江陵晩暁


 手勢数百
 このとき甘寧配下に属している兵士の数である。
 江陵にいる曹仁の勢は却って五千から六千と言われる。
 凌統の兵も決して多くはない。
 潘璋が別部司馬に任じられた時の記録に兵五百とある。また、この後の甘寧の記録に兵三百という記述があることから、おそらくはこのときも甘寧配下の兵士は三百人前後であっただろう。
 赤壁から撤退して西へ、このとき曹操は江陵城を曹仁に任せて帰っている。
 この曹仁が呉軍を見ることを楽しみにしているなどとは、周瑜も思い至らなかった。
 周瑜指揮下にある本隊、つまり韓当隊、呂蒙隊、凌統隊が曹仁軍とにらみ合いをはじめたのは赤壁で派手な火遊びをしてから約一週間ほど後のことになる。
 その間甘寧隊はそのまま夷陵へと長江を上る。
 江陵から夷陵までは早ければ3日ほどで到着する。
 甘寧の船が長江を遡るのを、呂蒙はため息をついて眺めていた。
 曹仁も歴戦の将軍、いくら甘寧が期を読むのに敏感であっても曹仁もそれを見逃しはしないだろうと呂蒙は踏んだ。
 ため息をつきながら甘寧を見送る呂蒙の船の隣では、甘寧の船を小躍りしながら見送る凌統の姿が見て取られ、周瑜が頭を抱えたのは言うまでもなかった。
 甘寧の手勢が少ない上に、凌統がこのありさまでは本隊で頼りになるのは呂蒙しかいない。呂蒙隊とて決して単独行動をして全てが無事で帰ってくるとも思えないのだ。そうなると、甘寧隊を捨て駒にしたようなものだなと周瑜は頬杖をついて息をついた。
 曹仁軍を囲んで脅しをかけながら、夜営では甘寧の消息を待つというのも周瑜はくたびれていた。
 なかなか河向こうの曹仁を完全に落とす目処がつかないままなのだ。
「ツァオレンツァオレン!シァオダングィヅ!(曹仁曹仁!弱虫野郎!)」
 先頭の弓弩隊に叫ばせながら、下で周瑜は歩兵に丸太を担がせて門に激突させる。
「あれが周公瑾か」
 曹仁の問いに横の兵士ははとうなずいた。
 なるほど、一糸乱れぬと丞相が感嘆するほどのことはあるか
 曹仁に感心されていることなど周瑜は関係なく、降りてこいと曹仁に向かって下で挑発的に叫んでいる。
「孫仲謀のような息子が欲しかったとさ」
 頬杖で、周瑜の持久力に呆れたように言う曹仁に、横の兵士ははと聞き返してしまった。
 ご自分の息子にはあれだけの統率力のある将軍の主は務まらんだろうとよ
 曹仁の言葉に兵士は一瞬唖然としたが、その後に続いた言葉に苦笑した。
「どうも俺は頼りないようだな、俺の統率力もなかなかだと自惚れているのだが」
 それはと兵士に返された言葉で、曹仁は自分が今度は苦笑した。
 ふいと曹仁は呉軍とは反対の方へと目を向けた。
 夷陵はどうなっているか

 江陵から舟で強行軍で3日から4日、夷陵とは現在の湖北省宜昌市付近にあたる。
 背後に山を背負った地形は甘寧にいくつもの奇策を考えさせたが、しかしそれは実行されることはなかった。
 囲まれたか
 夷陵は陥落させたものの、ここにきて曹仁軍に挟まれるとはと甘寧は舌を打った。
「糟了(しまったな)、アイ、ゼマバン(どうするか)?」
 いらだっている様子はあるものの、余裕はまだあるとでも言うように膝を手で打つ。
 しばらく考えてはいたものの、也罷(しかたねえ)とつぶやく甘寧に唐虎は首をかしげた。
「どうにか突破を図る。補給線は?」
 聞く甘寧に、唐虎は首を振る。
「魏軍に囲まれているということは補給線が絶たれているということですよ」
 唐虎の言葉に甘寧がうなずく。
「ニィ説(言ってみろ)、我メン是ゼン様的男的ナ(俺たちはどういう男だ)?」
 甘寧がにやりとほくそえむと、回りで士気を落としかけていた男たちが一斉に甘寧の方に顔を向けた。
「なければ奪え、魏軍から物資を奪え!」
 オウッという声に甘寧はにやりとして自分の剣を腰に佩いたが、内心で甘寧が背水の陣を敷いたと唐虎は腹を括る。
 正念場だ、これで持ちこたえられなければ、俺の運も将軍の運もここまでだったっちゅうこったな
 同じ心境の人間はいくらもいるだろうと唐虎は思ったが、それで怖気づいて逃走するような男はこの甘興覇の下にはおらんと思ったことも確かだった。

「ナァ(それでは)、ニィ有辨法マ(おまえには策があるのか)?」
 周瑜に問い掛けられて呂蒙は小さくうなずいた。
 私が興覇の後方援護に立ちます
 言った言葉に周瑜の眉がひくりと少し吊りあがったのを呂蒙は見逃しはしなかった。
「ではここは?」
 周瑜の問いに呂蒙は小さく下唇を噛んでから息をついた。
 少し呆れたように別の幕舎の方へ目を向ける周瑜の様子では、同じことを考えたのだろう。
「ここは、江陵は凌公績に守らせます」
 呂蒙のなにか決心したような強い言葉を耳にしてなお、周瑜は口元を片手で覆いながら眉をひそめていた。
「凌公績で、江陵を押さえきれると思うか」
 周瑜の疑問に、呂蒙は指を交差させて見せる。
 十、と周瑜がつぶやく。
「十日間、この十日間が山というところでしょう。ここから夷陵まで、強行軍で三日から四日、魏軍を脅して甘興覇を囲みから抜けさせたら勢いで戻ります」
 一週間、とつぶやく周瑜に、やらせますよと呂蒙が顔を上げた。
「それぐらいはやらせます。あれとてここで俺がいないぐらいで踏ん張れない程度なら都尉から上がれませんでしょう。いい機会です。十日間で必ず戻りますから」
 呂蒙の言葉に周瑜は唸った。
 凌公績が納得すればよいが
「いいだろう、十日間で帰って来い」
 周瑜の口から強く発された言葉に、呂蒙は弾かれたように上体を起こした。
「都督、ニン放心(ご安心を)!」
 答えて呂蒙は周瑜の幕舎を後にする。
 その行く先に、周瑜よりも先に説得しなければならなかったものが待ち構えていることも忘れたままで。

 ニィ不必要幇助他バ(助けなんか要りませんよ)
 凌統の言い方に、呂蒙はひくりと眉が吊りそうになった。
「公績、我知道為了ニィ父親的報仇ニィ這マ説(親の仇のためにそう言うのはわかる)。ニィ知道若我不去救興覇的話、有ゼン様的結果マ(もし俺が興覇を助けに行かなければどういうことになるかわかっているか)?」
 他被殺罷了(あいつが殺されるだけだ)
 目を合わせることなく苦々しく言う凌統に、呂蒙は腕組みして椅子に腰掛けた。
「不対(違う)」
 呂蒙の言葉に凌統はふんと鼻を鳴らした。
「公績、おまえは同じ軍の将軍を見殺しにしようと言っているわけだ」
 凌統の不服そうな顔に、呂蒙は呆れて歯軋りする。
「俺はおまえに同情なんぞしてはやらんぞ」
 言い放つ呂蒙に、凌統は目をそらしたままで膝に頬杖をついている。
「同情なんかいりません。俺は親父の仇は討つと親父の墓に誓ったんです。それはひるがえせませんから」
 こりゃ興覇パパは報われんなあ
 内心で呂蒙は嘆息した。


江陵晩暁5へ続く

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