江陵晩暁


 魯肅はちらちらと燃える燭の火を消して横になる。
 周りでは赤壁の大勝に酔った男たちが持久戦にいらいらし始めている。
 前回は天地人全てが呉に勝利を与えたのだと魯肅は言いたい。
 南方制圧から戻った賀斎が、にこりと笑って言ったことがある。
 自分で戦に出るわけではない奴らのほうが敵よりもよほど残酷だ
 それは確かだ。
 赤壁で勝ち戦を収めて以来、巷の男たちが吉報を待ち望んで話しに花を咲かせる。
 呉とは古からそういう場所だ。
 どこの国でもそうだが、自国の武勇は人に活気を与える。
 活気は人の自信となる。人の自信はおのずと戦う人間に武勇を奮い起こさせる。
 勢いがつく。
 戦に勢いは必要だ。
 しかし武勇だけではどうにもならない戦というものがある。
 孫権の祖であるという孫子は兵家の先駆者であり、今や古今比類なき孤高の軍事家である。
 その軍事家は、柔よく剛を制すという戦法を戦場で繰り広げた。
 上策は戦わずして勝つ、魯肅は自分に言い聞かせる。同時に彼は、今後自分は上策を以って孫権を奮い立たせることができるだろうかと自問する。
 もっとも祖が偉大な軍師であるわりに、亡父や兄弟は策略という言葉に縁がないような気がしてならないのは魯肅の気のせいだろうか。
 持久戦に持ち込み、曹仁の出方を待つと周瑜は言う。
 曹仁軍を睨みつけて腕組みをする周瑜の姿が目に浮かび、魯肅は苦笑した。
 曹仁がどこまで持たせるか、それが見ものだ
 底意地の悪そうな光を瞳に浮かべてから目を閉じると、赤壁の光景が脳裏をよぎった。

 まぶたの裏で真っ赤に燃え上がる炎が船を取り巻く。
 敵艦を指揮していたのは白皙の公子と呼ぶに相応しい男だった。あれが江東の美周郎だとすぐに見当がつく。
 ああいう男を従えている青年とは、一体どのような男か
 曹操はじっと腕組みをした。
 孫堅と曹操の年齢は変わるところがない。
 ならば孫権という青年は自分の息子程度の年齢の青年なのだ。
 曹丕と同じか、或いは曹植と同じぐらいの年齢か。
 ひとつ大きく息を吸って曹操はため息をつく。
「やはり、孫仲謀のような息子が欲しかった。あれほどの息子が後を継ぐのだ。父も誇りであろうな」
 傍らで聞く程cが唇を湿らせた。
 曹家の息子たちとて劣るところはないと程cは見ている。
 後継は曹丕か曹植か、魏の家臣たちは迷っている。
 赤壁にも程cと共に軍師として従軍した荀攸は曹丕を推している。
 果断の将軍も、息子には甲乙つけがたいかと程cは唸るが、孫権と比べたときには曹操自身が親だからこそ息子たちに不安な部分があるのかもしれない。
 息子たちをまだ子供だと思っているのだ。
 付け加えて孫軍にとなると、魏軍は赤壁で敗戦し、曹仁が江陵で苦戦を強いられている。
 兄の死に際して怯えるわけでもなく、曹操から忍従を勧告されたときにも敢然と抵抗して呉軍を従えてきた少年は、いつの間にか江東の獅子に変貌したようにも思える。
「仲謀のような息子が欲しかったが、それは叶わない望みだな」
 曹操がもう一度つぶやく。
 程cは拱手して面を伏せた。
 だがと曹操は続ける。
「周公瑾はこれからでも手に入るだろうが」
 荀攸がさてと小さく返す。
「周家の男、あれは従えるのは難しい暴れ馬ではございませんかな」
 暴れ馬
 荀攸の言葉を程cは内心で繰り返す。
 ふいに口を開いたのは蒋幹だった。
「周公瑾とは、盧江の周瑜でしょう」
 普段あまり重要な場所で口を開かない男が口を挟んだことに、程cは目を眇めた。
 蒋幹という男は、程cのような長身の持ち主でもない、とりわけ目立つという特徴のあまりない男で、議論に横槍をはさむこともあまりないのだが、今回だけは違ったようである。
 曹操に確かめてから、蒋幹はふと顎に手をあてるような仕種を見せた。
 つぶやくように、それならばと言って目を伏せて、蒋幹がしっかりと顔を上げる。
「周公瑾の件、私にお任せいただけますでしょうか」
 徐庶が顔をしかめる。
 また拉致まがいのことをしでかそうと言うのか
 徐庶の心中を知ってか知らずか、蒋幹は自分を睨みつけている徐庶をちらりと見やってコホンと咳払いをした。
「我呀、還没有説用奇策奪到他来呀(まだ奇策を使って彼を連れてくるとは言っていませんよ)」
 今度は程cがじろりと蒋幹を睨む。
 居心地が悪そうに、蒋幹はつぶやいた。
「私は南の出身なんです」
 徐庶が、それぐらい知っていると口の中で転がす。蒋幹の船の知識は純粋な北の人間より少しばかり詳しい。曹操よりもいくらか南の出身だということはよく知られている。舒県の出身だ。
 そこで少しひっかかり、徐庶は首をかしげた。
 蒋幹が小さめの声で続けた。
「盧江の出身です。公瑾は同門の友人です」
 なるほどと程cは呆れたようにつぶやいた。

 まだ篭城してやがる
 呂蒙がいらだたしげにつぶやくと、馮栄が呂蒙の牀の上に広げられた書簡を巻きなおしてトントンとそろえた。
「よろしいではありませんか。相手はそのうちに食いつなぐことが難しくなります。敵方が焦ればよろしいことで、あなたが焦れる必要はありません」
 曹仁軍との持久戦は半年も続いている。
 その間に呉軍は曹仁軍の勢力の半数を削いだ。
 幕舎の帳を広げてひょこっと顔を出した少年に、呂蒙が顔を引きつらせる。
「公績」
 呂蒙の語気が険悪なことに凌統は気づいているのかいないのか、頭を掻きながら暇なんだと言ってのける。
 図太さだけは、甘寧が一丁前だと褒めるだけのことがあるらしい。
「持ち場を離れるな」
 呂蒙に言われたものの、凌統は鼻を鳴らしてため息をついて見せた。
 さっきまでの自分と同じように凌統も持久戦にだんだんと嫌気が差してきていることはわかる。ただ陣中をふらふらされると困る。
「自分の陣に戻りなさい」
 呂蒙が凌統をたしなめる口調が、どことなく周瑜が呂蒙を諌めるときに似ていることに馮栄が破顔した。
「いつまでこうしていりゃいいのさ、あいつらまだ立て篭もってやがるのに」
 凌統が愚痴をこぼすのを見て、呂蒙はばつが悪そうに頭を掻いた。
 こいつときたら、さっきの俺と同じこと言ってやがる
 後ろで馮栄が笑いを堪えているのがわかる。
 馮栄が押し殺したように咳払いをするときは、笑いたいのを堪えているときだ。
 同じ頃、本陣で同じことを周瑜が程普に愚痴っているとは呂蒙も馮栄も思わなかった。
 退屈そうな周瑜を前に、程普は呆れた。
 ついこの間の勢いとはえらく違う
 友人同士というのは似るものなのだろうか、周瑜のすね方はどこか孫策のすね方に似ていた。
「あちらさんの兵糧ときたら、まだ残ってるらしいじゃないですか。せっかく曹仁が出てきたときの手はずも整えてあるというのに」
 まるで相手が双六のサイコロを投げないことにでも焦れているような口ぶりで言う周瑜に、程普は肩をすくめた。


江陵晩暁14へ続く

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