。そしてこんなところで嫁さんの心配をする羽目になった呂蒙を慰めるのはやはり呂蒙専用代筆業でちまちまと稼ぎ始めた小梁なのである。
「ウェイウェイウェイ!中郎将、礼記見てくださいよ、ゼマヤン(どうです)!三十で結婚するのがいいと書いてありますよ。適齢期じゃないですか」
 慰めは要らんと呂蒙に言われて呂蒙の前に腰を下ろしたものの、小梁はそれこそ呂蒙に伝染された風邪っ鼻をすすって息をついた。
 その実僕だって嫁さん探しをしないと田舎の母に孫の顔も見せてやれないんですよ
 内心で悪態をついてみる小梁の給料は、春秋講義でいくらか呂蒙から金をもらえるようにはなったようである。それが実は呂蒙の結婚資金から引かれているのかどうかは呂蒙のみが知っており、後々小梁の結婚資金になるのかどうかは小梁のみぞ知る。
 そうして今日も、呂蒙の船の甲板では周瑜曰くところの二人の読経が繰り返されるのであった。


江陵晩暁2へ続く

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