江陵晩暁


 小僧どもにしてやられた
 曹仁は唇を噛む。
 呉の小僧どもが赤壁で調子をつけてから、江陵で対峙するようになって一年余り。これまでに数十合の干戈を交えて、曹仁の手勢は半数以上を失った。
 なるほど、孫権のような息子が欲しかったと言うが、確かだ。そして、周公瑾を手に入れたならば、幸福であろう
 曹操の言い分には曹仁も納得するが、ここで、手勢の半数以上を失った曹仁には、周瑜も程普も、敵軍の天晴れな将軍であり、自分が投降することもなければ、相手が投降するはずもない「敵同士」である。
「所詮は、捨て戦。死ねば損。まあいい、もう一度、周家の小僧に一声かけてやれ」
 見たところ、開かれた陣門の向こうに周瑜らしき青年の影がない。
 朝廷で重責を担っていた周忠という男の遠縁だと言うが、周忠とは似ていないように曹仁には思える。周忠は生粋の文人であり、周瑜は見たところ生粋の武人だ。
 周忠と周瑜で近いところがあるとすれば、お行儀のよいところだろうと曹仁は見る。
 あの周忠という男は、お行儀がよく、品行方正な男だった。清流派というわけでもないが、汚職に手を汚すようなところもない。軍を動かすときの周瑜も同じだ。一糸乱れぬほどの統制で数万の軍を動かす青年。几帳面な性格なのだろうが、軍というものは、一糸すら乱れてはならぬものだと曹操も常々言うが、その手本のような男だ。
 曹仁が手を軽く上げる。
 ドンッドンッドンッと軍鼓が鳴らされる。
 軍鼓を三回鳴らされれば、旗に従って前進。
 魏軍の全てに、この軍令は一定である。
 両脇の騎馬兵が前進する。

 一方の呉軍だが、こちらも軍鼓を鳴らす。
 数万の軍と、数百、或いは数千の軍のぶつかり合いだ。
 どちらが有利か、目に見えている。
「弔い合戦だ。この戦で失った兵士に九泉の下で会ったときに、おまえのしたことは無駄ではなかったと胸を張って言ってやろうではないか」
 呂蒙が声を張り上げる。
 戦甲を着込んだ馮栄が、横で唇を噛締めた。
「公潤、おまえは納得がいかんかもしれんが、これが本物の戦だ。春秋経も或いは残酷な記述が簡単になっているだけで、鄭公だろうが桓公だろうが、戦では兵士の血を流したはずでな、俺が思うに、五覇なんぞと祭られるような奴らだって、兵士をいくらか犠牲にして、その地位にいた。九泉の下で出会ったときに、我が軍はおまえのおかげで勝ったのだと報告してやる。死んだ兵士に報いる方法は、俺にはこれしか思いつかん」
 ふんと呂蒙は鼻を鳴らした。
 九泉とは、黄泉のことを言う。死んだ人間に報いることのうち、自分に思いつくのは弔い合戦だと言う呂蒙に、馮栄は顔をしかめた。
 同じところで、似たようなことを言うのが甘寧なのである。
「春秋のころの弔いの踊でもないが、思い切り暴れてやるがいい」
 その脇で、呂範が大声を張り上げる。
「逃げたものは罰則が待っているからな!」
 そう、呉軍で一番怖いのは、脱走兵問題であった。
 ドンッドンッドンッと軍鼓が鳴らされる。
 呉軍から、耳が張り裂けんばかりの鬨の声があがる。
 同時に曹仁軍も、喉も裂けよとばかりの鬨の声があがった。

 軍鼓を三度で前進。
 弓弩兵がまずぶつかる。
 次の三度で前進した騎馬隊の、入り乱れて走り回る馬のために、砂塵が巻き上がって敵陣は見えなくなった。
「おまえさんにゃ恨みはねえが、こちとら生業だ」
 甘寧の声が、軽やかな鈴の音と共に聞こえる。
「呉の将軍は血気盛んだな」
 くっくっくと曹仁が笑う。
 将軍が飛び出そうものなら、魏軍では罰則が待っているのだが、呉軍ではそうでもないらしいと思ったのだ。
 悲鳴と怨嗟。
 戦についてまわるものだが、馮栄はその匂いに吐き気がした。
 目の前で血飛沫があがる。
 闇雲に剣を振り回すほかに、自分にできることはない。
「自分のことは自分で守れ」
 呂蒙が近くで声を張り上げているのが聞こえる。
 傷口を固定した周瑜が陣門から飛び出す。
「南門を奪え!」
 軍鼓が鳴らされると同時に、呉の旗が、周・程・呂・甘・凌などの旗がいくらか、南門に向かって移動を始めた。
 陳丹の目に、砂埃にまみれながら南門へと剣を振るう周瑜の姿が入った。
「あの人はきれいな顔して根っからの戦好きだ!どうしようもねえや」
 陳丹の言葉など、怒号と罵声が飛び交う戦場の中で走り回る周瑜に聞こえるはずもなかった。
 砂煙が晴れて、曹仁はいくらか年輩の男を見つけた。
 自分の軍の男ではないのだから、呉軍の男なのだろうと見当が付く。
 呉にも、分別のありそうな男がいたか
 まじまじと男を眺めたところで、男と目が合った。
 はじめて間近に見たが、あれが敵の将軍か
 程普はじっと曹仁を眺めた。
 その瞬間だけ、いくらか時間が短いような気もしたが、一瞬だったのだろうか。互いに武器を翻した時には、相手の姿は砂塵に消えていた。
 南門を背後にしていた曹仁が、不意に軍令の旗を揚げた。
「銅鑼を鳴らせ」
 曹仁の声が響く。
 銅鑼を三回。
 撤退の合図だ。
 魏呉どちらの兵士も、満身創痍で立っているが、その場に残ったのは呉の兵士で、魏の兵士は曹仁の軍令に従って旗の方向へと移動した。
 血と泥まみれの顔を、血と泥だらけの手で拭うが、結局のところ血も泥も落ちない。
 南門を突破した呉軍兵士が城壁の上から喚声をあげる。
 上を見上げてから、馮栄は地上に目を戻して呂蒙を探し、それから甘寧と、ついでに凌統を探す。足元に人の腕が転がっていることに気がついて、馮栄はくず折れた。朝の粥が胃酸と一緒に喉元まで逆流する。
 鄭公だろうが桓公だろうが、呂蒙の言うとおり、戦を避けて名君と呼ばれた者はいない。
 だが戦とは、これほどに人の命が軽くなるものなのだ。
 倒れている兵士に向かって、どの将軍も丁寧に声をかけて歩いている。
 よくがんばったな、
 歩けるか、
 おまえ、魏の兵士か、
 傷は深いか、
 子供の顔を見に帰るんだと言っていたのは、おまえだったな、
 大手を振って帰るぞ、
 将軍たちを眺めてから少しばかり前のめりに崩れ、手をついた先に柔らかいものを触った馮栄は、今度こそ胃酸を吐き出した。
 呂蒙の目が馮栄のところで止まる。
 あいつは生き延びたか
 安堵が呂蒙の表情に浮かんだ。
 悲鳴を上げる口を、血まみれの手で押さえたのは周瑜だ。
「無茶をなさいますなと申し上げました」
 ぶっきらぼうに言う林斯を、周瑜は涙目で睨みつけた。
 温めた酒を傷口に思い切りぶっかけられて悲鳴を上げない者はない。
 ともあれ、呉軍の将軍や兵士が大手を振って帰ることのできるという事実は変わらない。
 戦傷を作って帰るのだから、勲章を残して帰るようなもので、周瑜はすでに、帰宅後の妻との会話を想像している。
 生きて帰るのだから、しばらくの間、夫婦の主導権は自分が握ったようなものだ。
 妻に会ったら開口一番に、きちんとこれだけ言わなければならない。
 死ぬかと思った


江陵晩暁17へ続く

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