江陵晩暁


 参軍校尉と呼ばれて魯肅は振りかえった。
 もう柴桑へ着きますという兵士に、魯肅はうなずく。
 参軍校尉というのは総参謀長官を指す。
 この位は呉、これを置くと記載があるから、他の国にはなかったとも考えられる。
 地盤の半分はすでに固まった
 薄く、白い紗のような雲のかかる空を眺めながら魯肅はふんと鼻を鳴らした。
 もうすぐ年が明ける。
 年が明ければ形勢はおそらく魯肅の思い描く天下三分のかたちが出来上がるはずだ。
「黄将軍の傷は深くはなかったか」
 魯肅の問いに、脇にいた兵士がはと答える。
「聞くところでは何とか命に別状はないということです」
 それはよかったとつぶやく魯肅をにやにやと眺める兵士は、下がってから他の兵士に耳打をする。
「本当にボケた人だな、なるほど爺さんみたいだと言われるわけだ」
「言っただろ、ありゃボケだって」
「待て待て待て、ああいうのは怒らせると怖いんだ」
「想像がつかんわ」
「からかってみようぜ」
 ひとりが提案した言葉に、幾人かの兵士の声が好!と小声で叫んだ。
 この日から二日間、魯肅を怒らせることができるかどうかが魯肅の下にいる兵士たちのひそかな賭けの対象になったことを魯肅は知らない。
 当の本人はそののんびりとした様子で人を怒らせることもない。
 ときたま短気な人間を怒らせるのだが。
 どんなにずうずうしいことを言っても怒る人間が少ないというのはひとえにこの男の人徳であろう。
 劉備のもつ人徳とは種類がかけ離れているようではあるが。

 柴桑へ着いてそこからは馬で孫権のところへ行くことになる。
 馬に飛び乗って走らせながら、魯肅は街行く人間を見まわした。
 戦場とは縁のない場所だ
 思ったものの店頭で言い争いをしている男たちに目を止めて、戦と人は無縁にはなれないのだと魯肅はそうでもないようだと思い知らされたのであった。
 子敬!
 字を叫ばれて魯肅が前のほうをのぞくようにして眺めると、前方では一足先に帰還した孫賁が手を振っている。
 魯肅は馬を跳ねさせてみせた。
「将軍が首を長くしているぞ」
 孫賁の言葉に魯肅ははははと笑う。
「馬を置かせたらすぐに参りますので」
 言ってから、魯肅は厩番のほうを見る。厩番は心得ましたと言うように魯肅の馬の轡を手にとって引き寄せた。
 轡を引き寄せられて嫌がるように足踏みをする馬の手綱を引いて落ち着かせながら魯肅は将軍たちの方を眺めて声を張り上げる。
「皆さん先に入っていてくださいな、後から行きますよ」
 孫賁は魯肅という男の豪快さ、もとい図々しさに苦笑してしまった。
 ちきしょう、こいつ主役が自分だってことを知ってやがる
 孫賁の隣に立っていた潘璋が、出陣前から思ってはいたが、やはりあの参軍校尉は変に大胆な男だったんだなあとつぶやいた。
 ちなみにこのとき孫賁は征虜将軍である。建安一三年の段階で「詔を拝し」とあることから、これは呉の内部ではなく、後漢征虜将軍だ。
 馬を置かせて回廊を歩くと後ろから肩を叩かれて魯肅は振りかえった。
「参軍校尉殿にはよくしていただいたと、弟から信をもらいました」
 この兄弟は本当に信をよくやり取りするのだなあと感心して魯肅は傍らを一緒に歩く諸葛瑾の方を見た。
「子瑜兄、どんな感じですか」
 魯肅の決まりきった質問に、諸葛瑾は老様子(変わりなし)と首をすくめる。
「数日ほど前に伯陽将軍や義公将軍がお帰りになりましたでしょう、それで仲謀将軍が子敬はまだ着かないのかと首を長くしておりますよ」
 諸葛瑾の言葉に魯肅は苦笑してしまった。
「先ほど伯陽将軍にも聞かされましたよ」
 孫権の前に出ると、魯肅はまず叩頭礼で孫権に一拝する。それを見てから孫権はにっと口角を上げて魯肅を見た。
「子敬、もし子敬が馬から下りるときに手伝ってやったら功労を誉めたことになるかな」
 悪戯っ子のようにわくわくした顔つきで問いかける孫権に、居並んだ群臣がなんてことを言い出すんだと、あるものは呆れ、あるものは眉を吊り上げた。しかし豪胆な魯肅である。それぐらいの問いに腰が退けるような男でもない。
 小走りに孫権の前に進み出ると、魯肅は大げさに膝をついて拱手を高く掲げて見せた。
 孫権が拍子抜けしたように魯肅を見る。
 群臣はその魯肅の行動に、言葉に対する感謝であると見てそれが普通だとうなずいたものの、次に魯肅が口を開いた瞬間堂下が一瞬にして静まり返った。
「足りません」
 魯肅の言葉に張昭が昏倒し、諸葛瑾が呆れたように首をすくめ、孫賁が爆笑し、呂岱が眉を吊り上げ、賀斎が指を鳴らし、張紘が眉をひそめ、厳シュンが目を多い、歩シツが呆然とし、その他の人間も相応の表情で魯肅を見てしまった。
 当の本人はといえば、普段と変わらないゆったりとした動作で正座する。
「覇業を終えた将軍がいいタイヤのついたクッションつきの安車で迎えに来てくださったら、そのとき初めて私の功労は報われるのではないかと」
 思案顔で言う魯肅に、孫賁がけらけらと笑う。
 孫権も思わず吹き出して、手の甲を何度も掌で打って好!と繰り返す。
「やはり、変な奴だな子敬兄も」
 笑いを収めながら何とか口を開いた孫賁に、横にいた青年が将軍!と小声で孫賁をいさめる。もっとも孫賁はさすがに孫権の従兄で、こういった男を見て笑えるだけの豪快さを持ち合わせている。
「公瑾が聞いたらな、公瑾も大笑いするぞ」
 青年に小声で聞かせて孫賁はまたくっくっと笑った。

 赤壁の開戦を主張して評価を上げた魯肅であったが、これ以降、魯肅の評価が今までのものとは更に異なったものになったのは当然のことである。
 魯肅の要求する安車というのは一頭引きの馬車のことで、草で車輪を覆って衝撃を柔らかくさせ、さらにクッションをつけて、賢士を迎えにやるときによく使うのである。
 つまり魯肅は、自分の功労を評価するのであれば覇業を達成して皇帝になってから賢士として自分を迎えにこいと孫権に言ったことになる。
 度量の小さな男であったら、これは以前魯肅が仕えていたことのある袁術という君主が例に挙げられるだろうが、度量が小さければ怒鳴り散らされた挙句に首も飛びかねないことをさらりと言う魯肅という男に、孫権はあごをなでた。
 安車で来いとはまた、豪気なことを言う男だ
 しかし、それが厭味にならないところが魯肅の非凡なところである。
 ある意味あっけらかんとしているのだろう。
 部屋に戻ってから孫権は魯肅の昼間の言葉を繰り返した。
「皇帝になって安車で迎えに来いか」
 牀に転がって腕枕し、孫権は天井を見上げた。
 魯肅というのが大胆な男であることは確かだが、普段はこんなことは言いもしない男である。孫権は息をついた。
 子敬の冗談というのは何ともはや、人が聞いたら大吹牛(大法螺吹き)にでも見られかねないが
 くっくっと笑って、孫権は牀の上に起きなおしてあぐらをかいた。
 天下を取れと、私が天下を取って初めて自分の労がねぎらわれると言うのか
 笑いを収めてため息をついてから、孫権は首を振った。
「魯子敬よ、おまえはなんつー男だ。俺は皆に天下を見せることができると断言してもいいのか」
 孫権のつぶやいた言葉は、誰にも聞かれることなく空気に溶けた。


江陵晩暁4へ続く

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