江陵晩暁


 地図を広げて甘寧は伸びてきた髭をさすった。
 また切り揃えにゃならんなあ
 そんなことを考えながら指で赤壁から江陵までの長江の流れををなぞって甘寧はふうむと一つ唸った。
 どう思う
 甘寧に聞かれてそりゃ頭領と古参の兵士がやはり長江の流れをなぞって江陵の脇をその指で叩いて見せた。
「ここを落とすのが手っ取り早くはありませんかね」
 古参の唐虎の言葉に、甘寧はにやりと笑った。
「やはりそう思うか」
 にやにやと地図を眺めながら言う甘寧に唐虎ははいとうなずいて問題はと自分のあごをさする。
「問題は、ここをどれだけの人間が守っているかっちゅーことでしょうな。昨日は運がよかったんすよ、人数の差があれだけあっても水上戦っしたから俺たちにゃ持ってこいだったっしょ。でもねお頭、これ見てくださいよ、この夷陵ってところは決して水辺じゃないんです。だからもし、もしですよ、魏からの援軍がここにたまっていたとしたら、そりゃ俺たちにゃたまったもんじゃねえんです」
 唐虎の口から継がれる言葉に甘寧はふんと唸る。
 考えないわけでもないが、逆に地形を逆手に取ることもできないではないと見える。
 さて、どうするか
 少し考えてから甘寧は、見張りの所へ足を運んで都督の船は来たかと声をかけた。
「もう見えてきましたよ。結構早いもんですね、東呉の軍つーのも。黄祖のところにいたときにも何度かやりあいましたけど、結構使えるじゃないですか」
 言ってから、今は同じ軍だろうがと甘寧に軽く叩かれて見張りの兵士は首をすくめた。
「速度を落とせ!旗艦に接しろ!」
 はっと声が上がって船の速度が下がる。
 腕の見せ所が待っているか、それともここで討ち死にか
 甘寧は自分で声もなく自分に問い掛けて、それから笑った。
「柄にもねえ、子明に怖気づいたかとは聞かせてなるものか。この興覇、夷陵を落とせるかどうか、いっちょ試してみなけりゃ気もすまん!」

「興覇の船が横についてきただと?先に出港したのではなかったのか」
 周瑜の言葉に、今朝のうちに旗艦よりも早く出港はしましたと答えて見張りの兵士は持ち場へと戻る。
 首をかしげながらあごをなで、周瑜はあきれたようなため息を小さくついた。
 髭剃ってねえ
 こんな不精髭を妻に見られたら何と言われるかわからないと首を振って周瑜は頬杖をついた。
 以前三十を過ぎたのだからと言って髭を伸ばそうとしたときには散々だった。
 妻には似合わないとけなされ、程普には若造がと顔をしかめられ、子供と甥には珍しいものでも見るかのように眺められ、挙句小喬の命令を受けた侍女たちに取り押さえられて結局髭を剃られたのだ。
 孫伯符の髭には誰も文句を言わなかったじゃないかと抵抗してはみたものの、それも小喬に似合う人と似合わない人がいると言われてむなしく終わったのである。
 それほど髭の似合わない顔だろうか
 むっとして自分のあごをもう一度さすり、そろそろ髭を伸ばしてもいいだろうにと周瑜はひとりでうなずいたのであった。
「都督、甘将軍がいらっしゃいましたが」
 兵士の言葉にうなずいて周瑜は通せと一言返した。
 不精髭の周瑜というものをはじめてみた甘寧は、一瞬まじまじと周瑜を眺めてしまった。
「都督、寝起きでしたか」
 甘寧の言葉に周瑜はふんと鼻を鳴らした。
「ちょっと伸ばしてみようかと思ったんです」
 言ったそばから似合わないと甘寧に言われて周瑜は甘寧の前に腰を下ろした。
「やはり似合わないだろうか」
 周瑜の少し落ち込んだような言葉に、甘寧は似合わないと繰り返す。
「あんたが髭を伸ばしたんじゃどっかのヤワっちいお坊ちゃんにしか見えませんやな」
 それよりはまだ凌統に髭をくっつけた方が人相が悪りいやと頭を掻いて甘寧は唸った。
 凌統よりも似合わないと言われて周瑜はそうかとうなずいた。
 内心面白くもないのだが、これだけの人間に似合わないと連呼されるということは本当に似合わないのだろう。実際には似合っていないわけでもないのだが、しかしやはりどこかのお坊ちゃんにしか見えないという甘寧の言葉は的を得ている。
「ところで都督、できれば俺に夷陵を攻めさせてはもらえませんかね」
 甘寧に言われて周瑜は甘寧の方を見返した。
 夷陵を攻め落とせれば江陵攻めは難しくはなくなる。だが甘寧といえど少数兵ではどこまでできるかがわからない。
 まだ当口令である甘寧の手勢は少ない。
 それよりは手勢の多い呂蒙に任せた方が兵を分割できるのだがと周瑜は思案する。
 周瑜の様子を見て、甘寧は首を振った。
「信頼なりませんかね、それとも俺の手勢が少ないのが気になりますか」
 図星を指されて周瑜は苦笑せざるを得なかった。
「手勢が少ないのが気になる。昨日までは水上戦でこちらに有利な条件がそろっていたから相手に比べて小数でも安心できた。今度は違う。夷陵は山がある。陸上戦の機動力で魏に確実に勝てるとは思えない」
 周瑜の言い分も確かだとは思うものの、甘寧にしてみれば甘寧隊の男たちはそれでつぶされるようなヤワな男どもではないのだ。
「その機動力ですがね、機動力が心配なときには少数の方が動きやすいってこともあるんですが」
 甘寧の言葉に周瑜はちらと甘寧を見た。
「這マ説(ということは)、ニィ有奇計(奇計があるわけか)」
 周瑜に言われて甘寧は首を振った。
「奇計なんてもんはありませんがね、急襲は得意だと自負しとるんですわ。一度勢いでつきぬけて占領しちまうんです」
 大丈夫なんだろうかと周瑜は一瞬不安になった。
 だが甘寧がこれだけ大丈夫だと主張するからには、どこかに根拠があるのだろうと思いなおして周瑜はうなずいた。
「好、交給ニィ夷陵(夷陵のことは任せる)」
 周瑜の力をこめた声に、甘寧は任せろとこちらも力を入れて言い返した。
 甘寧の船が接触したと聞いて慌てて旗艦に乗りこんできた呂蒙は周瑜の部屋の戸口の横で頭を掻いた。
 興覇に先を越されちまった
 こりゃ公績のお守り役から離れらんねえなと呂蒙がため息をついた頃、凌統はまだいかにして甘寧を罠にかけるかを性懲りもなく考えていた。
 そんなことは関係なく、旗艦から足取り軽く渡り板を飛び歩く呂蒙の脳内では今朝方見た地図が描かれている。
 興覇が夷陵を攻めるとして、俺と公績が江陵本隊、魏が夷陵をあっさりと譲り渡してくれるとも思えん。とすると興覇には後詰が必要だが、魏軍の将軍がすでに江陵のあたりにいる以上赤壁の面々だけでそこに陣取っているとも考えがたいか
「小梁!」
 呂蒙の声に小梁が顔を出す。
「来来来!要看地図(地図が見たい)、便玩バ(ついでに遊ぶか)!」
 呂蒙が放り投げては受けとめてを繰り返す手番なしの模擬戦用のコマを受け取って小梁は呂蒙の方を見た。
「中郎将、何をするんですか?」
 小梁の問いに呂蒙はもちろん試しだよと言ってにやりと笑った。
 夷陵を抜けようとする呂蒙のコマの両脇を、小梁のコマが二手に分かれて挟みこむ。
 山側から回ってきた兵士に後ろを取られて呂蒙は顔をしかめた。
「夷陵は平地と山の境なんです。城は平地にありますからね、山から入ったほうが攻めやすいのではないでしょうか。中郎将でしたらどうなさいますか」
 囲まれる
 呂蒙の脳裏に浮かんだ言葉は、呂蒙自身をぞくりとさせた。
「別部に興覇の後詰をさせることはできないのか!」
 叫ぶ呂蒙に小梁が中郎将と声をかける。
「中郎将には別部はありませんが、少数人数であれば人員を裂いて見張りにつけることは可能です」


江陵晩暁3へ続く

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