江陵晩暁


 そろそろ兵糧が尽きてきただろうか
 そう言う凌統に、呂蒙がせっかちな奴だなあと呆れたように言う。
 横で見ている馮栄は苦笑する。
 毎日同じことを言って、よく飽きないことだと言いながら馮栄が呂蒙の春秋を片付けるという光景が最近では彼らの日常になっている。
 時折、甘寧がふらりと顔を出して呂蒙の春秋を適当に眺めていくこともある。
 面白くもない戦況が続いている。
 周瑜はじっと腕組みをして城を眺めている。
 それを見ながら程普は首を小さく振り、それから真っ青に晴れた空を見上げた。
 呉軍には輜重が食糧を頻繁に運んでくるが、食糧と一緒に運ばれてくる苦言にも一理ある。勝っているからこそ民衆から批難されることがないのだ。
 負けて帰ることはできない。
 呉軍の泣き所だ。
 ここに来ている兵士のほとんどが正規兵の中の精鋭兵だが、中には徴兵されてくる者もいる。呉の軍制では大軍投入の場合の兵士ほとんどを徴兵で補う。食料もやはり民衆から徴収するのが主である。お坊ちゃん育ちの周瑜がそこまで考えているかどうかわからないが、一年を超えるような戦をすることができないということぐらいはわきまえているだろう。
 陣中を見回ると、この持久戦に兵士も苛立っているのがわかる。
 周瑜が隣でひとつ息をついた。
「日が真上にきたら、一度こちらから仕掛けましょう」
 陣中で鼓角が鳴らされる。
 凌統が跳ね起きた。
「戦だ!」
 跳ね起きた凌統に、馮栄が怪訝な表情を向けたのを呂蒙は見逃さなかった。馮栄という男はまったく軍人に向かない男だということが、呂蒙が持久戦の間に知ったことのひとつである。戦になれば民が苦しむ、兵士の家族は泣く、兵士は命がけで戦う、民を苦しめず、兵士の家族を悲しませず、兵士を殺すことなく、そうして勝つのが上策だと古人は言うのだというのが最近では馮栄の口癖だ。
 帳を勢いよく開いて呂蒙の幕舎を飛び出し、自分の陣へと戻る凌統の後姿を見ながら馮栄が顔をしかめているのを眺めながら、呂蒙はため息をついた。
「あの少年は、戦をお遊びだとしか思っていないのでしょうか」
 戦甲を整えながら、兵士に具足をつけてもらっている呂蒙のほうへ馮栄がぽつりとこぼした。呂蒙は戦甲を帯で締め付けながら馮栄のほうを振り返りもせずに返事を返す。
「公績は、戦を遊びだとは思っていないだろう」
 この答えに馮栄は満足しなかったようである。
 不思議そうな顔で、揺れる帳を見つめる馮栄に呂蒙は続けた。
「公績の父は戦で殺されている。あれの父親の凌校尉というのは立派な将軍だったが、運が悪かった。公績は戦で家族を失う辛さを知っている。だからこそ武功で親のようになろうと憧れるのだろうし」
 今度は馮栄は帳をちらりと開けて凌統の走り去ったほうを眺めた。
 凌統が陣中を駆けずり回ってあれやこれやと大声を張り上げている声が聞こえる。
 具足を整え終えた呂蒙が陣へでようと帳を開き、馮栄と肩を並べてつぶやいた。
「公績の父親は戦で死んだ」
 呂蒙の横顔を、馮栄が捉える。
「それはうかがいました。だからといって凌将軍が暴れん坊の子供だという認識は変わりませんが」
 呂蒙が馮栄を見て少し寂しげに笑った。
「うん、確かに暴れん坊の少年に違いない」
 呂蒙は続ける。
「戦で家族を失った人間は、相手を殺したいと思うのが普通だよな」
 馮栄が眉を寄せた。呂蒙の言葉は重い。
「父親を戦で亡くしたのであれば、ああいう少年は相手を八つ裂きにしてやりたいぐらいの思いに駆られるのでしょうね」
 馮栄の肩を軽く叩き、呂蒙は深呼吸をした。
「あいつの親父さんを殺したのは興覇なのさ」
 言ってから呂蒙がちらりと馮栄を見ると、少しばかりうつむき加減になって馮栄が頭を掻いている。
 凌統が勢いよく開いて出て行った幕舎の帳を、今度は呂蒙が勢いよく開く。
 左右の兵士が呂蒙を見る。
「この間死んだ兵士の仇を取るぞ!」
 呂蒙の言葉に兵士たちが、おおっと声を張り上げる。
 男たちの割れるような喚声が、呂蒙の後姿を隠した帳越しに聞こえる。
 椅子に座り込んで馮栄は春秋をからからと音を立てて広げた。広げたものの、春秋に目は通さずに馮栄は考え込んでしまった。

 太陽が中天にかかる。
 呉軍の鼓角が高らかに開戦を告げた。
 晴れ渡った空の下、荊州城の門が開いて曹仁軍の兵士たちが鬨の声をあげて抗戦に出る。
 人馬入り乱れるとはこの光景だろう。
 将軍たちが白刃を翻す。
 砂埃を上げて騎馬兵が打ち合う。
 金属のぶつかり合う音が晴天にちりばめられる。
 軍馬の中を一際目立つ漆黒の馬が走りぬけ、その馬をめがけてもう一頭見劣りのしない堂々たる栗駒が走り抜けた。
 漆黒の馬を見つけて、陳丹は一瞬目を疑った。
 脇から切りかかってきた剣を盾で防ぎ、盾を横にして下から自分の剣をなぎ払う。相手の血が返ってきて、陳丹の頬にかかった。はじめは吐きそうにさえなった血の匂いだったはずが、今では慣れてしまったのだろうと自分で呆れるほどに陳丹は冷静でいられた。
 ぐっと首をもたげて前方を見ると、やはり自分が手入れをしていたはずの黒龍が目の前を駆け回っている。
「あの将軍、自分で出てきやがった」
 多少の驚きのほかに、陳丹は鼓動が弾むのを感じた。
 黒龍を操りながら、周瑜は足元に群がってくる兵士や向かってくる騎馬兵をなぎ倒す。
 どこに誰がいるのかすらも、この戦場では区別がつかなくなってきている。
 入り乱れる人馬の中に、どれだけの将軍がいるのかも判別ができない。
 兵士を鼓舞するように城門を突破しようという勢いの黒龍の前方を栗駒が塞ぎ、黒龍の馬首を返して周瑜は馬を跳ねさせた。
 城壁の上から矢が飛んだ。
 近づきすぎた
 周瑜が目を見張る。
 鈍い衝撃に貫かれ、周瑜は唇を悔しげに噛んだ。

 陣中で周瑜はふんと悪態をついた。
 目の前には程普が腕組みをしている。
「今日は城門突破できるかなと思ったんですけれども」
 周瑜の言い訳に程普が怒鳴った。
「這個混蛋(このバカ)!」
 程普の怒号に身を反らしたのも束の間、軍医の林斯が手ぬぐいを酒に浸して周瑜の傷口に当てると、周瑜は喉に声を詰まらせて膝頭に爪を立てた。
 言って林斯が傷口を小さく切って広げ、手際よく鏃を穿り出して林斯はもういちど周瑜の傷口に酒浸の手ぬぐいを当てる。
 切り傷よりも傷に染みる酒のほうが痛いと、戦傷を作る度に周瑜は思う。
 消毒をしてから傷薬の膏薬をたっぷりとつけた手ぬぐいを傷口に当て、林斯はぐるぐると包帯を周瑜に巻きつけると、しばらく安静にすることと言い置いて幕舎を出る。
「おい!しばらくってどのぐらいだ?」
 周瑜の大声に林斯は帳から顔を覗かせて「傷がふさがるまでです」と言うと、負傷兵は将軍だけではないのですからねと言って帳を閉めた。
 藪医者!と言う周瑜を、程普がじろりと睨みつけた。


江陵晩暁15へ続く

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